まずこの動画をご覧ください。飛ばし飛ばしでもかまいません。
野党の辻元さんという議員が、安倍総理にテロへの警戒を訴えている場面です。
それを安倍さんは「一生懸命(日本を)貶めようとする努力は認めるがw」と嘲笑しながら、日本は安全な国だから煽るなと言って、与党席からは爆笑が起こります。
コメントは地獄です。ものすご~~く控えめに言って愚民です。
タイトルの10の必然は少し下のほうにあります。ネタとしてはそこだけ拾い読みしても問題ありません。
しかし人の命が奪われているため、しばらく前置きが必要です。
安倍さんを殺したのはある意味で、このイエスマンの連中です。
彼らだけではありません。
日本人の低い民度が、世襲専政を好み、政治家としての適性のきわめて低い安倍氏を権力者に押しあげ、彼に悪事を為させ、彼を殺させたのです。
偉そうだと思われるかもしれませんが、僕は安倍政権の批判をあちこちで展開し、何千時間使ったかわかりません。ですが、日本の民度――蒙昧性と攻撃性――をそれなりに警戒し、こちらの、2013年に書いた安倍政権の政治経済の批判でも、警告はだいたい当てているのですが、「今の政権」「今の経済政策」という言い方をしており、安倍政権、自民党と言った固有名詞の使用は避けています――何よりこっちが危なかったですし。
それは安倍政権がヤバい政権、テロや殺人にまで至るだけのことをはじめた政権――日本国の破壊を経済と愚民化政策をはじめた政権、と僕が当時認識していたからです。
安倍さんが撃たれてしまい、個人的には遺憾です。
と言っても知り合いでも何でもない人物ですから、その辺のおっさんの一人です。若い女性の自死のニュースは本当に心の底から心が痛みます。それに比べればわりとどうでもいいです。
この事件は、なにより日本人の民度の低さを改めて露呈し、そちらが遺憾なのです。
東京駅の浜口雄幸首相の暗殺(1931年)現場(中央床点)
安倍氏が暗殺されたのは必然と題しましたが、これは正当ではありません。不当です。
不当である。しかし必然だ。
ということになります。
安倍政権に問題があったのは、格差政策や、法の施行の不公平や、利権の特権的な分配や、彼個人や周りの政治家が得た世襲的地位なんかの不当性です。
同じように、犯人による暗殺も不当です。彼の母は「破産した」のであって「安倍さんを殺さなければ今から殺される」のではありません。それぞれの罪の大きさについては議論があると思いますが、犯人は、あの犯行によって安倍さんと同類の罪人に堕ちていきました。
今回の暗殺が不当であることは、わりと単純です。
「どうして人を殺しちゃいけないの?」の回答はいくつか挙げられてきました。社会では「道徳だから」といった思考停止の主観のぶつけ合いでは話にならないため、誰もが認めざるをえない論拠が模索されて、一定のコンセンサスを構築してきたわけです。
今はホッブズさんの論を使うと、社会契約論があります。
近代社会は「お互いの命を守りあうために、お互いの殺人を禁止する」という社会契約によって成立しています。人を殺すことは不当であり、そしてその条件は生命ですから、生きたいと思う生命にみな平等に該当します。
例外についても結論は出ています。殺人は常に絶対に不当だというわけではなく、人間は生きようとするもので、社会契約はそれを担保にしているのですから、自分の命が危ないかぎりでは、この相互不殺の契約を守る意味がありません。そこで、正当防衛や緊急避難が認められることになりました。
安倍さんはあの瞬間、おそらく犯人を殺す権利がありました。これは道徳の問題ではなく摂理の問題です。あの瞬間の安倍さんに「犯人を殺してはいけません」といっても、安倍さんには、相手が不殺の契約を破棄しているのに、自分だけがその契約を守る理由はないのですから、気絶させるなどの他の手段がないならば、犯人を射殺しようという安倍さんへの抑止力は存在しません。
命に対しては命だけが対等であり、他の理由ではいけません。何かを盗まれたから殺すとか、侮辱されたから殺すとか、そういうのは不当です。
もし安倍氏が犯人に銃口を向けていたり、戦争を始めて、犯人を徴兵して東部戦線送りにしようとしていたなら、暗殺に正当性が認められるでしょう。ですが犯人は安倍さんに、直接的にも間接的にも命を脅かされていたわけではありません。ゆえに安倍さんの暗殺は不当です。
東京駅、原敬首相の暗殺(1921年)現場の看板
一方、これは必然です。
大きくまとめれば、戦後最悪の権力者が戦後最悪の死に方をしただけです。
安倍さんは殺されるほどの罪は犯していないので、自業自得ではありません。
ですが、やれば殺されるという行為はやっているので因果応報です。
摂理に反することは何一つ起こっていないのではないでしょうか?
