訪問日 2012年5月27日(日)



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先日三浦での笠懸見物の記事をUPしましたが、その際に

一緒に見てきた新井城址についての記事です。


徒然草現代版by Vamos~時事問題からサブカルまで、ワタシVamosが徒然なるままに語ります~

ここが荒井浜や東大附臨海研究所の入り口となる地点。

道寸祭りの際はいつもこうした幟が出ています。


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新井城址があるのは、この地図上の東京大附臨海実験所の周辺。
通常この東京大附臨海実験所は立ち入り禁止になっているのですが、


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この日は特別に「道寸祭り」に連動して臨海実験所内にある空掘の

一般公開があったので、わざわざこの日は三浦まで出向いたのでした。

現地で「三浦道寸研究会」なる団体が作成した資料をもらいました

ので、以下はそのプリントの内容を丸々コピーしたものです。


>新井城と三浦道寸.荒次郎


新井城

元弘二年(1332)頃、三浦介を継ぐ三浦時継が当時の世情の

動揺に鑑みて将来に備えて海陸両用の作戦に至便の地として

この城を整備しました。南は油壺湾、北は小網代湾、

西は相模湾に面し断崖峻険にして自然の要害で引橋(内の引橋)だけで

場外と繋がっていました。自然を利用した比類ない堅城でした。
1247年宝治合戦で滅びたかに見えた三浦一族は佐原氏系統が

生き残り、次第に三浦氏は小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏と

姻戚関係を結びつつ勢力を復活させ相模から三浦半島を治める

大きな勢力に復活しました。


三浦道寸(義同)
世は下克上の戦国時代を迎えようとしていました。その時の

三浦介義同は母の実家小田原城近くの岡崎城(現在平塚市)で

三浦領の西を守っていました。
義同は器量優れ才覚も勝っており家臣から慕われていました。
これを目ざわりとしたのが相模一帯を己の支配下としたい

野心を持った老獪な伊勢新九郎長氏でした。後に北条早雲と

世に名を知らしめることになる伊勢新九郎は巧みな奇襲作戦を

駆使し謀略をめぐらし小田原城、岡崎城を次々に落として

三浦道寸(義同はその頃は出家して道寸と名乗っていました)率いる
2000騎を追い新井城手前の引橋(外の引橋)まで追い込みました。

三浦一族は城内に入り引橋を引いてしまいました。これには

伊勢新九郎も手が出せず力攻めは無理と考え鎌倉に玉縄城を築き
三浦一族の援軍を防ぎ、引橋の前に陣を張り籠城攻めという

作戦をとることにしました。

三浦荒次郎(義意)と新井城の落城

孤立した三浦一族は三年の籠城によく耐えましたが遂に食糧も

尽きて永正13年(1516)年七月十日の夜一同最後の宴をして

十一日の朝城門を開いて打って出て一族は滅びました。

最後の戦は凄まじく湾は油のように血のりで染まったという

伝説があり油壺とい名前が出来たと言われております。

最後の宴の時、逃げたい者は逃げろと道寸は言いましたが

この切羽詰まった状況からも城を落ちたものは一人もおらず

一同運命を共にしました。

背が高く器量に優れた三浦荒次郎はその勇壮さですでに

名を知られていましたが父の切腹を見届けた後、敵陣に突入し

21才の若さで討死しここに450年三浦を治めた名門三浦氏は

滅びました。

しかし三年間の長い籠城の間、一人の裏切り者も出さなかった

ということは道寸、荒次郎親子の人間的な魅力があったことを

物が立っているのではないでしょうか。>


ちょっと細々とした点ではツッコミどころがありますが、

気にしない気にしない。要するに戦国時代初期に三浦氏

は伊勢新九郎(いわゆる北条早雲)に滅ぼされてしまったの

ですが、最後の当主であった三浦道寸の指揮のもと

この新井城にて約3年間という長期籠城戦を戦ったという

なんとも凄まじい逸話があったわけですね。


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こちらは三浦道寸研究会の作成資料の裏側部分をスキャン

したもの。新井城址の見取り図や各名所の簡単な解説

などが書かれています。

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これが空掘跡。真ん中の道みたくなっているところが掘り下げられた

