今回掲載の写真は全て古河総合公園で撮影。上記の池では来月あたりハスの花が咲くそうです。
ワタクシ茨城県にある古河という土地に行ってみようと思ってもう幾年。別にその
気になれば行くことは簡単だったのに、今まで行きそびれていました。
このブログを読んでくださってる方々にもそんな土地の一つや二つあるのでは
ないでしょうか?
私がこの古河という土地にこだわっていたのは、ある意味現居住地である鎌倉と
姉妹関係にある町だから。室町時代、足利将軍家は京都に幕府をおきましたが、
関東には鎌倉府を置いて将軍家の分家が鎌倉公方として東国の支配にあたって
いました。しかし京都と鎌倉で離れている上に元々独立意識の高い東国武士の
旗頭であることも手伝い鎌倉公方と京都の将軍家の間には次第に険悪となっていき、
その補佐役でありどちらかといえば将軍の意向を反映する立場の関東管領
(上杉謙信が継承したことで有名ですね)とも諍いを繰り返して鎌倉に留まる
ことが困難になり、五代鎌倉公方成氏の時代に鎌倉から古河へ移ったことを
きっかけに関東の政治における中心地のひとつになったといういわくのある土地です。
そのため古河には鎌倉から勧請したという由来の神社仏閣がけっこうあり
まして、所謂小京都ならぬ小鎌倉といっていい土地。でも海に面していて山がち
な鎌倉と関東平野に真っ只中にある古河とでは土地の構成要素が全く異なる
ため、町としての共通部分は殆どありません。昨日実際に行ってみてはっきり
分かりましたが、古河には空いてる土地がまだまだたくさんあり、空きスペース
のほとんどない鎌倉とは全く違う印象であることが体で実感できました。
古河公方について詳細は以下のWikiのページをご覧になるのがいいですが、
正直分かりずらいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%85%AC%E6%96%B9
といいますのも、この古河公方家からまた分離独立した小弓(おゆみ)公方家
なるものもあったり、京都から新たなる鎌倉公方として送り込まれた
人物が実際に鎌倉入りすることができずに伊豆の韮山に留まり堀越公方と
称されたり、その堀越公方家を滅ぼしたのが伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)
だったりとこの時代の関東政治史って非常にややこしいんです。
私も長年この手の物を読み漁ってようやくなんとなくイメージできるように
なってきたのですが、中高生の頃に教科書や関連書籍の記述を読んだ時には
??の連続で全く内容が理解できませんでした。
古河公方館跡の碑
そんなこんなで行きたい気持ちはあるものの、それが果たせずにいた古河。
今回出かける前に多少の情報収集も試みましたが、まずは気軽にチェックできる
観光ガイド系の書籍が全く見当たらない...。茨城だと水戸やつくばを扱った
ものばかりで、古河周辺を扱ったものが全然見当たらなかったんですよね。
更にネットでも多少は探しましたが、どうも見やすい地図がない。
その辺りは現地に行けば書店で入手できるかと思いとりあえず現地へ行きました
が、なかなか書店も見当たらず。真夏日だった上に寝不足もたたって
途中2時間くらいベンチの上でダウンしていたりと散々な結果に終わって
しまいました。歴史博物館に入った際に入手した無料の町案内の冊子も
地図が広げてみるタイプの上に詳細が分かりずらく、正直歩き回りながら
チェックするには向かないものでほとんど役に立たず、たまたま目に入った
イトーヨーカドーに出向いて入手した“まっぷるマガジン”の茨城版についてた
小さな地図のおかげでようやく方向の目処が立つようになったのがもう16:00過ぎ
のこと。これが出かける前に入手できてればかなり違ったのですが、あとの祭り。
公園内の沼と夕日
結局当初一番行きたかった古河公方館の跡地である古河総合公園に行き着いて
歩きまわった時点で18:30頃になってしまい、撮った写真も暗くてよく見えない
ものばかりになってしまいました。それでも最低限のノルマは果たし、土地勘も
ある程度できました。再度訪れる日が色々回れそうで、その日が楽しみです。