安倍さんが生き残るコースって相当難関ルートですよ。あれだけやったら無理ゲーです。
安倍さんは悪人です。
被害者が悪人だったという話は『名探偵コナン』にもありますが、世の中には「加害者が悪ければ被害者は善だ」などという摂理はありません。ヤクの売人同士の殺し合い、ヒトラーとスターリンの戦争と同じで、悪vs悪というのは当たり前にあることです。今回は悪人が悪人を殺したわけです。
マスコミやネットの言論を見ていますと、安倍さんを祀り上げることで、次の犠牲者を出しそうな衆愚社会に恐怖を感じます。
「安倍さんは正しい人だった」となると、日本は第二の安倍氏を生み、第二の暗殺が起こるわけです。
安倍氏は聖人ではなく、殺されるべくして殺されたのです。
同時に、逆サイドの人たちは「悪人の安倍氏を殺したから犯人は英雄だ」としています――だいたいはジョークですが(確かにこの手のブラックジョークは大変面白いものです)、いくらかは本気です。とくに中高生などは危険です。
犯人の英雄化は「理由をつけたら人を殺していい」という大変危険な発想です。
日本では死刑廃止の議論も進みませんが、日本の大衆はこの発想で「殺してよい」と結論するので、死刑も推進し、殺人犯と同じことをやってしまい議論を進めることができません。
ナーガルジュナの縁や空といった概念がありますが、「子供の時に『人殺しになりたい』なんていう子供は居ないのに、どうして殺人犯になってしまうんだろう?」といった発想に至ることが難しいのです。勧善懲悪に慣らされた大衆は、思考の不足により、自身に殺人犯の性質を抱えてしまっているために言説が硬直しているのです。それが安倍氏への殺意と犯人の英雄化や、犯人の厳罰願望につながるわけです。これらは憎悪の蓄積になります。
安倍さんの暗殺は必然です。
そんな血なまぐさい惨劇が必然なの? と思われるかもしれませんが、政治とはそれ自体残念なものです。
歴史で読む話は、基本的に悲劇ばかりです。快適なところなんて、医学的発見や文化史くらいですよ。伝記では、政治や戦争にはろくなヤツが出てきません。歴史を学べば学ぶほど、コッホやベートーベンを英雄視したくなります。政治史は地獄です。ことに史書の厚い時代はダメで、記録のペラペラな時代ほど住みやすかった英雄統治の時代と言っても過言ではありません。
というわけで、冒頭の動画のように、この事件では起こるべきことしか起こっていません。
自然法という言葉があります。自然法則や、それに近い法則を指します。「物は上から下に落ちる」、「相手を侮辱すれば殴られる確率が上がる」といったことです。
摂理と言いかえてもいいと思いますが、政治の話になりますと、法としてこれを考える必要があります。日本国憲法には「人類普遍の原理」(前文)とあるものです。
たとえばモンテスキューは
……奴隷制はさらにその上、公民法にも自然法にも反している。どんな公民の法律が奴隷の逃亡を阻止できるであろうか。
(『法の精神』岩波上p55あたり)
として自然法を使っています。これは「人の考えは止められない」という自然法則だからです。
「自然界は厳しいので人間は力を合わせねばならない」という自然法は、ヴォルテールやヴェイユの社会哲学の基礎ですし、今日これに付け加えるならば、「人間はスマホや地下鉄に数カ月も囲まれていたら天災の恐ろしさなど忘れてしまうため、ときどき啓発したほうが社会性が上がる」というのも自然法に入るかと思います。
説により自然法には色々な範囲があって、スピノザなんかは「神の法」と「自然法」を区別しています。ルソーの『人間不平等起源論』には、その範囲の論争がグダグダでどうしようもないとありますが、さしあたって日本語の「摂理」という語がぴったりだと思います。
思うにこの手の哲学は古代中国で頂点に達し、孟子の易姓革命論――悪政をやったら人民が立ち上がるぞ――がシンプルかつ核心を突いた自然法論ですし、『韓非子』の冷徹さが凄いです。安倍氏が暗殺されたことは、韓非子的な「ああしたらこうなる」そのままです。暗殺は必然であり因果応報です。
東京駅、原敬首相の暗殺現場(左下床点)
第一に、安倍氏は国法、司法、憲法を棄損、無視して、私刑を受けました。
公の法の意義は、私刑を禁止するためでもあります。日本国憲法でも、私刑の禁止は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ……」(31条)にあり、つづいて裁判を受ける権利が明記されています(32条)。
安倍さんは権力の座から国法を破り、司法と検察を支配下に置き、警察官僚を重用し、立憲制を敵視し、憲法を無視しました。国法で裁かれる権利を放棄したのです。そこで権力者に対して、国法を使えない(と考えた)国民から私刑が行なわれることは摂理です。
権利、公平、法、正義の、よって来たところと本源的な成り立ちとが分かっていない場合、人は慣習と前例を自分の行動規範にするようになる。
(ホッブズ『リヴァイアサン』 光文社版1 p180)
後述のように、暗殺は明治維新以来の、日本の習慣と前例です。めっちゃくちゃ多いんですよ、暗殺。国民に法の意味を理解させるどころか、おのずから法を破り、ビジネス右翼に嘘をつかせて世論を汚し、法や民主主義の意味をわからないようにしてしまった安倍さんの因果応報です。
第二に、冒頭の動画のように、辻元氏のテロ警告を嘲笑し、テロに倒れました。
今の日本では自分の意見をはっきり言った人が突出してしまい、攻撃のターゲットにされてしまうように思います。
(辻元清美『デマとデモクラシー』 p264)
辻元さんは著書にも述べられている通り、おそらく安倍さんには、かなり真剣にこの警告をしていました。
安倍さんは今世紀の総理の中では、小泉さんと双璧で意見の目立つ人物でした。それがこれだけ安全を軽視しており、挑戦的な態度をとっていたら、敵に挑まれる蓋然性が上がることは摂理です。
