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ようやく2日目の状況報告が始まった上洛旅日記。まだあと4,5日くらい
引っ張りそうですが、お付き合いいただければ幸いです。
今回の上洛の旅のテーマは平家物語関連の史跡巡りとしていましたが、
それはあくまで訪問地を絞る上での目安であり、実際は南北朝時代の
関連史跡巡りも行っていました。だって私の居住地である鎌倉はどちら
かというと源平時代のものより南北朝時代の物の方が残ってるくらいで、
私にとってそれなりに馴染みのある時代でもあるので。
よって下調べ時にこの宝筐院が南北朝時代きっての名将である楠木正成
の嫡男で、父の死後南朝勢力にあって重鎮を担った楠木正行(まさつら)
の首塚があると知り、絶対行くべき地として認識していました。
その宝筐院でワタシが目にしたものは...。
小楠公(楠木正行)首塚の寺と書かれています。
左側奥に見えるのが目指す宝筐院の入り口となる門です。
その門を潜ると、ご覧のような色鮮やかに染まった紅葉が
とても美しい庭園が!
正直小楠木公の首塚詣でが目当てだったので、
この庭園の美しさは嬉しい誤算!
シャッターを押す手も中々止まらない~♪
そしてこれが目指した場所である小楠公の首塚。
しかし、よく見てください。画面中央くらいには左側に
足利家の家紋、右側に楠木家の家紋である菊水紋が
彫られています。左側に葬られているのは足利尊氏の嫡男で、
室町幕府2代将軍である足利義詮(よしあきら)。
金閣寺を作った足利義満の父にあたる人物です。
つまりここは敵対する者同士が同じ場所に葬られているという
世にも不思議なスポット。分かりやすくいうと豊臣秀頼と
徳川秀忠が同じ場所に葬られているようなものです。
義詮は敵将であった楠木正行の器量と人物を認め、遺言で
正行と同じ地に眠ることを希望したそうです。
いくら遺言だったとはいえ、よくも家臣たちや義満もそれを
守ったもんだ。やはり楠木正行は同時代の人達にその人となり
を認められていたという証でしょう。
ちょっと場面は違いますが、これは10月に千葉県の
佐原の祭りでみた小楠公(楠木正行)の山車です。
詳細は10月の旅行記下総の国編でご覧ください。
楠木正成の山車。なんとも言えない貫禄です。
1991年に放送された大河ドラマ太平記では武田鉄也が演
じてたなんて信じられない!
佐原で見た楠木父子の山車を思い出しつつ
小楠公の首塚でしばし余韻に浸った後は、
また美しい庭園散策を続行。
これだけ質の高い庭園なのに、かなり貸切に
近い状態で空いてます。
この時間の天龍寺なぞはもう込みまくりだった
と思われますので、それだったらこういった
スポットで貸しきり状態を楽しんだほうが
良いってもんだと思いますが、いかがでしょうか?
訪れる人も、私のように小楠公の首塚のお寺だという
認識が薄い模様。他の観光で訪れてたご夫婦に写真
撮影を頼まれたのですが、
「首塚が入るように写したほうがいいですか?」
と聴いたらキョトンとされてしまいました。
簡単に説明し、結局首塚が写ったものと背後の紅葉が
写ったものと2枚撮ってあげたのですが....。
宝筐院の門を出て外に出たときも3人組くらいのおばちゃん達が
「小楠公の首塚」の文字を見て何だか由緒あるお寺らしいね
なんて話してたので、お節介ながらも簡単に解説し、
「この時間(10:30くらいだった)で天龍寺とかに行っても
混雑してるから、だったらこのお寺さんを見ていったほうが
いい。綺麗でしたよ」
なんて軽く声をかけて中に導くことに成功。
お節介とは分かっていますが、私って自分が良いと思った
ものは人に勧めたくなる性質でして。だからこそこのブログも
続いているのでしょうが...。
そんな感じでにわか布教家役を終えた私は、いよいよ
17年越しとなる祇王寺への参拝を果たすべく先を急いだのでした。