訪問日時2012年4月1日(日)14:00頃
今回の話の舞台である千葉県勝浦市は、外房にある湊町です。
現在は公園として整備されており、八幡岬公園となっております。
これが八幡岬公園の入口。ここから先に進むと、
地図上の八幡岬へと進んでまいります。
看板の文字の詳細はをクリックし、拡大して確認願います
勝浦城址の看板。真里谷武田氏(甲斐武田氏の分家)の
砦のようなものであった勝浦城に正木氏(房総の有力豪族)
が入城し、正木氏の居城となりました。
その正木氏は安房の里見氏の傘下にいました。
しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条氏征伐時に
里見氏は小田原への参陣が遅れ、里見氏の領地は一部没収されます。
勝浦城も豊臣方の軍勢に攻められて落城し、城主正木頼忠の娘
であるお万の方(養珠夫人)をはじめとする城主の家族一行は、
40mの断崖に白い布を垂らして海に逃れ、船で館山方面へ
逃げたと言われています。
こちらが八幡岬です。休憩所もささやかながら設置されております。
その休憩所からちょっと目線を変えると、見えてくる銅像があります。
こちらの銅像が、勝浦城が落城した時の城主である
正木頼忠の娘、お万の方になります。
この銅像はどうみても尼僧の格好をしていますから、
出家後のお万の方の像と思われます。
このお万の方は後年徳川家康の側室となり、紀州藩主となる
徳川頼宣と水戸藩主となる徳川頼房を産みます。
言うまでもなく紀州藩の出である徳川吉宗の系統が
徳川幕府8代将軍以降の将軍職に就いていますし、
水戸藩の頼宣の子には水戸黄門として知られる徳川光圀がいます。
また幕末期の徳川斉昭や、その子慶喜なども水戸藩の系統です。
そう考えると、お万の方が無事に逃れることが出来なかったら、
後の歴史は随分変わっていた可能性があります。
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お万の方の銅像を斜め前から見た図。
この崖を、白い布を垂らして降りたのですから、
まさに命懸けの逃避行であります
もしこの時にお万の方が逃走に失敗して命を落としていたら、
水戸藩主となった徳川頼房も、紀州藩主となった徳川頼宣も
存在してません。これらの事実から、充分
「その時歴史は動いた」
と言っても差支えがないと、私は思います。
灯台が見えますが、これが勝浦灯台になります。
その内暗くなってからまたここに来て、夜間撮影もしてみようかな?
灯台撮影の醍醐味は、やはり夜ですしね。
こちらは灯台とは反対側になる勝浦湾の様子。
湾とは言うものの、見えている海は外海の太平洋ですし、
勝浦まで来ると九十九里浜ももう終わっていて
岩場が多くなるので、水も綺麗です。
しかし昨年の3.11以降、この海も放射能汚染と無縁と
いうわけでもないでしょう。本当に罪作りなことをしたものです。
鳥居が見えたので、通常レンズで最大望遠
波飛沫が結構いい感じに思えたので...
望遠レンズに付け替えて、最大望遠
こうしてみると、結構鳥居の色がはげ落ちている...。
中々こういったものを修復するのも大変なんでしょうね。
波飛沫が結構いい感じに撮れたのに、
何だか悲しくなってしまった鳥居のはげ方でありました。
勝浦城址の記事を見て、少しでも歴史のロマンを感じられた
歴史ずきの方、是非ご協力を
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