また、嘲笑は民主主義の愚弄です。辻元氏も民選議員ですから、彼女の選挙区の有権者を嘲笑しているに等しいですし、そもそもこれは議論になっていません。安倍氏は「日本は神国だ」という思い込みと感情をぶつけているだけです。
思慮分別のある者には、果たすべき役割がある。
それは、こうした連中の言い分を健全な理性に照らして判定し、信憑性があると判定されないところには信をおかないということである
(ホッブズ 『リヴァイアサン』 光文社版1 p38あたり)
安倍氏は友人選びを間違えました。野党の辻元氏と、傾聴している石破氏――自民党議員ですが安倍さんの政敵――、安倍さんを守ってくれたのは彼らや、彼らに票を入れた有権者だったのです。安倍さんの背後のイエスマン達は、安倍さんと一緒になって警告を愚弄、爆笑し、安倍さんを殺したのです。彼らを選んだ有権者も、コメントの愚民も同じです。
第三に、安倍さんは、議論を破壊したために暴力を使用されたのです。
安倍さんの国会答弁は虚偽答弁の嵐でした。国会中継でも驚くべき発言や言語破壊が行なわれ、「そもそも」には「基本的な」という意味があるとか、「募る」と「募集」は違う言葉であると安倍さんが言うと、議席の過半数を占める利権屋仲間や腰巾着が同調するという、【馬鹿】の語源となった秦代の故事と同じことが行なわれていたのです。
桜の会の疑惑の時には、どこかの省庁が名簿だか何かを(野党の調査が入って慌てて)シュレッダーにかけたときに、その理由を問われて、「障害者雇用の人が~」と日本国の国会議事堂で、総理大臣が発言したのです。これは海外にも報道が出ました。会話が成り立たない中でもこれは別格で、議会の品格が日本史上最低のところまで堕ちた瞬間だったと思います。
そして日本の報道自由度を世界ランク60~70位に転落させました(たまたま見たものはニジェールとマラウイのアフリカ2国の間でした)。報道機関の弾圧や、スポンサー、記者、論客との癒着と、利権のチラつかせで報道言論も潰したのです。福田・麻生・民主党政権時には10位~30位くらいでしたよ。
公文書はのり弁と言われる黒塗りで、モリカケ問題では重要人物の証人喚問も拒否しました。このように言葉が通じなければ……となるのは摂理です。
とくに日本語そのものの破壊は問題外でした。いわば、まさに馬鹿です。
第四に、安倍さんは宗教を政治利用したために、宗教関連のトラブルから襲われました。
信仰のために人間は何でもする。これは摂理です。
ムスリムやオウムの例が有名ですが、人の信仰を政治利用すれば、身の危険が生じるのは当然です。しかも政教一致なんですよ。自民党も、統一教会も。
疑惑になっている統一教会(系)は、僕が学生の頃は、正体を隠して壺を法外な値段で売ったり、信者の方が全財産を教団に渡して行方不明になってしまったりと、大問題になっていました。自民党との癒着と一体化は岸政権の頃からで、これは学生運動の衰退とも関連していて、当時はわりと知られた話でした。反北朝鮮、CIA繋がりの冷戦的な、いわゆる親米保守団体です。
当時の大学には原理研、原理と呼ばれる宗教サークルがあって、それはまた可愛い女の子の二人組とかで勧誘に来るため、みんな一度は釣られかけたものです。そこで、統一教会については超絶警戒しろと、色々な話が出まわったのです。“教”会だったのが、キリスト教団体が関連を否定したために“協”会になったとか、そのときに聞いた話の一つです。
反社会的なカルトとはいえ、僕なんかは悪い宗旨ばかりとは思いません。大勢の信者が支持しているのは事実であって、皆が皆騙されているわけではないでしょう。出家者に財貨を捨てさせるのは宗教団体としては古典的ですし、それで財貨や欲望に狂った本人が精神的に救われるならば理に適っています。合同結婚式というのをやっていて、これは実態はともかく、方法は孤独で死にゆく現代の若者にはむしろ理想的す。ですが、攻撃的な教義、差別的な教義も多く、正体を隠すことや、プロパガンダの手法、権力との癒着など、政治的には有害です。
これについても、安倍政権の報道弾圧・腐敗と関連しているのでしょう、統一教会関連の報道は近年すっかりなくなりました。被害者が逃げる所、訴えるところは小さくなりました。犯人が暴力に訴えやすい環境も、他ならぬ安倍氏自身が整えたのです。
第五に、安倍氏は「日本を取り戻す!」といって反動層を扇動したために、90年ぶりの総理経験者殺害テロを食らいました。
安倍さんの取り戻したい日本というのは、平安時代でも縄文時代でもなく、どういうわけか大日本帝国です。
大日本帝国は世界史的にも暗殺帝国です。帝国誕生前夜から井伊直弼、坂本龍馬など暗殺だらけです。人斬り以蔵、中村半次郎なんかは著名暗殺者ですね。維新後も大村益次郎、大久保利通らが斃れ、助かった人では「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助、片足を引きずった銅像の大隈重信、司法の独立で有名な大津事件のロシア皇太子ニコライなどがいます。その後も原敬、犬養毅や高橋是清などが殺されまくりで、天皇、財界人、軍人、犬でも猫でも狙われていました。五・一五、血盟団、二・二六あたりは有名で、犠牲者には長蛇のリストが作れます。背景には生命軽視や、思考という行為そのものの弾圧、武力解決主義が考えられます。
犯人は「政治信条に対する不満はない」と言っているのです。元自衛官ですし、あの大チャンスに政治的アピールを全くしていません。いわゆる安倍政権の積極的な支持層、いわゆるネトウヨとか、自民党清話会の支持層に近い考えの大日本帝国の価値観を持つ人物が、大日本帝国臣民の取るべき手段、“維新”を実行したのです。令和維新をもたらした安倍さんは、日本を取り戻しました。
第六に、安倍氏は氷河期世代を捨てた結果、氷河期世代に撃たれました。
犯人は勉強はできたようです。あんな暗殺を単独遂行したのですから、有能であることは実証されています。あのレベルの仕事をできる人はそうはいません。
