(つづき

 

6.ゴジラの曲


 吹替版映画は、ライト層への営業のために、こんな時間にこんなブログを読んでいる貴方から見れば残念な改変がされていることがあります。

 今回の主題歌は、それに当たるかもしれません。

 原版のエンディングでは、この曲が流れます。

 『Godzilla』 Blue Oyster Cult, 1977
 

 歌詞は、勝手に訳しますと

 しかつめらしいキメ顔 凄まじい轟音
 ヤツが火花を散らす 高圧電線を引き倒す

 通勤電車の連中が叫ぶ
 ヤツを見た者の目が丸くなる

 ヤツはバスをつまんで 後ろに放り捨てる
 ビルを潰しながら 都心へ向かっていく

 おいマジか、皆はやっちまえだって
 行け行け ゴジラ
 おいおい、トーキョーだ
 行け行け ゴジラ

 God(Zilla) God(Zilla)
 God(Zilla) God(Zilla)
 God(Zilla) God(Zilla)
 God(Zilla) God(Zilla)

 歴史は何度も何度も 証明している
 大自然に人間の馬鹿っぷりを 晒されてるぜ



 ハードロックですから『バベルの塔』のイメージでしょう。
 『ゴジラvsキングギドラ』では、“バブルの塔”、東京都庁が粉にされます(もっとやれ)。

 ハードロックの悪の精神は、力や成功というバビロン的道徳、「勉強して大人の言うこと聞いて、他人を蹴落とすぞ」という“よい子”のアンチとして、キリスト教道徳(平和や博愛)、自然主義、科学的精神が、攻撃的・皮肉的・不良的に表現されたものです。

 この曲はKOMの精神そのものです。
 バンド名に「カルト」とあるのは偶然かと思いますが、
聖歌と言ってよいでしょう。


7.人間は王ではない

 怪獣教がどこまで“キリスト教”と対立するかは見方によると思いますが、自然や動植物との付き合い方の批判は確実でしょう。

 創世記では、(真意は認識論だと思うのですが)人間だけが神の姿として創られ、また魚、鳥、動物の王とされます。

 聖書にも、無益な殺生や虐待はあかんと書いてありますが、あくまで王様のノブレス・オブリージュ。神をかたどられた人類だけの神的な恩寵や慈悲によるものです。

 怪獣教では逆に、自然の総体こそが王です。

 KOMの名セリフであろう“No. We will be his.
 「人類がゴジラをペットにする」という政府に対して芹沢博士が放つ「いや、こちらがゴジラのペットになるのです」。

 新約聖書すなわちキリスト教の公式ドグマは、イエスの素朴ながら核心を突く“真言”を、パウロが解題して成立しました。
 その後、トマス・アクィナスは、聖書とギリシャ哲学とを融合して神学を打ち立てました。『神学大全』は、アリストテレスから引継いで「すべて動植物は人間のために」といいます。

 元は、ナイーブな人びとを、罪悪感から精神を救うためのことばだったに違いありません。「安心してご飯を食べてもいいのですよ」というわけです。
 しかしすぐに、支配欲の正当化に利用されました。それが自然破壊です。
 近代、ヴォルテールはこの人間主義(ヒューマニズム)を思い上がりだと皮肉っています(『ミクロメガス』)。ルソー(だったはず)は、神の言葉は信じるが、現実に我々が目にする神の言葉は必ず人間によって書かれており、それを妄信すべきではないといいます。
 現代の生物学はピラミッド的な食物連鎖を脱却し、「生態系」というサイクルの概念にたどり着きました。僕が昔かんがえたウンコ教は、こんなブログをこんな時間に読んでいる貴方のような連中のウンコや吐息でも、生死をかけて求めている生命がおり、その生命やその産物を求める別の生命がおり、それをまた誰かが欲している、みな共生し、相互依存しているという訳です。
 仏教は生命も無であるという達観ですが、周囲にはコレに近い考えがあり、前世の業によるカースト感からも脱却します。

