謝名利山(じゃなりざん)の墓 | 沖縄の裏探検

謝名利山(じゃなりざん)の墓

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那覇市の識名(しきな)に謝名利山という人物の墓があります。
県内では謝名親方(じゃなうぇーかた)の呼び名で有名です。
彼は1549年に久米村(くにんだ、現在の那覇市久米)に産まれました。
16歳で明(中国)へ留学し、帰国後は進貢船の通訳である都通事(とつうじ)を始めに次々と出世しました。
後年、久米村の総理唐栄司(そうりとうえいし)という久米村の村長みたいな職に就いていた謝名はその器量を認められました。
そしてある事をきっかけに三司官(さんしかん)という王を補佐する士族の最高位の職に就任します。

ところが1606年、薩摩が3000の兵を引き連れて琉球を攻撃しました。

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一説によると謝名は久米村にある天妃グスク内に立て籠り、薩摩軍に抵抗したとされています。
しかし戦記を記したいくつかの文献に矛盾や全く違う内容が書いてあるので、天妃グスクでの攻防は定かでありません。

薩摩は1ヶ月で琉球を制圧し、当時の尚寧(しょうねい)王が捕虜として薩摩へ連行されました。謝名も捕らわれて薩摩へと連行されます。
後に尚寧王は江戸へ連行され、徳川家康や秀忠に謁見します。
謝名は尚寧が薩摩に戻るまで幽閉の身となりました。

1611年。薩摩は尚寧と臣下に対して帰国の許可を出しましたが、その際に薩摩への服従を誓う起請文という書面に署名と捺印をする様に迫ります。

しかし謝名一人だけは署名を拒みました。
尚寧は懸命に謝名を説得しましたが、彼の決意は固く遂に処刑が決定しました。
そしてその年の9月19日に薩摩で斬首となりました。

勝った側の書物の記録では謝名を『大和(日本)の事を知らないばかりに、琉球國を戦乱に導いたのは謝名であり、その上に佞人であった』と書かれました。

起請文に署名をすれば帰国できたにも関わらず、謝名は政治家、武人として最後まで気概を見せつけたと愛国者であったと思われます。

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那覇市久米(くめ)の隣の若狭(わかさ)という地域に旭が丘公園があり、頂上付近に謝名の顕彰碑が建っています。
そこには彼の功績が刻まれています。