犯人は自衛官を3年やっていたので体力や胆力もあり、各種の技術もあったのでしょう。一面、暗殺をするほど知性に欠ける人物ではあり、愚民の中でも底辺です。しかし別の一面では、銃を造れるほどの技術や、計画性や冷静さはあったのです。
動機の想定として、統一教会系のトラブルで家庭が財産を失い、学業を断たれて、職に恵まれず不満を持ったという話が出てきていますが、つまるところ、有能な人材が鬱屈していたのです。適材適所を達成できなかった日本経済の犠牲者という話です。
僕の周囲の日本人から察するに、金銭面の動機は間接的なもので、直接的には自己実現の欲求(日本人はよく職業に依存させる)が爆発した可能性もあります。犯人にとっては能力や人間性の証明というわけです。
2012年から8年間の間、安倍政権は彼らの氷河期問題を放置しました。むしろ格差を拡大したのです。
丘や聞く、国を有(たも)ち家を有つ者は寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安からざるを患うと。蓋し均しければ貧しきこと無く、和すれば寡きこと無く、安ければ傾くことなし。
(『論語』16-1より)
政治をやるなら貧しいことよりも不公平が無いか、不安定でないかを考えろ。公平なら貧乏はないし、安定してれば国は傾かない。という孔子の言です。
ですが、次に述べるように、安倍政権はむしろ貧すれば鈍するとなった困窮層が増加することや、対立を煽って国民を分断することで、政治的に利益を得ていたのです。
第七に、第六と関連して、安倍さんは格差を広げて貧困層を貧困化させ、非正規・無職の犯人に撃たれたのです。
安倍さんは円安株高を誘導しました。つまり株をいっぱい持っている富裕層の富を増やしたわけですが、生活用の円くらいしか資産のない貧困層を貧困化させることで、その目的を達成したのです。その貧困化は自己責任(後述)です。
犯人は、非正規職を転々とし、犯行時は無職だそうです。
無残なほど貧しい人々、さらに、エネルギーのすべてを日常的に生存闘争に使いつくしている人々は、明後日のことを思案できないために、ことごとく保守的なのである。大いに繁栄をきわめている人々が、今日の状況にほとんど不満を抱く機会をもたないために保守的であるのと、まさに同じことである。
(ヴェブレン『有閑階級の理論』講談社学術版p202あたり)
富裕層……不満はないから安倍さんバンザイ
中流層……不満があり政治に回す余力があるため反安倍政権
貧困層……不満はあるが政治に回す余力がないため安倍さんバンザイ
だから、貧困層を増やそうというわけです。
まずます貧しくした分のカネは、不労所得層が株価や配当という形で得ます。
この命題から、次のことが言える。有閑階級制度は、下層階級から可能なかぎり多くの生活手段を取り上げてその消費を減少させ、結果的に、新しい思考習慣の習熟や適応に必要な努力の遂行を不可能にしてしまうほど、彼らが利用可能なエネルギーを減少させ、こうして、それは下層階級を保守的にするように作用する。金銭的等級の最上層における富の蓄積は、その最下層における窮乏を意味する。およそこのようなことが生じるところでは、人民集団内部におけるかなりの規模の窮乏が、あらゆる確信に対する重大な障害になるということは、ごくありふれた事柄である。
カネの問題で撃たれたわけですが、社会保障や大学無償化をやっていれば助かったでしょう。安倍氏は自分で作った貧民にやられたわけです。
第八に、安倍さんは、自己責任論を推進した結果、自己責任で殺されたのです。
中東でジャーナリストがテロリストにつかまった時に、安倍政権と、おなじみの安倍シンパの面々と、その肥やしの羽虫みたいな連中が「自己責任! 日本に迷惑をかけるな」と連呼していました。その内容はもうめちゃくちゃ――サービスを提供せずサービスを受けるだけの国家は存在価値を失います――で、上の動画のような地獄です。
事件の時に、安倍さんを身を捨てて守る人は誰もいませんでした。現場の警備のことではなく(賃金や職のためなどに命を捨てるべきではありません)、警備以前のことです。
辻元さんが嘲笑されたあと、安倍さんが総理を降りた後も、真摯に、たとえば地位を棒に振ってでも詰め寄って警備を押し付けるような人、ボランティアで警戒してくれる人には恵まれなかったのです。「敵を作るな」と言ってくれる人も居なかったのではないでしょうか。上の動画のように、安倍さんを盾に、敵を煽ることで味方の愚か者から小銭をもらう侫人ばかりを集めていたのです。
安倍氏本人が、「もし何かあってもお互いに自分の責任だから」と考えて、達観に近い状態にあった自己責任主義者だったかもしれません。しかし色々な情報を見るかぎり、安倍さんはああいう場でも生きたいと考えながら、韓非子の「良薬は苦し、忠言は耳に痛し」を聞かずに賢人を遠ざけたのではないでしょうか。
事件の後も、いわゆるビジネス右翼、安倍プロパガンダを行なってきた安倍カルトの界隈は、安倍氏の死を即刻利用しようという酷いものが目立ちました。安倍さんが聖人化すれば、別の侫人が、後出しジャンケンをやって、初期に安倍さんの死を利用した侫人を責めるでしょう。しかしこれは不当です――侫人どもが自己責任論を改めない限りは。彼らによれば、安倍氏の死は自己責任ということになるためです。
第九に、安倍氏は愚民化政策を推進しました。そこで愚か者に殺されたのです。
上述のように、安倍さんは国会やテレビの討論で日本語を崩壊させ、知性を嘲笑し、また知的底辺の人々を扇動し、プロパガンダを使い、マスコミをコントロールして、日本人を愚民だらけに引きずり落としました。
安倍政権下の日本人の劣化には驚くべきものがあります。主な原因は政治ではなく、ネットとそのユビキタス、だいたいはスマホにあります。しかし安倍政権はこれを利用して、ディストピア的な愚民増加を推進したのです。