 KOMはひょっとすると「キリスト教的な自然感は自然破壊の元凶だ。ゴジラや仏教のような東洋思想を取り入れろ」と言っています。
 前述の、東西の龍のくだりや、後述の、芹沢と“パパ”の和解や、黒人女性の司令官や東洋人女性の科学者リーダーが当たり前に登場する配役は、諸文明の長所を止揚できる移民国家という意味で、アメリカンに見えます。

 怪獣は放射能「だけ」を食べるのではなく、人間をも食べる設定などは、自然の象徴神である怪獣の天災性に、動物性も加えたように見えます。初代“中の人”の中島春雄は動物性を演技で見せていましたが、特殊技能の歴史的な積上げが成す表現であって、研究をしたからといって簡単にコピーできるものではありません。人間を食べる設定は(当初は)東宝が拒否したといいますが、自然と動植物を切り離すことは難しく、個人的にはKOMのテーマならば監督を支持したいです。



8.ゴジラ・キリスト

 KOMは色々な意味で“新約”です。
 復活するのはイエスではなく、ゴジラです。

 ですがキリストが復活することには変わりがありません。

 イエス・キリストとは「救世主イエス」の意で、キリスト教は、イエスを伝承の救世主として認める信仰です。
 怪獣教はカルトですから、イエス・キリストならぬ
ゴジラ・キリスト(救世主ゴジラ)です。

 

 または、ゴジラを信じて愛し、己の身を犠牲にゴジラを復活させた芹沢博士がイエスゴジラが神という構図です。


 2人いる魅力的なキャラクターのもう一人は、芹沢博士です。
 彼は “Ishiro Serizawa” 
ではなく “芹沢猪四郎” です。

 映画だけではわかりづらいですが、ここんとこめちゃくちゃ重要です。試験に出ます。

 新“約”聖書は、モーセが結んだ神と人類の契“約”を、イエスが変更したものです。

 監督が落書きをしたイェリコの話のように、旧約の神は恐怖の対象ですが、新約の神はやさしい守護者です。
 ドハティ監督の怪獣教では、旧約(1954年版の初代ゴジラ)の登場人物の苗字芹沢と、その創作者(旧約の監督)、本多猪四郎の名前を持ったキャラクター。

 彼が、新約KOMではゴジラを殺すのではなく、ゴジラを救います。これは芹沢猪四郎ではくてはなりません

 インタビュー
によれば、監督自身に一番近いのは芹沢です。

 芹沢はゴジラの本質を伝える役割を担っています。

 彼だけが、ゴジラが人間と怪獣が共存するための鍵だとわかっているんです。

 芹沢はゴジラと向き合い、恐れず触れ合うことさえしています。

 なぜなら彼はゴジラを理解し、敬意を持っているからです。

 僕にとっては、誰よりも共感を覚える人物ですね。


 芹沢は当初から敬虔な怪獣教徒で、妥協なき共存派。

 怪獣教徒ですから、共存と言っても怪獣が支配する派です(監督にとってはこれが中立で自明なので説明はありません)。
 芹沢は、十字架のかわりに核爆弾を重そうに持って、死にに、ゴルゴタの丘へ続くような階段を登っていきます。

 信仰。

 芹沢は、ゴジラのエネルギーとなって、人類を救いたい。

 これは彼の生涯をかけた主張の実現です。

 ゴジラを神と見立てれば、信仰のために死ぬ芹沢は、イエスそのものです。

 死んでしまう芹沢は、先のことは知りえないのですが、ゴジラの可能性をこれっぽっちも疑っていません
 芹沢にとって、神は常に心の中にいる存在です。たとえばドイツ語では、神は敬称「Sieあなた」ではなく、親称「Du」の特別な大文字です。
 芹沢の最期の台詞は、ネタバレ記事とはいえ、忘れてしまうことのできた人がいるかもしれないので、伏せておいたほうがいいかと思いますが、そういうことが含まれているのでしはないかと察します。



