さて歴史考察その3です(笑)
信長と本願寺の戦いは10年近く続きます。
そう聞くと多くの人は「戦国武将とお寺の戦いがなんでそんなに長引くの?」って思うかもしれません。
本願寺の宗徒の殆どは農民です。
ただ動員力が全然違いました。
伊勢長島での本願寺勢(この戦で信長は弟を殺されています)は遠く越前からも加勢が来ましたし、その越前は戦国大名のいない百姓持ちの国、と当時は言われてました。
一向一揆が大名を攻め滅ぼしたのです。
これは別に珍しいことではなく、あの家康でもこの時代に三河の一向一揆に敗退しそうになった位です。
軍神と言われた上杉謙信も領土内の一向一揆に悩まされていました。
当時最大の戦闘動員力のあった織田軍でも通常は5~10万。
最盛期では20万もいたでしょうか?
ただ本願寺の動員力は桁が違ったんですね。
というか越前、三河、伊勢長島、石山本願寺のみならず、信長の領国・尾張でも一向一揆の勢力が無視できない状態だったんですね。
だから信長は多方面に手当てをする必要があったんですね。
その上で信徒は【来世で幸せになりたい】という気持ちがあるので死に物狂いで戦います。
死んでもいいと思っている集団というのは一種狂気の集団です。
身を庇わないから最短の距離で攻めてきます。
そういう敵と戦うのは例え武装していたとしても大変なものです。
大体当時の主戦力、鉄砲・槍・刀はそれぞれ有効射程が違います。
鉄砲は遠距離から中距離、槍は近距離、刀は接近戦です。
接近戦で火縄銃を用いても意味はありません。
そういう意味では本願寺側は最強の戦力だったといっても過言ではないと思います。
遠距離の鉄砲戦では最強の雑賀衆。
近距離の槍合わせでは槍を使わせたら剽悍無類と言われた十津川衆(現奈良県最南端の村)という勢力もいたし、接近戦では鎧もつけずに死を恐れない信徒の軍隊がいたのです。
しかし歴史は信長の勝利へと傾いていきます。
要因は
・信長の雑賀攻め
・木津川沖海戦での敗北(信長の鉄の船にやられた)
・雑賀衆の仲間割れ
だったと言われます。
海戦については以前にも書きましたので割愛します(笑)
信長は敵に対して基本的に【諜報活動】を怠りません。
そして敵についてのウイークポイントを探します。
雑賀衆の場合は組織としての団結力だったのかな?と思います。
雑賀衆は紀伊(現・和歌山県)の紀の川下流域の三里四方(一里は約4kmなので約12km四方)という猫額の土地に存在していました。
当時としてはかなり人口は密集した地域で3~4万人いたと言われます。
呼称としては【雑賀衆】ですが実際は雑賀荘・中郷(なかつごう)・十ヵ郷・南郷・宮郷という五つの荘郷から成り立っており【雑賀五搦】(さいかいつがらみ)と言われていました。
この荘郷の盟主は兵力・富力ともに最強の雑賀荘が担っていたため【雑賀衆】という呼称になっていました。
しかしこの中で宮郷・中郷・南郷、三搦の指導者・太田源三太夫は同じ紀伊の根来寺の指導者・杉の坊に誼を通じ信長側に傾いているようでした。
その上、雑賀衆の頭領は合議制でしたが主力5人のうちの鈴木孫一(別名・雑賀孫市)と土橋平次の仲が悪く、信長が雑賀攻めを敢行したあと、孫一は急速に信長に接近していきます。
雑賀攻めは結果としては雑賀衆が信長に和睦を乞う形で決着しましたが、実質的には雑賀衆は負けてはいませんでした。
戦線が長引くのを恐れた信長が和談に持ち込み、負けては居なかったものの郷土のそばに大軍勢が押し寄せてきて、毎日のように銃撃戦が行われる状況に雑賀衆が折れただけでしょう。
むしろ雑賀衆は自分たちを高く売り込んだようなものです。
ちなみに雑賀衆の子孫は明治に至るまで特に働かなくても食べていけるという富を築いた、という真偽も定かでない噂もあります。
では雑賀衆が仲間割れしたために本願寺勢は結果的に敗れてしまったのでしょうか?