僕が大学にいた頃、中国や北朝鮮の個人崇拝についての議論が出たことがあります。当時は遅れた国だった中国や、北朝鮮の田舎者が、将軍様やら毛沢東やらにすがりついて泣くわけです。もちろん先進国の民、フランス人やイギリス人やドイツ人など、クラスのカッコイイグループはそんなことしません。日本人だってそんなことはしなかったので、僕らは中朝の姿を笑って「これは独裁国家だからプロパガンダで言わされているんでしょ」「いやお金くらい出てるでしょ」なんて言いましたが、先生は「いや本気です」と言いました。そのときには僕も「ほんとっすか?」などと思ったものですが、社会人になってみると、年休を消化していないということを恍惚の目でイキってくる者がいて、日本人も似たようなものだと思いました。
当時はそれでも、中国や北朝鮮のそうした姿が報道されると、日本人は、アジアの蒙昧さを先進国から眺めるという態度をとっていたのです。中曽根康弘や宮澤喜一にカルト的忠誠を誓う人なんていませんでしたよ。橋本龍太郎や佐藤栄作の銅像にすがって泣きつくとか考えられません。小泉政権から会社への信仰がカリスマ政治家に移り、おかしくなったのです。安倍政権になって、中国には追い抜かれました。
日本人の愚民化と個人崇拝を進めれば、カリスマができます。信者が増えれば、利益が増すのと同時に、狙われる危険も増すのは摂理です。権力者を崇拝してしまうような知的弱者は安倍さんには都合がよかったのでしょうが、彼らが言論よりも暴力に頼りやすいことも摂理です。このレベルの者を大量生産すれば、牙を向くアンチカルトも暴力に頼ります。
第十に、安倍さんは歴史を美化改竄して歴史から学ばず、令和維新されたのです。
日本人は暗殺をあまり悪いことだとは思っていません。本人たちは思っているつもりでしょうが、外国の人々ほどには思っていないのです。
幕末維新の志士たちは「天誅」などとは言いましたが、当時の権力者たちにも安倍さんと同じく生存権があり、国民の死に繋がらない程度の汚職や政治判断をしたことによって、命まで奪われる筋はありません。
幕末の権力者や志士たちが「天誅」すなわち天の摂理・自然法として殺されるとするならば、政治によって飢えや不安を与えられた無学無想の民によって殺さねばなりません。ですが志士たちは、帯刀を許されて人命の責任を負った特権階級です。それが個人的に思想を持って「天誅」などというのはただの嘘であり、それは人誅、すなわち殺人であり、それで政治を動かすのはテロリズムです。
暗殺によって建てられた明治政権は、暗殺を批判しませんでした。それが昭和維新などと叫ぶ昭和のテロの連鎖を招きました。たとえば二・二六事件では、陸軍の皇道派というグループが暗殺により政治家を委縮させました。皇道派は罰せられ衰退しますが、軍事官僚の一部は大陸に左遷されて、これが盧溝橋で暴走して、軍部が帝国を中国との戦争に引きずり込んだのです。事件の前には、統制派のボスの永田鉄山が暗殺され、それで東條英機が台頭したのです。永田鉄山がいれば対米戦は起こらなかったとも言われています。
テロで政治家を黙らせ、青年将校の暴走と軍部の独裁を招き、大日本帝国は滅亡しました。
安倍さん自身も明治維新を政治利用して、150周年などと言って宣伝して、無反省に崇拝していましたから因果応報です。
日本人は暗殺まみれの幕末を反省すべきでした。あの時も今日も、ネットの反応とかも日本人は麻痺してますよ。歴史から何も学ばなかったから。
安倍さんも、長州を政治利用するならば、誰よりも強かった剣の使い手なのに「逃げの桂」と言われて誰も切らなかった木戸孝允などを見直すべきでした。ですが右翼反動陣営はリベラル派の事績を葬りたいし、日本人は偉大で賢いといって無知で短絡的な人々を騙して釣りたいので、木戸―大隈―西園寺の路線は嫌いです。そこで吉田松陰や伊藤博文や桂太郎なんかを持ちあげ、民族の欠陥を治してくれる歴史的事実を隠蔽したのです。
このテロが連鎖するのか否か、気になるところです。
というか連鎖は止めなければなりません。
日本国の主権者たるわれわれは、「テロの根をどうやれば刈り取ることができるのか」を、「どうやれば安倍政権のような権力を二度と生まないか」と同じくらい考察する必要があります。
まあでも、この二つは根が同じです。上に挙げたように、必然であるからです。
現状の民心を放置した場合、暗殺未遂が何件か起きても不思議はありません。
ただでさえ通り魔事件が増えて、最近では東京では電車が止まるのが流行し、血しぶきの匂いが漂う空気になってきています。
おかしな人というのは必ずいるものですから、安倍さんと同じにしてやるぞ、という脅迫は増えるでしょう。
テロが摂理である以上、それを止めることは理屈が分かれば可能です。
そこで上の十の必然を止めればいいわけです。
なぜ安倍氏を暗殺なんて? という感想は、僕は抱きませんでした。
安倍さんの私邸に20代の女性が侵入した事件や、官邸ドローンの事件がありましたが、僕だけでなく世の中全体が「まああるやろな」という反応でした。
むろん近代日本史を知っていれば、暗殺という手段には驚くには値しません。安倍さんという標的も、日本一の有名人、日本一敵が多い、日本一の権力者と、国内最高の標的要素を3つも抱えていれば、ごく当たり前です。誰かが狙われるとすれば、まずこの人です。これが、失礼ながら菅さんとか野田さんとか、どこかの県知事とか副大臣あたりがやられて安倍さんがピンピンしていたなら、「なんでやねん」と総ツッコミが入っていたと思います。
元総理といえども安倍さんは”最高権力者”です。
ホッブズが「権力を備えているという評判も権力となる」(『リヴァイアサン』 光文社p151あたり)というように、安倍氏は権力者でした。