9.イエスとゴジラ、両キリストの違い

 怪獣教がカルトなところは、人類は自然の付属品であり、最重要の存在ではなく、自然を守るためなら人類を滅ぼせというドグマです。

 「だって自然が滅びたら人間も滅びるからね」というのがシビアなところです。
 急進的になれば即ヤバになります。

 KOMの怪獣は、ゴジラを置いておいて総体としてみると、日本やギリシャの神概念に近いです。
 神道には、天使と悪魔という人間主観的な存在はなく、人間が得をしようが損をしようが、みな神の仕業です。

 また人間の益となる神も、イエスのように直接精神を救ってはくれません。イエス・キリストは救済の対象が人間なので、我々を助けてくれるだけですが、ゴジラ・キリストは救済の対象が地球自然。人類よりメタな地球自然を救う大義のために、小たる人類の破壊も行ないうるのです。

 それを免れるには、地球自然=人類の陣営状態を保たねばなりません。

 ゴジラ・キリストは博愛です。人間のためにといった、人間を特別扱いするプログラムはありません

 困った生物と、それを苛める生物がいたら、困っている生物を救うでしょう。
 しかし、人間の「敵ではない」「信頼している」という意志表示には答え、シンゴジなどより意思性の高い存在であり、単なる機械的な自然現象ではありません。



10.新約は、旧約の何を書き換えたか

 ゴジラは本来、意志があるのか無いのか、恐怖の存在としてグレーな線を攻めていました。

 初代ゴジラは、人類が
核実験で蘇らせた存在です。
 ゴジラに襲われた人類は、

 1.武力殺害派(尾形)

 2.共存を主張する老古生物学者(山根博士)

 と対立しますが、結局、

 “芹沢博士(1954版)”が、

 秘密兵器「オキシジェン・デストロイヤー」を使い、

 その兵器と、その開発の秘密を知る自分とを共に、

 ゴジラを殺す

 というエンディング(平和主義よりの1)です。

 ハッピーエンドといった感じではなく、悲劇的に終わります。
 旧約のここの温度は、その後の“ゴジラ”を理解するにあたって非常に大切です。

・“主演”(実際は芹沢が主役)の宝田明さん。

 特撮班が籠ってやっていることは映画ができるまでは何もわからなかったと証言されていますが、完成した映画を

 初めて観たときも、ゴジラがあまりにも可哀想で泣いていました

 と言っています(ちなみに僕が最近とみにゴジヲタ化しているのは、身内が宝田さんと偶然ご一緒したきっかけから)。

・「ダダダン ダダダン」の作曲者、伊福部昭
 実は、「ダダダン ダダダン」は人間の側の進撃テーマ。怪獣ゴジラの本来のテーマはレクイエムの部分で、死んでいくゴジラには絶対にレクイエム(鎮魂歌)を作るとして、あの曲が出来たそうです。

・脚本の香山滋
 続編を打診されたとき、再びゴジラを殺すのが許せず、別の結末にした(シリーズ初期の某ゴジラ)。さらなる脚本依頼は、ゴジラを殺すのはいやだと、全部蹴ったそうです。

 察するに、当時の関係者の間では、ゴジラはフィクションというより何かの仮想現実であって、
「ゴジラを殺すな人類め!」が大勢だったようです。
 どうやら続編を知っている我々が、怪獣=悪者という感覚で当時に行ったら、カルトの狂人ということになりそうです。

 ドハティ監督はおそらく、「旧約ではゴジラと共存の道を歩むべきだった」と考えています。

 僕も子供の頃『よだかの星』が納得できずに泣いて暴れ、美しいよだかの絵を描こうとした(出来上がった絵を見て冷めた)ことがあるので、少し理解できていると思います。

 KOMでは、政府(つまり人類派)によって唐突に“オキシジェン・デストロイヤー”が放たれます。

 この名称は実は、オマージュの皮をかぶった狼です。

 インタビューによると、こういうことです。

 本作の、新たな芹沢博士は、かつての芹沢の失敗を正すために行動しているのだと考えたかった。

 今回の芹沢博士も、オリジナルの芹沢博士と同じような道のりを歩んでいます。

 しかし1954年版の芹沢はゴジラを殺した。我々自身の神を殺したわけです

 本作の芹沢は前回とは違って、自分の神を救おうとしています。
 (中略)

