ああ、もう全てに感謝したい。

幸せに溢れている。

 

この世界に生きて、息をして、瞬きをして、

コーヒーを淹れて、コーヒーを飲んで、

すべての瞬間が愛しい。

ここに存在することができて嬉しい。

 

昨日までのクヨクヨとは打って変わって、

5分ほど前から、幸せに満ちてきた。

 

体の波。

 

 

不幸も、幸せも、鬱も、喜びも、

勝手にやってきて、勝手にどこかへ行く。

 

 

そういうものなんだけど、

心の動きと連動しているときもあって、

そこに世界のタイミングがぱちっと合って、

大きな波乗りになることもある。

 

 

自分ビジネス。

まだお金になっていないし、

進んでいるのかいないのか、

この方法で合ってるのか、

先が見えなくて、不安になってた。


買って欲しい


お金を払ってほしい


と周囲に求める自分の姿勢に

嫌悪感を感じてた。

 


でも、現在はプロとして仕事している

英語を学び始めた頃のことを思い出したことが大きなきっかけで、不安の根底は消えた。

 


英語を学んでたときも、

ずっとカッコ悪かった。

それ以外でも、

カッコ良いときなんてなかった。


いつも、新しい壁にぶつかってばかりで、

そのつど、持ってるもの捨て去って、

あるいはもぎ取られて、走ってきた。


だから、今、何も持ってない。

 

そして、だからこそ、

周りが見えない中でも、走れるんだった。

 

 

英語ペラペラを目指して、

色んなことを試した。


ラジオの基礎英語も聴いたし、

'英語であそぼ' も見てみたし、

貰った英語の本も「眺めた」し

(ぜんぜん読めなかった。笑)、

洋楽を聴いて好きな曲の歌詞を覚えたし、

英語の映画をたくさん見たし、

単語集を暗記もしたし、

ナタリーポートマンのインタビューを完コピしてみたり、

フレンズ(米コメディドラマ)のレイチェルの真似をしてみたりした。

 

ほとんどどれも、完全にはやってない。

途中で飽きてはやめ、

しんどくなったら中断して、

目についたら、なんでも手を出した。

 

ドリッピーの冒険(わかる人いるかな)は、

お金かかるから親にやらせてもらえなかった。ww

 


今、英語について不自由を感じることはほとんど無いというレベルになれたけど、

ここに来るまでの方法は、何だって良かったと思ってる。

 

どの道を通っても、どの方法をとっても、

どんな風に歩いても、

 

この地点にまで来れた。

 

でも、英語を学び始めたときや、

その途中では、


この方法で合ってるのか、

本当に私はいつか英語ペラペラになれるのかどうか、分からなかった。

 


 

何でも良かったんだよね。


 

私が選ぶ方法ならば、すべて、正解だったの。

 

 

途中でやめて別のメソッドに移っても、

一つの方法を全うしても、

何でも良かったの。

 

 

どの道でも、ここまで繋がってた。

 

 

今は、後ろの風景を見渡すことができるから、

そう分かる。

 

 

前に進むのをやめない。

 

それだけだったんだ。

 

 

今、私は、

自分の中からお金を生み出せるようになりたい。


そして、自分が「うまくやってるのか」分からなくて、不安になっていた。


私はこの先、成功できないんじゃないかって。

 

でも、英語で見た景色を思い出して、

分かった。

 

辿る道は、何でもいい。

 

どれも正解であり、不正解。

 

私が選んだなら、何でもいいの。

 

 

どの道も必ず頂上につながっている。

 

登るのをやめさえしなければ。

 

 

それが確信できて、

今日は、気持ちが軽くなった。



 

思えば、

先週の土曜日に大神神社に参山したとき、

山が濃い霧に覆われていたのは象徴的だった。



 

先は真っ白で、ただ、自分の目の前に見える道を辿った。


そして、頂上では霧が晴れていた。

 

 

 

そして、さっき、

私の大切な身内の病は、体の他の部分に転移していなかったと連絡があった。

 

彼女のことを

心から心配していた母のいた場所では、今日、ダブルレインボーがかかっていたらしい。




 

このところ抱えていた様々な心のつかえが、

世界と一緒に、

 

大きな波を超えた。