そして「学問は小さな権力である。なぜなら、学問を十分身に着けた者でないと、相手に学があるということが理解できないからである」とあるように、安倍さんは議論の通じない大量の愚民を支持者に持つ大権力者です。
民度が低い→ 安倍政権樹立→ 腐敗と愚民化政策→ 民度が低下 → ループ……
というわけですから、この打開のためには何らかの衝撃が必要です。
それは暴力です。
「議論ができなければ実力行使になる」というのは民主主義的な手続きで、国によっては法に明記されている抵抗権や革命権もその一部です。日本人の大多数はこれをよく理解していませんが、アメリカの銃規制も根本はこの問題です。政府に対して国民が暴力で対抗できるように、国民は銃を持たなければいけないという考えです(個人的には程度の問題から反対ですが基礎理論は間違っていません)。
この民主主義的暴力のもっと常識的な、日常的な段階ではデモの権利があり、これは日本の法律にも明記されています。暗殺に至るまでの間に色々とあって、まずは脅しです。歩くだけのデモから、それでだめなら騒音を立てるもの、暴言を叫ぶものとなり、それでもだめなら発煙筒やペンキを使うものとなり、鈍器や投石で器物を破壊したり、さらに催涙弾などを打ち合ったりして、火炎びんなどが出てきます。ウクライナのオレンジ革命は騒音まで、マイダン革命は殺しあいにまで発展したデモでした。
民主主義的な暴力においては、生存権は絶対的基準ですから、殺人は自分が殺されるという時に初めて許される、最後の最後の手段です。
ですが日本人は馬鹿なので、デモなどができず、いきなりテロになります。
今回の犯人のだめなところは「暴力を使ったこと」ではなく、「不当な暴力を使ったこと」です。彼はまず銃の作り方ではなくて、プラカードの作り方を学ぶべきでした。銃の撃ち方ではなく、路上を練り歩く同志の作り方を学ぶべきであったのです。
今の日本の場合、権力の側にも大変問題があります。
そもそもマスコミが権力側というのは問題外ですが、正当な暴力を押さえつけていることが最悪の結果を招くと思います。次のテロがおきたらその犯人はマスコミです。
おわかりですね?
「暴力はぜったいにだめだ!」
ではなく
「テロじゃなくてデモをやれ!」
と宣伝すべきなのです。
民主主義を担保している自然法は、「言葉が通じなければ暴力だ、というのは摂理だ」と言います。究極的には他人の決断を止めることは摂理として不可能だからです。
マスコミは今現在刻々と、鬱屈したテロリスト予備軍のヘイトガスを溜めさせています。
人間が破ることのできない摂理が自然法ですから、人間は自然法を破ることができません。自然法を破っても、かならず自然から報復されます。
「言葉が通じなくても暴力はいけない」などと洗脳しようとしても、不満の溜まった人間は、自分でも制御できなくなり、必ず爆発します。
安倍さんの犠牲におよんで、権力側のマスコミが、世襲貴族や財界やカルト教団がグルになった偽装民主主義に加担し、民主主義という言葉を連発しながら、「生きている競争相手の栄光を曇らせるために、死者の功績をことさらに特筆する」(ホッブズ)も実践しているので、もう最悪ですよこれは。
ヘイトはどんどんたまります。言語が苦手な人々は危険です――安倍政権や商業宣伝によりに生産された愚民なわけですが。
この人たちは、不満を「論破」されてしまう人々です。
安倍氏の墓にも相当のイタズラや攻撃を仕掛けられるんじゃないですかね。相当ものものしい警備が必要になりますよ。マスコミのせいで。
マスコミはそれ以前に、安倍政権的な腐敗政治や格差拡大を起こさせないことが使命です。この使命は自然に定められたもので、それを破れば必ず死人が出るのは摂理です。今まで通り権力者に媚びたいにしても、これは選ばざるをえない方向です。
日本の安定に効果があるのは、第一に腐敗政治をさせないこと、第二に日本人が正しい暴力的抵抗の仕方を学び、デモや集会や政治の議論などを御互いにさせる事です。他に道はありません。ガスを溜めれば爆発することは摂理です。
近いうちに次の事件が起こったら、その責任は脳死の愚民を大量に作って、ヘイトガスをパンパンに溜めさせている今日のマスコミにあります。
一般の国民がすべきこともあります。
日本の治安を回復する手段として、まずは「日本人も他国民と変わらず、大衆は愚民であり、現在その総合的なレベルはかなり低い方である」という、合理的な現状認識が必要です――有権者は多分の理性をもって政治を行わねば死滅するからです。
安倍政権下の国会の品性の低劣さは芸術的ですらあります。上の動画のコメントの人々だけでなく、爆笑している議員どもの背後には、彼らを選んだ人々が大量にいる社会が日本です。
僕は海外生活をしていましたからハッキリ物申すわけですが、日本の有権者の脳は、政治選択に必要な知識のかわりに、芸能人が誰と不倫をしたか、業務の方法、アニメの筋やゲームの攻略法、マウンティングの技術で埋まっているのです。大学生なんかは先進国とかなりの落差があります。
大衆は馬鹿だと言っても、その知能が低いと言っているわけではありません。嫌味な言い方をすれば、グラックス兄弟、バークとトマス・ペイン、吉野作造などにメモリを使っているかわりにAKB、モー娘、韓流アイドルも一人も知らない芸能音痴で、芸能界への興味もろくにない僕が、一万人の同レベルの人間と一緒に芸能界を多数決で仕切り出したら、芸能界は衰退して滅びるでしょう。
僕と逆の知識体系を持つ人々は、素質的には僕と同様の凡庸な人間がほとんどでしょうから、僕が芸能音痴であるのと同レベルの政治音痴であるはずで、これは恐るべきことです。
今、和室にいる僕の前には大西浄久という人の江戸初期の茶釜があり、床には狩野尚信の絵がかかっていますが、愛国! などと言う連中に限って、その実は日本には何の興味もないので、日本の文化も歴史もよく知らなければ日本語すらよく学ばず、疑似科学、疑似歴史、疑似政治、疑似経済学なんかに騙されているだけです。批判する能力すらない人々がやっている衆愚政治ですよ。
