もし、今、
悲しみとか、苦しみとか、仕事のストレスとか、ネガティブな感情に苛まれる環境にいるとしたら、

まずは、そこから逃げたり、
解決を試みたりすればいいと思うんだけど、
(DVや虐待やいじめなら、何も考えず、とっとと逃げて。)

もし、今すぐには、
あなたの力で環境を変えることが出来ないのであれば、

そのネガティブ感情の海で
泳ぐことにすればいい。

しょうがないよ。
満ち潮がすぐには引かないみたいに、
すぐには無くならないときもある。

そこに居るしかないんだし、
それじゃあ、いっそのこと、
飛び込もう。

ザブーン

って。
後ろ向きに倒れるみたいに。

握りしめてた手を開いて。
体を投げ出そう。

諦めて、ネガティブの海に入って
その世界を泳ぎながら、生活すればいい。

あなたは我が儘でも、鬱でも、
鬼でも夜叉でもいい。

夜叉だったら、なんだっていうの?
何に不都合がある?
それでも、あなたは可愛い。

怒りとか
憎しみとか
嫉妬とか、

感じて何が悪いの?

幸せに身を浸して生きるみたいに
憎しみに身を浸してみればいい。


そうやって、すべてを諦めて、
海に委ねたら、それも快感だと分かる。
そして、力を取り戻す。


蜘蛛の糸

っていう説話の中で、
お釈迦様が天から地獄に向かって糸を垂らすエピソードがあるけど、

(画像はお借りしました。)

あれ、上から垂らしてるとは限らないんじゃないかな。

お釈迦様は、地獄の底の底の、
誰もいない一番底にも居ると思うんだ。

だって、究極の喜びを知っているなら、
必ず、それと同じだけの苦しみを感じる力があるはずだから。


苦しみなんか知らなくて、
喜びしか知らないお釈迦様や神様なんて嫌じゃない?

そんな奴、信用できないよ。笑。


最大の喜びの存在なのであれば、
最大の苦しみを同時に持っているはずで、
それならば、一番底に居る。

そうして、天に見えるのは、
地獄の底にいるお釈迦様が、天の鏡に写った姿なんじゃないかな。

その逆も同じ。

天と地獄の底は、合わせ鏡。

そう思うと、
神社で御神体が鏡なのって、
そこに自分を写して、
地獄の底にいる自分の姿を見る。

同時に、地獄から、天に居る自分の姿を見る
ってことなのかもしれない。

それならば、所謂、混沌や葛藤にまみれた「地獄」って、実際は「下」にあるんじゃなくて、
真ん中にあるんじゃない?


小さな絶対値の中で、
その中で溺れていることが
地獄なんじゃないかな。

その外に出るには、感じ切ればいい。


とにかく、
落っこちても、大丈夫なんだよ

ってこと。

その先には、お釈迦様がいる。