初回 シルクロード1 東京~北京
前回 シルクロード21 ホータン(和田)~ニヤ(尼雅・民豊)~チャルチャン(且末)

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2011年5月11日。

チャルチャンに到着。

バス停となりの交通賓館にチェックイン。

外国人がとまれる中では一番安そうな宿。
人が来なくてだいぶ待たされる。




チャルチャンの街。


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農業銀行では普通、キャッシュカードでの両替はできません。

「ここもだめか・・・・・・」と
5台くらいあったATMを一応全台つかってみると
なんと、一番奥の台で金が出てきました。

ウイーン・・・ガチャガチャガチャ・・・・
と聞こえたときの驚きと感動を僕は忘れることはないでしょう。今週は。


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一安心して市場へ。

こっちに来る人は是非現金を用意してください。


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特産らしく、石の市場があります。

右手前の黒いやつとか、お一つどうですか?


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例によって玉(ぎょく)も売っています。




石売り場。


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拾ってきて運んで停車しただけ。




みんな暇そうでした。


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新しい歩行街ができています。

飲食店や服屋がありますが、昼間のためかあまり人はいません。


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街路樹。
ヨーロッパにも多いポプラです。
綿を飛ばすのもコレ。


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中華はないようですが、
回族(中国のイスラム教徒)の店がありました。

この写真メニュー表は、いろんな店で使われています。


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一品たのんでみます。
まあまあいける。


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ホテルの部屋。
水しか出ないシャワー・トイレは共用で、これで80元はとても割高。
ここも長居はできません。


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給湯器は壊れていて、熱湯を持ってきてもらいました。
スタッフの感じはよかったです。


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台上に帝国を築く途中。


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チベットに入れる場合、情報収集が必要です。

とりあえず、次の目的地、南疆最後の街チャルクリクから
チベット方面への道を見ると、まわりに何もありません。


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くびれの部分を拡大すると、
かなり高低差がありそう。

国道なので道は悪くなさそうですし、
バスくらいは通ってそうです。


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チベット側には
集落らしきものがたまにある程度。

これらの地名を拡大しても
道路以外に何も出てきません。


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こんな時間にこんなブログを読んでいる無職変質者の貴方が
女子高に侵入して更衣室を漁るときのように執念深いギラついた目で地図を探っていると、
花土溝というところは集落になっているようでした。

鉱山らしく、チベット人などはおらず、
第6回で紹介した柳園のようなところっぽいです。


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この街ではサクッとネカフェを使えました。

ビールを飲んで何か食ってシャワー浴びてシコってオナってセンズリこいて寝ます。


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また近くの回(ホイ)族レストランへ。


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しなびた食堂の許可証類はおなじみの風景。

僕の部屋にも自宅警備士I級などの証書が飾ってあります。


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ウリが乗っていて辛め。

この手の回民食堂は、みな味つけは似ていますが
具が全然違うので耐えられます。


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バス停前のホテルに戻るところは田舎町らしくなかなか。


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看板作る前に、水周りを何とかしてほしい。


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2011年5月12日。

中に
「チケットを持っていないやつは通さないぞ。」
という感じで係員がいます。

タクラマカン東南端の街、チャルクリクへ向かいます。




バスの様子。


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前の二人は女子とはいえ中国人。

前の席をとって荷物を置いて
パンを買いに走ったところ、
僕の荷物は後ろの席に放り出されており、
席は取られていました。

まあ眺め的、空気的にはこのほうがよいので素晴しいことですが。

ということで一番後ろに。


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ウイグルパン。

ナンもといピザ生地です。


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隣のウイグル人が落ち着きのないやつで、
カメラを貸してくれといって撮りはじめました。


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彼は前のおばちゃんにもがんがん話しかけ、
何か意気投合していました。


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前の女子にも
「おい、姑娘クーニャン、姑娘クーニャン」
といって、しきりに話しかけます。

僕のカメラをとられていましたが、
女子がそれで遊んでいる間、
彼は女子の胸を上から覗き込もうと必死になっていました。


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ウイグル人たち。

中国語は話せるけど読み書きはできない感じ。


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これがそのウイグル人(25)と女子。
しかし女子達は、
僕のカメラで写真とってどうするんだろう。

キモメソのカメラに画像を撮られると、
後で何に使われるかわかってるんですかね?




走り出して1時間。

だるい砂漠の道。


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こっちの人はこうやって突っ伏して寝ます。


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外はずっと砂漠。
もう見飽きているので退屈です。


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このでこぼこは


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この植物の根だとか。


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今回のチケット。


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砂漠が続き、退屈です。
みんな寝飽きています。


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今回のルートは250km、東京~新潟くらい。


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砂礫(されき)も多く、退屈です。


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ということでみんな仲良くなりました。


うらやましいですか?


うらやましいよねぇ~~~wwwww

何か可愛いモノが映っているもんねぇ?

貴方と僕と、同じキモニートでもこの格差だもんねwww


まああれだ、


ざまあw




何かあればいいってもんじゃありません。

落ち着きのない奴はかなり社交的で
色々と巻き込んでいました。

よろこんで写真を撮っているため、自分のは残らず。

女子の胸を盗撮して僕にくれようとしたので慌てて止めました。


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女子は後ろ向きどおしwww

姉妹だって。

20歳と18歳wwwww

妹のこと「メイメイ」っていうのwww
可愛いねぇ~~~wwwwww


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ウイグル人(27)と帽子を交換。
僕と女子は筆談、ウイグル人と女子は会話でコミュニケーション。
中国人はウイグル語ができなすぎ。
おかげさまだけどねwww

ウイグル人たちはネット環境を一切持っておらず、顔出し許可済。
意味通じてるか謎だけど。


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僕の帽子。

あー旅に出てよかったww

日本だったらありえません。

希少価値サイコーwww


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こんどは妹タソがかぶるんだってwwww

いやー生きててほんとうによかった。

連絡先もくれました。
言葉通じないけど、
写真を送る口実で後日アクセスしてみることは
言うまでもありません。


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あ、君もかぶるの?