 ゴジラにほとんど謝罪をするような行為でもあるわけです。
 

 狂ってます。

 

 新約を作れたからか、言い方はおとなしいですが、「神ゴジラを殺した過ちを正せ!ゴジラに謝まれ!」と、幼児の頃から溜めていたいうことです。

 狂人認定です。

 
 社会性に直せば、旧約で1の考え方に乗った芹沢(初代)の人間主義的対処は人類の過ちです。

 尾形や芹沢=人類のストッパーかつガイア(地球生命)の救世主たるゴジラ・キリストを殺したイスラエルびとというわけです。
 新約KOMでは、芹沢は兵器の開発などに力を注がず、山根博士の後を継いで、イエスとなって人類のためにゴジラ(神)を生かすのです。

 これがエンディングに直結します。
 この辺は、父なる神、イエス、人びとの役割を、ゴジラと新旧の芹沢が分割しながら負っている構図です。



11.核OKのゴジラ

 個人ブログですから、メディアが書けないようなことも。

 ゴジラの一大テーマは
反核です。

 『ゴジラ対ヘドラ』などの環境モノも、アンチ核をアンチ人間暴走と拡大したもの。ゴジラのプロットは『バベルの塔』や『ソドムとゴモラ』であり、これがゴジラシリーズの堂々たる市民権を支えてきました。

 それが、KOMは反核を完全に捨てています。
 核の扱いについては2014年版のときにも言われていたようですが、核保有国の核容認主義者の購買層を期待したスポンサー的妥協という噂と通りかもしれません。それでも2014版では、東北の地震+フクシマがモチーフで(舞台はサンフランシスコ)、核はムートーを誕生させた悪であり、役立たせようとした核もゴジラの引き立たせ役程度の扱いでした。

 今回は、核爆弾と放射線がゴジラを助け、結果的に、地球と人類を救うために核が役立ったのです。

 核のおかげで・・・と見えなくもありません。

 僕は映画館を出たあと、ここが消化不良の感じがしました。

 KOMの芹沢博士は、広島の原爆で父を亡くしており、その形見の時計(8:15で止まっているまま)を持っています。

 そのシーンからアメリカ人である“パパ”に、仇敵との和解を説くのです。芹沢自身がそれをやっているというわけです。
 パパは、善良なアメリカ人を想定して描かれたキャラクターらしく、特別な思想は持っていません。2014年のゴジラvsムートーの戦いで息子をなくしており、ゴジラを殺そうとしていました(前述の1、アメリカ政府などの人類派)が、考えを改めて共存派となります。KOMはとくに中国観衆を意識した作品で、大戦中のことには色々ありますから、多少政治的とはいえ、「広島も南京も克服して仲良くしろ」ということはファミリー映画の常識の範囲内。ここまでは理解しやすい話です。

 その後、芹沢が、みずから志願して核を持って、核エネルギーを吸収するゴジラを救いに、我が身を捨てます。
 僕にとってはゴジラ=反核は鉄板でしたから、映画館で、サザエさんを観ていたら磯野家に死者が出たような状態になり、

 「なんや??ほんとに?何か見間違えたかな??」

 という感じでした。

 監督の発言はこうです。

 僕は、時計という存在は人類の傲慢さを象徴しているものだと考えています。

 母なる自然の法則を人類の尺度で計る。8時15分は広島に原爆が落ちた時刻。

 つまり、人類が自然を壊した時です。

 広島で父を亡くした彼が、原水爆から生まれた
神とひとつになって世界を救うようにしたかったんです。


 僕には、KOMがどうやら“新約”であるということがわかってから、ようやく理解できました。

 怪獣教の原理主義者として“創世記”に忠実に従えば、ゴジラが核で生まれたという設定は絶対です。

 そして地球を痛めつける人類を押さえるためにゴジラが出てきたのです。

 旧約では、人類は人類のためにゴジラを倒し、人類は地球を痛め続ける終幕です。

 無論、旧約のいいたいことは「人類滅べ」ではなく、「人類のために核捨てろ」、「自然のために核捨てろ」です。自然≠核、人類≠核であり、自然=人類(の大半)であり、サタンは核なのです。