それは違うと思います。
雑賀衆がいなければそもそも本願寺勢は信長とここまで戦えていなかったと私は思います。
いかに決死の歩兵がいようとも槍衆がいようと、もう時代の主戦力は【鉄砲】に変わっていたんだと思います。
石山本願寺近辺の戦で信長は痛手を負うことがありました。
石山を包囲している中で本願寺側の雑賀衆が農民に化けて本陣から出て食料(麦や米)を刈り取りに行く体で石山本陣から出てきました。
信長勢はこれ幸いとばかりにこの農民の一団を取り囲みましたが、実はこれが雑賀衆で。
信長勢近づいた後、鉄砲の集中砲火を浴びて高名な武将も亡くなっています。
原田直政、別名塙直政。
信長には赤母衣衆と黒母衣衆というのがいて、これは戦場で伝令を行う信長のいわば精鋭です。
原田直政は信任厚い赤母衣衆で越前一向一揆征伐で軍功を挙げて原田姓を下賜されたり、長篠の戦いでは鉄砲奉行を言いつけられる程信長の信任厚い武将でしたがこの戦いで雑賀衆に狙撃され戦死しています。
この危機を救ったのは前田利家で、利家は雑賀衆の鉄砲攻撃もものともせず槍を振るい敵襲を退けました。
利家は10代に初陣してその後も信長に寵愛されていました。
ある戦さでは弓を右目の下に受けて刺さったまま戦い続けるという豪のものでした。
本名は前田又左衛門利家だったので家中でも【槍の又左(またざ)】といえば有名でした。
以上は余談として
いずれにせよ木津川沖海戦での雑賀・毛利連合軍が敗れたことにより海上からの食料補給路を絶たれた本願寺はジリ貧になります。
そして最終的には本願寺は降伏。
雑賀ではこの後、紆余曲折があり。
鈴木孫市が一旦は反・信長派の土橋氏を倒し雑賀衆を統括するも、本能寺の変で信長が横死すると信長派の孫市は信長の親族・織田信張の元に逃亡。
土橋一族が雑賀衆を統括することに。
本能寺の変直後に伊賀攻めや雑賀攻めで信長に反感を持っていた紀伊国人の蜂起があり織田信張や蜂屋頼隆らがこれを鎮めましたが、この際に鈴木孫市は逃げたんですね。
その後、豊臣秀吉が天下を取ると秀吉の中央集権化(刀狩りや検地がその特徴でしょうか)に反発して雑賀衆は小牧長久手の戦い(秀吉VS家康)の際に大阪あたりまで進出して秀吉の背後を脅かします。
秀吉は小牧長久手の戦いでは家康に完敗でしたが、得意の政治力を発揮して家康と和睦。
その後第二次紀州征伐と言われる軍旅を秀吉が発動して、現在の和歌山県和歌山市にある大田城が陥落し雑賀衆は【集団としての】終焉を迎えました。
以降は集団としての活動の記録は残っていないようです。
和歌山は後に徳川吉宗や幕末には北畠道龍などを輩出しているようにいろいろな人材を輩出してきた土地柄です。
更に鉄砲の普及にも貢献してきました。
また太古から加太の浦での捕鯨など【男っぷり】のいい土地柄でもあるのではないか?と感じています。
いつか旅行で行ってみたい土地でもあります♪
さて今日のおススメ♪クラシックは。。。。
週末は競馬予想が散々でしたので(笑)
ここはまたストーリーに関係なく自分の好きな曲をオススメします♪
組曲【仮面舞踏会】よりワルツ
作曲:アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン
指揮:イルジー・ビエロフラーヴェク
演奏:ブルノ国立フィルハーモニー管弦楽団
浅田真央さんがNHK杯で圧倒的なスケーティングを見せた時にこの曲を聴いて感動しましたね♪
ハチャトゥリアンは民族音楽を取り入れたり、とてもリズミックな曲が多い作曲家ですがこの曲が持つメロディーの美しさ、スケール感は素晴らしいと思います♪
ハチャトゥリアンはこの他にもバレエ音楽のガイーヌなどで大変有名な作曲家で一番有名な曲といえば何といってもガイーヌの中の【剣の舞】でしょうね♪
ただハチャトゥリアンが亡くなった時は国葬扱いだったそうなのですがその式典で流された曲はこのワルツだったそうです。
それくらいロシアの国民に愛された曲だったのでしょう♪
機会があったら是非聴いてみてください♪