一日橋(いちにちばし) | 沖縄の裏探検

一日橋(いちにちばし)

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那覇市と南風原(はえばる)町の境界に国場(こくば)川があり、その国場川に架橋されている橋が一日橋です。

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ここは昔から今日まで南部地方への交通の要所で、現在も交通量の多い場所です。

その一日橋に一つの由来話があります。

一日橋は昔は識名(しきな)橋と呼ばれていました。
当時の王であった尚真(しょうしん)王の養父であった花城親方守知(はなしろうぇーかたもりとも)が病で死を悟り『死後は産まれ故郷の具志頭(ぐしかみ)にて葬儀をして下さい』と王へ遺言しました。

その後、守知は死去し尚真は遺言を実行しようとしましたが、大雨で国場川が増水して識名橋は流されていました。
尚真は人夫を集めて急いで橋を修復する様に命じます。橋は一日(二晩)で修復して、守知の遺体は具志頭へ帰りました。
それから識名橋は一日橋と呼ばれる様になり現在に至ります。

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八重瀬(やえせ)町具志頭(ぐしかみ)集落の外れに守知と父である南風原按司守忠(はえばるあじもりただ)の墓が現存します。

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集落の中には父子の住居跡が残されています。屋敷跡の中には位牌があります。

守知の父である守忠は南部地方を支配していた山南王の他魯毎(たるみぃ)の弟です。
守忠は兄が中山王の尚巴志(しょうはし)に攻められた時に敗れ、具志頭の安里大親(あさとうふうや)の元へ逃げて来ました。
安里大親は彼を匿いましたが、追手の存在を知ると守忠を北部の久志(くし)村汀間(てぃま)へ逃がしました。

後年、守忠は安里大親が気がかりで再び具志頭へ戻りました。安里大親は守忠を養子として迎え娘の婿にしました。
そして守知が産まれました。

尚巴志の王統が滅び守知は尚円(しょうえん)王から赤ん坊の養父に抜擢されました。
守知は自らの出身が山南王の甥である事を明かして一度は辞退しますが、尚円は尚巴志の王統と敵対した一族を登用して周りを固めていたので守知を養父にしました。
その赤ん坊が尚真となり王位へ就く事になりました。