 新約(KOM)では、神(怪獣)の救いの対象になれるのは、人類ではなく地球的自然です。

 自然≠人類(の大半の悔い改めぬ者達)となっており、インタビューから、監督は、核=殺人兵器というより核=自然破壊兵器として認識しています。
 ですから核=人類 ≠ 自然=怪獣となっています。
 ですが、これは怪獣=核という聖典に矛盾します。

 おそらくですが、監督はそこで新約を書きました。

 そこでは

 ゴジラ=核=自然
 となり、

 自然≠核

 や

 核=人類

 と同時に成立せず、矛盾が生じています。

 それを解消するのがKOMのストーリーと社会性。
 イエス(芹沢)が神(ゴジラ)と新しい契約をすると(もといイスラエルびとがゴジラ・キリストを十字架にかけるのをやめると)、こうなります。


 KOM「人類の暴走を止めろ」
 KOM「ゴジラを生かして自然を守れ」
 KOM「核やめろ」
 は同時に成り立たず、核をやめたらゴジラは出てきません。
 そこでいずれかの項を捨てることを迫られます。

 おわかりですね?


 怪獣教が怪獣教たるゆえんは、ここで最初の原理かつ最終の目的として怪獣を選ぶところです。
 普通の宗教ならば最終目的は人類ですので、
 教祖「核やめろ」
 教祖「ゴジラを倒せ」
 教祖「人類の暴走を止めろ」

 

 となるところ、怪獣教は
 教祖「ゴジラを生かして自然を守れ」
 が最初かつ最後のドグマですから、そのために他が変えられて
 教祖「人類の暴走を…・・・止めろ(OKやな?)」
 教祖「核を……(あ-あかん)、使え」

 が
神学として成立するのです。

 世界構成要素の構造式に、自由意志で移動可能な要素“人類”をいれると

 オキシジェン・デストロイヤーのところは
 

 ゴジラ=核=自然≠人類

 の構図で核が使われます。
 ところが、この時点では、核=人類でもあるので矛盾します。

 それに人類の敗北は必至です。
 そこでメシア芹沢聖人は、核を使うことで(怪獣教の世界観では)自然保護と一体化し

 ゴジラ=核=自然=人類

 となり、矛盾が解消されます。

 

 いや、これこそがKOMの理想世界なのです。

 言うならば、自然保護のために人類活動を減らそう!というアイデアです。

 ゴジラに管理される世界、すなわち人類を適度に自滅させる自己制御装置が核という“福音が成立するのです。

 この福音は人類にとっての福音ではなく、人類を含んだ地球自然にとっての福音です。

 核を生んだ人類は、ゴジラを産んだということで主体的に参加できます


 僕はカルトながら本気の教団だと思います。理に適っているので。

 


 怪獣教では、怪獣を救うためなら核をも辞さないのは当然のこと、「核のせいで人類が滅んだらどうしよう」という考えはなく、また、人命保護のヒューマニズムに基づく反核思想や、“神の火を起こすのは神の仕業”などに基づく宗教的な反核思想は存在しません。

 “ママ”やラドンの空戦シーン(ラドンが美しくかっこいい)で象徴されるように、「積極的に人類を殺すのはダメだけど、自然保護のためなら、人類の多少の犠牲は仕方ないよね」という立場でしょう。なんせ核がないと、世界の第一主体であるゴジラが生まれません。
 

