※2008年11月にUPした記事ですが、画像や記事内容の追加をしましたので、
本日日付で再度UPしました。
ワタクシVamosは、小学二年生だった1983年に放映されていた
アニメ「まんが日本史」を観て以来の歴史好きです。
同番組のエンディング曲だったサーカスの「風のメルヘン」
(タイトルだけは気に入らないんだよな~(>_<))
はiPODのへピーローテーション曲の一角を占めています。
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「まんが日本史」 のOP&ED
対象動画を貼り付けてある記事です
さて、本題の歴史街道は私がここ数年来読み続けている
お気に入りの雑誌。読者の関心が高いと思われる戦国時代、
幕末維新、明治から第2次大戦の終戦までの時代が
特集で取り上げられることが多いです。
特に戦国マニアの自分にとってはホントに必読の雑誌となっています。
2008年11月号の特集は真田昌幸。
戦国時代に関心の高い人や、信長の野望等の
歴史シュミレーションゲームの愛好家にとっては超有名人です。
2007年の大河ドラマ「風林火山」では
「主人公の山本勘助のよき協力者」という役割だった
真田幸隆の3男で、あの武田信玄をして
「我が眼のごとき勇士」と言わせた男。
信玄が「将来の武田家の幹部候補生」として身近におき、
様々な薫陶を与えたというから只者ではありません。
真田昌幸は信玄の後継者である武田勝頼とは同世代で、
武田家滅亡間際でも孤軍奮闘を続けていました。
武田家といえば
「信玄の死後に信長との長篠の合戦で敗北し、
その後は凋落を続けて滅亡した」と思われがちですが、
実際はそうではなかったようです。
遠江(現在の静岡県西部)での対徳川戦線では
武田家の優位が滅亡間際まで続いていたそうですし、
上野(群馬県)での対北条戦線では、それこそ真田昌幸の
大活躍で上野の大半を武田の領土とした時期があったのです。
そんな武田家が滅亡を免れなかったのは、
やはり信長の存在が突出していたからに他なりません。
中国地方の毛利家などは、織田家の一軍団である
秀吉の軍との対峙だけで押されまくっていたのです。
それに対して武田家は、信長の長男である織田信忠が率いる
織田家の主力軍、徳川家、北条家といった強敵に
一斉に攻め込まれて滅亡したわけですから、それだけ
当時の敵対勢力にとって、武田家が脅威であったことが伺えます。
孤軍奮闘空しく主家が滅亡してしまった真田昌幸は、
生き残りをかけて凄まじい動きを展開します。
一時は信長に臣従したのですが、その信長は知っての通り
本能寺で横死します。
武田家の滅亡が1582年の3月、本能寺の変が同年の6月ですから、
正に目まぐるしく情勢が変化したのです。
信長の死後、旧武田領の甲斐と信濃は越後の上杉家、
関東の覇者である北条家、三河・遠江・駿河を治める大大名に
成長した徳川家の3家が、相争って侵攻してくるという
正に草刈場と化しました。
その3大名家の勢力を巧みに渡り歩き、最終的には
天下人として地歩を固めだした秀吉に臣従することで
見事に独立大名としての生き残りに成功した真田昌幸。
それまでに徳川家との諍い(名胡桃城は真田昌幸が独力で
切り取った領地ですが、家康が昌幸に断ることなく
北条家との和睦の条件として割譲を決めてしまった)
から本拠地である上田で約8000の徳川の軍勢を
3000足らずの軍勢で迎え撃ち、見事に勝利を収めています
(第一次上田合戦)。
関ヶ原の合戦の前に行われた「上杉征伐」に参加した真田家。
その当主である真田昌幸の元に石田三成から西軍参加を
求める書簡が届いたため、今後の方針について
息子二人【信之と信繁(幸村)】を交えての家族会議
(いわゆる犬伏の別れ)を行なった模様を描いた絵を、
私は新アイコンとしました。
元々信繁(幸村)よりも、父の昌幸の方が好きなワタシです。
歴史は繰り返すの言葉どおり、関が原の戦いの際に
西軍に組した昌幸は、またしても本拠地である信濃の上田で
徳川秀忠率いる徳川主力軍約4万を相手取って戦うことに
なるのですが、この時も見事に敵勢を退けています。
(第二次上田合戦)。
そのために秀忠は関が原の合戦に間に合わず、
父の家康にひどく叱責されたというエピソードは有名です。
※「秀忠が上田城を攻めたのは家康の命令通りの行動であり、
実際は予定より早まって関ヶ原での東西決戦になってしまった
ため、徳川家の主力である秀忠軍が参戦出来ず仕舞い。
そのため外様大名に多くの領地を与えるざるを得ない
結果になった」という説が、現在では力を得ているようです。
私はその説に賛意を示しますが、だからといって
圧倒的多数の徳川勢を退けた真田昌幸の武功を
否定することにはならないとも考えます。
天下分け目の関ヶ原は東軍の勝利に終わり、
敵対した真田昌幸と信繁(幸村)は九度山に追放され、
昌幸は同地で失意のまま死去したといいます。
正に戦国時代という未曾有の激動が生み出した、
波乱の人生を送った真田昌幸。
その激動の生涯は、今を生きる我々にも
語りかけてくる点が多いと思います。
特に武田家滅亡後の混乱期を「表裏比興の者」と
言われながらも見事に生き抜き、「寄らば大樹」であった
武田家の滅亡&本能寺の変以後の混乱期という
激動の時代を見事に泳ぎきった真田昌幸。
昌幸の生き方を見倣ってしたたかにならないと、
今後の激動が予想される世界で日本は立場を維持できません。
下手をすると「中華人民共和国の自治区化」か、
「アメリカによる経済的奴隷化の徹底」(例:米韓FTA)
という未来を迎えることになりかねません。
そんな危うい将来の危惧を抱える現在こそ、
真田昌幸という傑物の生き方に倣う必要があると
私は強く思う次第であります!
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