10月25、26日に実施した信州紀行の続編です。
不二屋でお菓子を買い求めた時点でもう時間は17:00くらいになっていて、あたりはもう薄暗くなっていまいた。
この時点でもう一般の観光スポットでいける場所といえば諏訪大社下社くらい(不二屋という和菓子屋さんは
諏訪大社下社秋宮のすぐ近くにあります)だったので同地を訪れたのはもう既に記載したとおりですが、
その後で諏訪大社下社の春宮へ向かいました。
諏訪大社の秋宮と春宮はどちらも下諏訪町内にあり、互いの距離は1kmほど。本来なら丁度よい
散歩コースなのですが、もうあたりが暗くなっていたのでとにかく先を急ぎました。
春宮に着いた時点でもう17:30過ぎくらい。そんな何も見えない時間帯であるにも関わらず同地を訪れたのは、
この万治の石仏を拝みにいくためでした
万治の石仏。一般には万治三年(1660)に作られたからこの名前がついた
といわれていますが、今回の旅で入手した新田次郎(諏訪出身の作家。代表作は
大河ドラマの原作にもなった武田信玄。他にも歴史小説や山岳小説を多数
手がけています)の小説ではまた違った解釈がされていました。
古い昔のこと、イースター島で勢力争いに敗れた者達がこの石仏の首を携えて
長い旅の末に今の日本にたどり着き、最終的に諏訪の地に安住した。
そして更に年月が過ぎ、石仏の首は諏訪大社の下社に祭られたが、
ある時から下社の大祝となった金刺氏によって春宮の外苑の自然石の上に
安置され、春宮の守護神とした。
しかし時代は下り、上社の諏訪氏と下社の金刺氏の争いは恒常化。その騒乱の
中で石仏の首は諏訪湖に沈んでしまい失われた。
しかし長い期間この地の守り神として祭られたものであったので、その喪失を
嘆く者はいた。そのなかの有志によって再現され、その首は鵜ノ木権現社の
御神体となった。
時代はまたまた下り、徳川時代の万治三年(1660)に当時の諏訪藩主によって
諏訪大社下社春宮の鳥居の寄進がなされ、その際に同じ信濃の国の高遠の石工が
仕事にあたった。この石仏の胴体の石も鳥居に使われる予定であったが、
その頃この石のまん前で刃傷沙汰があったため、この石の使用は取りやめになった。
鳥居の制作が終わり、その後法泉寺からの依頼で石地蔵を作った石工達は
高遠へ帰ろうとしたが、それを同寺に滞在していた浄光という僧が呼び止めた。
彼は石仏の胴体となった石の前で切りあって死んだ二人の侍を不憫がり、
彼らを弔うためにも石像の首を作って自然石の上に安置するよう石工に依頼した。
それまではただの自然石であったが、この時に高遠の石工が地蔵の首に
調和するように自然石に衣の模様を刻んだとされる。
しかし時が経ってこの時に作られた地蔵の首は子供達のいたずらによって
再び失われてしまう。その後文化年間になり、鵜ノ木権現社の御神体となっていた
オリジナルのコピーであった石仏の首が再び衣の模様を刻んだ自然石の
上に安置され、現在に至っている。
といったことが話の大筋です。この石仏一つとってもこれだけ壮大なロマンが
繰り広げられたことに改めて感動。やはりこの地は神の土地であるという
思いを新たにしました。
この石仏には「芸術は爆発だ」の発言で有名な岡本太郎氏も強く魅かれていた
ことでも有名です。同地に訪れたなら、この何とも言えない奇妙な石仏を
是非実際にご覧になってください。