 核や放射線物質で人類の自然破壊が止まって、動植物の楽園ができるならいいでしょ、という思想は、ときどき見かけます。とはいえファミリー映画を使って世界中に布教しようというのはレア(と思います)、サブカルの世界の思想です。おまけにフルスペックで完成度が高いのは珍しいこと。おそらく怪獣教は、怪獣の信仰が第一にあり、そこから怪獣を神とした世界を構築した、意図せぬ結果的世界設計として、ゴジラ=核=自然=人類という共存理想社会ができたのではないかと思います。ですから、核は副次的な要素で、核=ゴジラへの供物であるなら肯定、核=その他であるならば、ゴジラに従えという立場ということになるでしょう。そこでは、人命と核という(異教の)常識的な基準が欠落しているか、または希薄なのです。そしてそれは、一面の現実ではないでしょうか。

 

 

12.怪獣教の天国


 人間が従属する、怪獣との共生。

 ドハティ監督のインタビューです。

 (『ゴジラ』シリーズの“共生”は)人類と怪獣の共生だけでなく、

 人類と母なる自然との共生の比喩になっています。

 ゴジラや怪獣たちと人類がふたたび関係を築くということは、

 かつて母なる自然との間に存在した絆を結び直すことなんです。

 それは、ある種族がこの世界で生き延びるための唯一の方法ですよね。

 穏やかに聞こえますが、怪獣王ゴジラの下の王制です。
 武力による秩序で、王座のゴジラに、ラドンやマンモスやクモンガ(?)が平伏。
 そこに人類など、その他生物の順です。

 監督は、視聴者や登場人物たちには、ハッピーエンドか悲劇かわからないといいながら(なおBGMは明るめです)、このように断言します。

 僕にとっては、
これこそが“世界はこうあるべき”と思える姿

 つまりゴジラを通してですが、自然というものが再び王冠をかぶっている世界です。

 僕は、人類はふたたび自然に従属する存在にならねばならないと思っていますから。

 怪獣教のウンマ、天平荘厳というところでしょうか。

 数ある宗教ネタだけでなく、時計のくだりからも、監督は思想の造詣が深いと察せられます。僕も、たとえば競技の勝敗という区切りは時間を勝手に分別した人間的な傲慢なもので、あらゆる一喜一憂は遊びだと思います。こういう非常識なレベルに思考をする変人は、あまり居ません。結末はかなり考えた結果の理想郷でしょう。
 続けて、けっこう過激なことを言っています。

 それに、破壊と創造はコインの表裏。

 人類が“破壊”だと思っているものは、ゴジラにとっては“創造”なのかもしれませんよね

 シモーヌ・ヴェイユという人は、第二次世界大戦の前夜に
 「人間は自然の支配から自由になるために社会をつくったが、今度は社会に支配されて自由になれない
 と近代を喝破していますが、上の監督の話と、KOMの環境テロと怪獣との一体化・正当性の主張も見逃せないところです。

 とにかく、KOMが「人間が自然をコントロールする」という考えを全否定しているのは確実です。

 キーアイテムの“オルカ”にしても、人間の言語と怪獣の言語を一体化して対話することが肝になっています。

 人間が神(ゴジラ)に救われるのは、人間が自然と一体化した場合のみ、という、非常にシビアな話です。
 怪獣が神であるとどこまで本気で主張しているかはともかく、怪獣映画を使って新しい聖書を書きたかった、というところには届いていそうです。

 自然と関係を結び直すということは、お互いに共生することを学ぶことにも通じています。

 何よりも大切なのは、他者を受け入れ、共生することを学ぶこと。

 その中には自分とは異なるものや、恐ろしいと感じるものも含まれているでしょう。

 たとえばそれが怪獣だったり、自然だったり、自分とは違う人間だったりするわけです。

 というわけで、“モンスター”のママをご覧になって、どう感じられたでしょうか。

 

 僕は異教徒ですが、怪獣教の理解には努めましたし、この狂ったカルトを歓迎します。もっとやれ。
 


13.その他、映画について

 以下は主観のみで。

 評判のいい怪獣シーン。
 バトルは肉弾戦が多く、そこは満点。僕は「ビームなんかアニメとかロボットにやらせてりゃいいんだよ。こんなんビグザムのが余裕で絶望だわ」とか思ってシンゴジを観ていました。巨体で潰してこそ怪獣です。
逆に、CGの動きがプレステのところが。
 出現シーンは、満点。
 襲撃シーンは、カット割りやスピード感が絶妙でしたが、重力でビルを潰す絶望感が欲しかったです。それと、一生懸命つくったセットを本当に破壊している、というメタな視点からの無常観やカタルシスや貴重なモノを見ている感が、CGでは得られず残念。