自分たち有権者が馬鹿であると気づくことは、民主主義の第二歩目といったとことです。
「無知の知」は言葉だけは有名ですが、この意味は日本では知られていません。
出典はプラトン『ソクラテスの弁明』です。アテネ民主政の衆愚政治がテーマの本で、ホモのプラトンが愛していたソクラテスが、「自分達は賢い」と信じていた議員たちの地雷を踏んだために多数決によって殺されて、ブチ切れて書いたのです。
自分達のことを賢いと思っている愚民どもに殺されたという点は、ある意味では安倍さんも同じです。アテネ民主政は、プラトンの弟子のアリストテレスの代に滅びます。
日本の大衆は、民主主義の意味といったごく初歩的なことを知らず、「民主主義は多数決だ」などと言ってのけます(そもそも「主義」なのにおかしいと思わないんですかね?)。
ドイツ人やフランス人などヨーロッパ人、カナダやオーストラリアの人々は大体これをできます。旅で会うような階層の人々なら「an idea that we govern ourselves」(我々が我々自身を統治しようという考え)といった表現を雑談でさらっと使います。台湾や韓国の人々も当然これはできますから、後進国の日本がアジア先進国に国力でも抜かれるのは当然です。日本人はインテリ気取りの連中でも、多くが自己実現しか頭になく、社会実現の概念が欠落しています。
多数決というのは非常手段にすぎず、民主主義は全員一致を目指す主義で、市民日常の議論と議会が主役です。議論が必要なのは「有権者は正解を導き出せるほどには賢いが、知恵を結集した話し合いでそれを探さねばならない程度には愚かである」という前提があるためで、「人間はすでに賢い」とすると、議論なき多数決が正しいという大衆ファシズムに陥ります。つまり全員が愚民に隷属するということです。
これでうまく行くわけはありません。たとえば少数意見の尊重は、湯川秀樹も言っていますが、新しいアイデアは常に少数意見だからです(出典は昔立ち読みした新書)。中性子だって理論的発見時には湯川しか存在を知らなかったので、議論がなければ有識者1人vs湯川以外の全人類で「そんなものはねえぞ馬鹿w」の衆愚政治になります。より根本的な理由もあり、ロックの寛容論やミルトンの言論自由論が嚆矢です。
日本人からは「投票に行かないやつが口を出すな」という言説もよく耳にしますが、これも無知です。
近代民主主義は方便として間接民主制を採用していますが、主体は直接民主主義です。有権者が普段から議論することが第一です。投票の権利の行使を理由にこの権利を奪うことで、この論者は言論弾圧を行なう民主主義の敵になっています。
実は、これも日本でよく耳にする「政治と宗教の話はするな」などと流布することこそが反民主的なのであって、これほど日本の後進性を示す言葉はありません。「政治と宗教の話はするなという馬鹿は黙ってろ。何様のつもりだ」という社会が先進国であって、民主主義的な考えです。議論自体は絶対にせねばなりません。
巷間の政治議論は民主主義の第一歩です。ルソーは「間接民主主義下のイギリス人は選挙期間だけ奴隷ではなく、投票が済むとまた奴隷になる」ということを言っています(たぶん社会契約論)。民主主義の本体は議論です。投票権行使の放棄は、間接民主制の権利放棄の一つにすぎません。
それに「投票に行かないやつが口を出すな」が通じるならば、逆に「普段から議論しないやつが選挙に行くな」、「今から言うことも正解できない奴が口を出すな、設問1……」といった「理由をつけて他人を黙らせてよい」が成立してしまうので、これはファシズムです。
「いかなる理由があっても他人の口を封じてはならぬ」が民主主義です。
とはいえ、実のところは、この手のことを言う人は「自分のためにも選挙に行ってほしい」ということを伝えたい場合が多いと思います。ですが、逆効果になっています。それに、よほどの信頼関係のない相手から「選挙に行け」と命令されることで選挙に行くような者は主体性が欠如しているため、「○○に入れろ」にも従います。自分の選択ができない者は愚民ですから、衆愚政治に一票を投じることになるでしょう。選挙対しては、政治参加の楽しさや、民主主義が固有に持つ人間完成感を宣伝したりして、自分の意思で行ってもらうしかありません。
正直に言って、眠っている人民を起こし、彼らがもっていない情熱と知識とを授ける手段を確実に示すことは困難である。
自らを治めることに関心をもつべきだと人々を納得させることが難事であることを知らぬわけではない。
村役場の修繕よりも、宮廷儀礼の詳細にその関心を向けさせる方がしばしば容易であろう。
けれどもまた私は、中央の行政が直接の当事者同士の自由な協力に完全に取って代わろうとするのは誤りであり、またその場合、行政は住民を欺こうとするであろうと考えている。
ニュー・イングランドの住民がタウンに愛着を感じるのは、それが強力で独立の存在だからである。
これに関心をいだくのは、住民がその経営に参加するからである。
これを愛するのは、その中で自分の境遇に言うべき不満がないからである。
住民はタウンに野心と将来をかけ、自治活動の一つ一つに関わり、手近にあるこの限られた領域で社会を治めようとする。
(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』岩波1上p143、p111)
こうした日本の非民主主義的な言説は、オッサンという層から大変よく耳にします。
イキってしまうことで、逆に、アジアの伝統的な奴隷になってしまっているのです。
この根幹には、「互いの自由と権利を互いに守り合う」といった民主社会の原則を日本人が理解できていない、という蒙昧さがあります。
我々は「政治と宗教の話をしよう」とすべきです。
そして日本はそれほど平和ではありません。人は経済内戦下に暮らしています。
