高真佐利原(たかまさいばる)
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那覇市の上之屋(うえのや)という場所に高真佐利原という高台があります。
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現在の高真佐利原は公園になっています。
公園は高台の下に小規模な広場があって、そこに遊具が設置されています。高台の場所は遊歩道があって中を散策する事ができます。
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高真佐利原の奥に行くと屋根のある拝所が見えてきます。
そこは與那覇勢頭豊見親(よなはせどとみおや)逗留の碑という石碑が建っています。
市指定文化財史跡に指定されています。
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この石碑は以前は畑の中にあったという事です。石碑は戦争で破壊されたので、保存していた文章を復元にあてて完成しました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20131113/14/quox-umiyamagusuku/28/25/j/o0640048012747976616.jpg?caw=800)
石碑の左側に拝所がありました。
この石碑についての話が伝わります。
與那覇勢頭豊親は宮古島の人で、幼名を真佐久(まさく)と呼びました。
彼が生きていた時代、宮古島は戦乱の中にあったので、時の王であった察度(さっと)に会って宮古島の事情を説明しようと1390年に船から沖縄本島へやって来ました。
豊見親は察度の面会を許されて宮古島の状況を説明しますが、本島と宮古島の言葉が違っていた為にお互いの意思が通じませんでした。
察度は現在の石碑がある場所に邸宅を与えて、こちらの言葉が通じるまで待ちました。
それから3年。ようやく言葉を覚えた豊見親は察度に宮古島の事を話し、察度も宮古島から来た豊見親を労って酒宴を設けて、宮古島の首長に任命しました。
その豊見親の邸宅跡を子孫の人が逗留地として石碑を残しました。
一方で他の話もあります。
察度王の時代に宮古島から仲宗根豊見親(なかそねとみおや)という人物がやって来て、本島の海の近い丘に3年間住んでいました。
その仲宗根豊見親の従者に高真佐利屋(たかまさりや)という人物がいました。
彼は毎日丘に登って故郷の宮古島を想って涙しました。
その話からこの丘を高真佐利原と呼ぶ様になったといいます。
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現在は高い建物ができたので海が見えませんが、那覇市の泊(とまり)という地は港として今日まで機能してきました。
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