堀の底で、右側が掘った土を盛り上げた土塁となっていました。

この新井城の落城は永正13年(1516)となっています。

当時の城には石垣や水堀など無く、空掘と土塁が防御施設の

基本です。だから江戸時代以降の近世城郭(松本城、彦根城、

姫路城みたいなやつです)とは全くの別物でありますので、

そのあたりをご注意ください。

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空掘の向かい側は御殿跡。ここにあった御殿には三浦氏最後の当主

道寸やその家族が住んでおり、その御殿周辺にも空掘が巡らされて

いました。この辺りが現在は東大臨海実験所の敷地内となっている

ので普段は見学不可なのですが、そのために乱開発を免れ、

今日まで城址が綺麗に残っている原因ともなっています。

結構城址って学校とかの敷地になってて見物不可な場所が多いんです。

鎌倉市内にある玉縄城址も確か学校の敷地になってて見学不可だった

ハズ...。あのあたり一帯を歩き回った記憶がよみがえったりします。



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こちらは油壺湾。新井城落城時に城兵達が流した血でここが真っ赤に

染まったという言い伝えがあるらしいのですが、それが事実であれば

正に地獄絵図だったでしょうね...。

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こちらは何の立て札等もありませんが、千駄やぐら址です。

往時にはここに米俵などを貯蔵しておいたらしいです。

ここも東大附臨海実験所の敷地内なので、自由に出入り

出来ません...。

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これは道寸義同(よしあつ)の墓。伊勢新九郎(北条早雲)という

英傑が関東の地に現れなければ、彼や三浦一族はこの時点で

滅亡することは無かったかもしれません。ですが、それならそれで

信濃制圧後の武田家の侵攻目標になったかもしれません。

とにかく関東の戦国地図は大きく違った可能性はありますね。

とはいえ「IF」の話です。現実は力尽きて北条氏に滅ぼされた

三浦氏。戦乱の時代を生きた人々の悲哀を感じずにはいられません。



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こちらは道寸の墓の近くにある看板。しかし、どうも三浦氏にとって

北条氏は天敵だったようですね。鎌倉時代には伊豆の北条氏に

よって徹底的に叩かれ、戦国時代には上方出身の伊勢氏(後北条氏)

に滅ぼされてしまいました。実は三浦氏も北条氏も、後北条氏も

平氏の系譜に連なる一門なんですよね。源氏に比べれば内訌の

少なかった平氏ですが、細かく見てみれば一門で相争う歴史を

積み重ねていたわけです...。

徒然草現代版by Vamos~時事問題からサブカルまで、ワタシVamosが徒然なるままに語ります~
こちらは新井城碑なんですが、すごく目立たない場所にあります。

わざわざ人目から隠すような場所にあるんですわ...。


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新井城周辺の海。この海は伊勢氏と三浦氏の攻防戦の最中にも

変わらずに波しぶきをあげていたのでしょうね。三浦氏は恐らく

海上から物資の搬入をしていたと思われます。そうでないと、

どうやっても三年間もの長きにわたって籠城戦など出来るわけが

ありませんビックリマーク。恐らく攻城戦が始まった時点では伊勢氏による

海上封鎖も完全ではなく、隙があったのでしょう。しかし月日を

重ねるごとに海上封鎖網は強固なものとなっていき、物資の搬入も

出来なくなった。そして援軍の望みも断たれた三浦氏は、最後の

一戦を交えた後にその姿を消したのでしょう。
そうして三浦氏を滅ぼした北条氏も、三浦氏の滅亡から約75年後の

豊臣秀吉による小田原城攻めによって滅亡。まさに諸行無常

であります。そんな思いを胸に抱き、新井城址を後にした私でした。


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