僕が物心ついてからはずっとそうです。政治も経済内戦の戦線の一つにすぎず、よって、すでに暴力寸前の状態にあります。
「暴力はいけません」は政治では通じません。
これは道徳論ではなくて自然法、摂理だからです。
言ったって無駄なものは言ったって無駄です。
無一文の子供は、腹が減ればパンを盗もうと考え、それは止められません。
そのときに何も与えられずに飢えれば、強盗に及ぶでしょう。
彼には自分を餓死させる社会のことを思いやる理由がないのです。
今日の言論を抑圧すれば明日のデモになり、明日のデモを抑圧すれば、明後日のテロになります。
有権者は政治を冷徹な目で見なければなりません。
ときに暴力は必要で、武力革命を経たイギリス、アメリカ、フランス、中国が繁栄している現状は偶然ではありません。
これも程度の問題であって、大日本帝国のように、テロの頻発で政治家が委縮すれば破滅します。逆に、国民が従順すぎてチョロいために、権力者を暴走させて破滅したのがドイツ第三帝国やソ連です。戦後日本もこの道を行っています。ですが日本は今回の暗殺より、大日本帝国の轍を踏むほうにいくかもしれません。
カルト型の後進国である日本のマスコミは、国民の洗脳に邁進しています。
「政府の言うことを国民にきかせること」ばかりを喧伝します。
必要なのは、「政府に国民の言うことをきかせることと、国民に政府の言うことをきかせることのバランス」であって、理論的には憲法にあるように後者が優先されます。これも自然の摂理で、ヒトあっての国であり、国があるからヒトがいるわけではなく、国はツールだからです。
安倍氏の殺人が不当であることと、この民主主義の暴力の正当性とは別個のことで、混同してはなりません。冷徹に見れば、安倍氏の暗殺は、国民をナメて利権を吸って笑っていた政治家を震え上がらせたという一面の長所があるのは確かなのです――われわれへの損得の総計は別にして。
市場経済と計画経済のどちらがいいか、というのがバランスの問題であるのと同じく、暴力もバランスの問題です。
1 国民が暴走、権力者が委縮 ×
2 国民が緊張、権力者も緊張 ○
3 国民が委縮、権力者が暴走 ×
1の場合は、国民が国法を守らないので治安的カオスや内戦になります。
3の場合は、政治家が国民の利益を守らないので専制や独裁や対外戦争になります。
2の相互緊張はパワーバランスによってもたらされますが、それを暴力なしに保とうというのが近代民主主義です。その手段が言論と投票です。
トクヴィルが書き残したように、先進国では、国民の利益に合わないことをすると投票で落とされるという圧力が権力者に緊張感をもたらし、2の緊張関係がもたらされるというわけです。民主主義で短く定められる任期の意義もこれです。
これは人間の知性の問題であり、民度が民主政の達成に及ばない場合、世襲貴族や富裕商人が専制・寡占体制を敷きます。「国民の利益を吸い上げててもいい」と国民がいうなら、世襲貴族や商人は当然それをやります。
頻繁に政権交代するか、もしくは与党勢力の議席を5割強程度にして国民をナメないように圧力をかけつづけないと政府の緊張感は保てず、民主主義体制の維持は難しいです。日本人はこれすら考えられないので貧困化しているのです。
一部の国民に有利で一部の国民に不利な権力が長期間盤石になると、「暴力でしか世の中を変えられない」という状況に達して――すなわち行動しなければ自分は永遠に報われないと考える有権者が、「親ガチャ」などの諦観を示す言が流行るほどに増えて――暴力が発生します。
今回の犯人だって、油断しているところを後ろから飛び道具で撃つなど到底カッコイイとは言えない手段をとっていますが、現状が続けば彼は神格化、英雄視されますよ。これは摂理です。
「国民がナメられるほどの非暴力でも国が傾く」のですから、摂理として段階的に発生する政治的暴力は、今の日本でも必要な暴力です。
日本は、ヨーロッパや韓国やアメリカと同じく、完全なる非暴力では政治をコントロールできない国家です。
他の国々と同じように、市井の議論や集会、デモなどは必須です。
実のところは、日本はもはや偽装民主主義というに近く、民主主義国よりも政治的民度は低めです。
民度が極めて低ければ、政治的議論や、共感に慰めを見いだせる団結や、正当な手段による駆け引きができないですし、彼らが選んで建てる政府も、政治選択者のレベルに従い、頭が悪いか、人格が腐っているかのいずれかになります。
そこで、そこでは政府による国民の弾圧や欺瞞がおこり、国民の側の応答は、黙らされたゆえの静粛と孤独と、殺人的暴力の形をとるのです。
民主主義を最低でも90年代、できれば60年代のレベルにまで復活させ、ドイツやイギリスのような先進国を目標に、お互いを啓蒙していくしかテロや暗殺を止める方法はありません。とにかく第一には政治について語らせることです。
総括します。
安倍さんが撃たれてしまったことは、起こって当然の悲劇でした。
悪政の因果は10ほど例を挙げられるほどです。
その原因は、実行犯だけにではなく、マスコミや、日本人の愚民ぶりにあります。
事件のあとのマスコミや大衆や政治家の振舞い方は、反省するどころか、安倍政権の路線を継続し、暗殺やテロの再発を導き出すものが多く、めちゃくちゃ問題があります。
日本をテロ国家に陥れないためには、民主政を実践する必要があります。
民主主義を偽装して嘘をついて誤魔化せば、不満や諦観はかならず爆発します。
日本国の正常運転には相応の労力が必要です。
日本人は、まずは己の無知を知る必要があります。我々は政治的天才ではありません。
第一に知恵をつけることです。
議論や投票で運営できなければ、先進国のように、デモなどの正当かつ小さな暴力でガス抜きをすることです。
ここを誤魔化すと、憎しみが溜まって、大きな暴力になるのです。
政治や宗教について議論をさせることです。
さもなければ日本社会はますます壊れて行くでしょう。