 

 舞台。ワシントン(国会議事堂が映る)とボストンで、ニューヨークやフィラデルフィア(ゴジラは商業地や工業地を襲うことが多い)ではない意味は今のところ発見できず。政府の象徴とか、アメリカ建国の地ですが、そういう意図の映画とも思えません。謎です。メキシコは鳥神ケツァル・コアトルから?

 脇役。
・ラドン
 早くもネットで「
ごますりクソバード」と名づけられ、一週周って愛されているキャラクター。

 今回最高のヒットキャラで、怪獣史の殿堂入りでしょう。
 まんまスネ夫ですが、監督は最も好みの怪獣とし、生き残るための知恵があるといっています。

 みごとな手のひら返しと美学すら感じる土下座で続編へと生き延びたため、いつか本当の活躍をしてほしいです。おもむろにゴジラの肩を揉むとか。

 いや正当に活躍してほしいですね。

 教団としても阿弥陀如来とか洗礼者ヨハネなみの、経や賛美歌の3つや4つはあるクラスの聖者のはずです。



・モスラ
 成虫は意外といいけどぬいぐるみ感が不足。幼虫は後の王蟲にされた存在感がほしい。都市に出て欲しかったし、繭を作る場所は、九寨溝の滝なのかな?もっとヤバい場所に。
 登場時だけ映えたものの、バトルはゴジモスやGMKの焼き直し。一応人類に共生の見本を示す役ですが、引き立たせ役。クソバよりは強い。
 エンディングにタマゴ発見とあり、監督も「モスラは生まれ変わる存在」と言っているので次回も出るでしょう。でもモスラは脇役よりも、ネヴァーエンディング・ストーリーみたいなファンタジーの主役が合ってると思う。名作と言われるモスゴジも、モスラが前。

 

 

 観るなら、字幕版がいいと思います。

 4D・3Dなどの字幕版を探したんですが、なくて残念。取捨選択を迫られましたが、迷わず字幕を。

 低音が多く、足音で椅子が震えましたよ。 
 

 第一に音楽。

 吹替え版は、どこかの音楽が差し替えられています。ですが原版は名曲にオマージュに、変更する隙はないはずです。前述の主題歌も絶対に変えてはいけません。万が一、これは絶対にないけど、伊福部ゴジラの所だったら、マジで神に電話して映画館ごと踏み潰してもらうレベル。


 第二にストーリー。 ゴジラの故郷としての被爆国日本が関係し、日本人俳優の渡辺謙さんが、言語の違いを生かした表現をしています。
 せっかく日本語がわかって、ゴジラに親しみやすい環境に居たなら、これは摂取しておくべし。これを字幕で観ないで、何を字幕で観るのかと。

 それと次回は、大ダコがたぶん出てきます。

 『キングコング対ゴジラ』(1962)のタコ特撮シーンは有名。コレの企画者は、上映会でエンディングを知っていたのでしょうか。

 以下は聖地、西明石駅構内の弁当屋で3連敗し、神戸駅でゲットしたもの。

 

 


 次作の『ゴジラVSコング』には、小栗旬さんという俳優が出られるそうなので、ゴジラをボコってきて欲しいです。

 対戦予定の2017コングと比べて、どう見てもゴジラのほうが10兆倍くらい強そう(核と肉体の差)ですし、コングはいいヤツで、動物臭いのです。
 どうも抽象的、映画的なゴジラより、コングのほうが舞台的で、臨場感・現実感が……。おまけに負けても可愛げの残る(つまりデザインで勝り、歩いているだけで絵になる)ゴジラより、ただのゴリラを応援してしまいますね。