主体性の回復


それは遅かれ早かれ一人一人に起こる事だ



人は母の手を借り一人で生まれ 

一人で死んでいくからだ



社会に出て

大抵は組織に属し

歯車の一つになる



定年退職した後は

セカンドライフと言い


誰からも必要とされなくなり

苦にもされなくなる


そこから自分との対話が始まる


しかしその頃には、自己との対話の仕方を忘れ

“これしか出来ない”人間になっている



与えられる仕事に嘆きながらも

安定した収入も入っていた時から様変わりだ



そこから主体性の回復をしても遅くわないだろう


だが、未来を切り開く力がその時にどれくらい残っているだろうか



心の筋力を鍛えるのは


自己との対話


そして


誰しもが通る


孤高の旅をする事だ



それが今なのか 

十年後、三十年後なのか


それだけの違いだ




どんなに横との繋がりを求めようと


人は縦と繋がり自立して生きているのだ



横は脆くも移り変わるのが常だ




宮沢賢治の『雨にも負けず』は

今でも多くの人の心を惹きつける



誉められもせず苦にもされず

そういう者に私はなりたい



これはどういう精神性なのか



誉められもしないで

苦にもされない



孤高の人としか言いようがないだろう



自分を勘定にいれず

良く見聞きし判り

そして忘れず



それはもはや自分というエゴを通さずという事だろう



人は孤独の中でしか


心の筋力は育まれない

つまり主体性は生まれてこない



それはなぜか

誰しもが同じ答えをもっているわけではないのだ

横の繋がりからヒントは貰えど

答えは自らで見出すものだからだ



結局は主体性は自由意志のベースにある



自由意志というのは皆等しく持っている宇宙の法である



しかしそれは自己を意識できて

初めて行使できるものだ



無意識下でももちろん働いてはいるが



ある一定の筋力を蓄えたものは

意識的に行使していく事になる



私達は常に無意識の中に生きている



しかし一度目覚めた者は


意識的に選ぶ事ができる



それが主体性であり創造である



遅かれ早かれ

大いなる自分に意識的に委ねる事になるのだ



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ここ最近


見えない力や存在をいい加減信じろと

言葉が降りてくる


私は根っからの現実主義だ


ハイヤーセルフやら大いなる自己やら

色々言われているが



どうしても信じられない自分がいた



しかし、言葉がシャワーのように降り注ぐ



これは遅かれ早かれの事なのだと


どんなにお金を稼ごうと、どんなに貧乏であろうと


そこから得る感情というのは感じる本人の固有のものなのだ



自分自身への理解を深める事は

自らの幸福を求める事に等しいのだと



会社に属する事が長い分

そして私の過去世での命の遍歴により



自らの主体性

つまり

自分の流れの速さを


いまだに掴めないでいる




誰かに言われてなる事ではない

誰かが作った道を歩み始めたわけではないのだ

自分の道を基盤を作り始めたばかりなのだ



だから出来なくて当然だと



できない自分をようやく許せた



そして

心は平穏に満ちた




今で良かった

このタイミングで良かったと思った



一人で歩み始めるとは怖いものだ

誰も教えてくれないのだから



答えを自分の心から導き出す



それは自分を自分で引っ張っていくような感じだ




ジタバタしてもいい

社会から忘れ去られてもいい



自分のペースで一歩一歩進んでいけば



きっと見えてくる



そう思った




孤独な旅だ


でも

ある意味貴重な時間が今だ



孤独は悪いものではない^^




誉められもせず苦にもされない


そんな者に

私はなりたい




私は私なのだ


という自覚だけなのだ