やりたい事がある

 

それは幸せな事だ。

 

 

やりたい事が分からない場合がほとんどなのに、

 

やりたい事があるのはとても幸せな事だと思う。

 

 

そんな人が目の前に現れ、

 

やりたい事の為に必要な情報や私が知り得る事は

快くシェアしたいと思う。

 

 

 

そして、自分がとても良いと感じる事は

 

自分だけのモノにせず、皆にシェアしたいと思う。

 

 

 

 

もし、自分に不足感があれば、

 

自分にしか知り得ないモノとし、

誰それに奪われてまいとし、自分だけのものにしているだろう。

 

 

 

 

今までの地球ではこの意識が自己を防衛する手段であったのだ。

 

 

 

自分を守る事が必要であった。

 

 

それは生きていく為に必要と思っていた思考だった。

 

 

 

誰それに取られまいとし、シェアできるほどの器がないのと同時に、

守る事が生きていく上で必要であった。

 

 

一度、心の内や自分だけ知り得るものを外に出したら、

つけ込まれて、奪われていくような戦場だったのだ。

 

 

 

宇宙の法則もツインレイの情報も同じ事だ。

 

 

 

自分にはもう失う事は何もない、そもそも全てが在るのだから、

 

と気づくと、

 

 

例え自分だけが知り得る情報や経験でさえも、

分け与える事ができるだろう。

 

 

 

いつまでも執拗に自分のモノにしておきたいと固執する気持ちは、

失う事への恐怖があるからだ。

 

 

失う事への恐怖は根深くある。

 

 

 

宇宙の法則も、この世にも奇妙なソウルメイトとの関係から得た経験も、

 

それは、必要な人に開示される事であり、

 

 

一つの魂にとって必要なイニシエーションである。

 

 

魂の願いは、どこまでも純粋で、自然と同調しており、

それは、その本人だけの願いではなく、

神羅万象の願いに等しいだけに、

 

 

それらの情報は開示されて当然なのだ。

 

 

 

そのように根元なる情報は開示される事は必然であり、

神羅万象の願いだ。

 

 

 

学んで身につける事でもなく、

 

すでにその情報は自分の内側に答えとしてあり、

 

タイミングがきたら、目の前に現れ、

それを受け入れ、進むだけの事。

 

 

 

 

それくらい魂の願いというのは自然の摂理の一環であり、

 

自分の願いだと思う事もなく、

それは万物からの願いと言っても過言ではないのだ。

 

 

 

 

自分の内側からの本当の願いや思いは、

 

叶って当然なのだ。

 

 

 

それに等しく、誰かの内側からくる本当の願いも

自分の本望でもあるのだ。

 

 

だから、

自分だけのモノとし、

固執したり、希求している誰かに、必要なものを仮に自分が持っているのであれば、

それを与る事を失う事と捉える事は何もない。

 

 

 

そのくらい、純粋な世界に変わろうとしている。

 

 

 

自分だけのモノではなく、

自分の才能も、自分にしか見出せない夢も、

また万物の望みに等しい事を知れば

失う事を恐れて自分だけのモノにしておく必要はつまり無いのだ。