奥のサングラスは女子のおばで、3人でトルファンから来たとか。


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珍しく時間どおりについてんじゃねーよ!

最後の2時間は2秒くらいに感じました。

宿は例によって
「外国人はダメ」
と断られまくって、バス停近くの高そうなところに。

女子のグループともう一つ漢人のグループがいて、
いずれも宿に誘ってくれましたが……。


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5倍くらいオーバースペック。
ここも長居できません。

ということで、いよいよチベット側へのバスを探りに行きます。


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トイレ・シャワーもついています。
ここは清潔でした。


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……。

これで抜けと?


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バス停に戻ると、多少の冒険が待っていました。


バスはアンオフィシャルでした。

地図を持っていき、客と雑談している窓口の係員に
「この辺に、この方角に行きたいんだ」
と説明すると、
「没有(メイヨー=ない)。」


チベット方面がどこ行きになっているのかわからないので
しばらく説明していると、
売店のおやじを指して、
「あの男に聞いてみろ」
とのこと。

売店のおやじのところに行くと、
「よし、説明してやる」
とはじまりました。


彼は粋(いき)な男で、地図を広げ、流暢に説明を始めました。
よく見ると小指がありませんでした。

「明日、朝8時にここに来い。
その裏に止まっているバスがいるから運転手に金を100元渡せ。
バスはこの道をこう通ってマンヤーに行く。」

マンヤーというのは、西域からチベットに峠を越えるとすぐにある集落の名前です。
地図で見ると何もないので、給水所のようなものかもしれません。

上の写真のバスを見ると、マンヤーとも青海省とも何もなく、
「チャルクリク-石綿鉱」とあります。

昔よくあった発がん性のある建材、アスベストではないと思われるので地名でしょう。
鉱山というので、柳園のようなところでしょうか。
ネカフェでもう少し時間が取れれば……。

しかし、とりあえずバスは出るようです。
新天地へ出る興奮は隠せません。


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チャルクリク銀座。
人はまばらです。


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飲食店が、両側に数件ずつ並んでいます。


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またラグメンか……。

ラグメンともこれでお別れ。
でも全然悲しくありません。
飽きてるし、何より肉が羊でないだけで、
ほぼそのまま自分で再現できるし……。


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今日のポット。


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たまにはアップで。

炒め物に酒を使っていないのも、飽きが早かった一因でしょう。

ここを出た直後、小さい街なので、
バスの女子2名とおばちゃんのグループに会い、
食事に誘ってもらいましたが残念……。


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小さな市場がありました。

ニヤよりは大きいですが、チャルチャンより小さな田舎町です。
それほど賑わってはいません。


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スーパーもありました(右側上の“旺客隆超市”)。


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白雪姫牛肉干。

牛肉干ですよ?
間違いなく勝手に使っているでしょう。


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こちらの方もご活躍中。


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このレベルは、パクリとかそういうのじゃなくて
「スポーツっぽいものにはこういう風なものを書くものなんだ」
という思い込みに近いものでしょう。


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あのお方がご活躍中。


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これは日本でも売れそう。


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ご活躍中。


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衣料品市場もありましたが、閑散としています。


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いったん宿に戻ると、恐ろしいものが。


どうみても

「マンヤー アスベスト」

と書いてあります。


ほんとうにありがとうございました。


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あまりいいのはなかったけれど、
サングラスを買い直し。

あとでレシートを見ると会計し忘れ。
ラッキーと思うことに。


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8%のワイン。

トルファンのプロダクトで、格安だが添加物なし。
味はほとんどジュースだがまあまあ。


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バスの中で、落ち着きのないウイグル人がくれようとしたもの。
ついほしくなって買ってみたが甘いものは……。


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遠く離れた広東のシャコを買ってみました。
甘辛が強すぎワインにはイマイチ。


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一杯やって気分がよくなったので外出すると




おそろしいたたかいが。


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こんなところでも中国将棋。


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立体駐車場でしょうか。

こんな田舎町では、女子が愚かにも
「あたし可愛くないんじゃないかな」
と心配するかのような要らぬナンセンス。

車の数が、男が愚かにも
「俺ってもしかして結構いけてるかも」
と思って本当にいけてるケースよりも少ないためです。


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楼蘭遺跡はわりと近く。
というかここは楼蘭国の領内でした。

それっぽくした小さな公園があります。




一応ちょっと紹介。


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政庁の前に中央公園があります。


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ここの毛沢東はだいぶ細いです。

よく見ると顔も違いますね。


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清代のものでしょうか、城壁があります。

向こうに旧市街があったかもしれませんが、
探索するには発見が遅すぎました。


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スーパー付近に戻ります。

明日、無事に謎のバスが拾えれば
長く続いた西域の旅も今日が最後。




活動開始。

楽しかったです。
チャルクリクのみなさんありがとー。


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今回までの移動分。
トルファンやクチャに近づくが記憶はもう遠く。
南側の大高地がチベット。

11日の支出 295.5元(3,500円)

 内訳
  荷物預け 2元 計
  肉まん 2元 4
  タクシー 120元 124
  宿 80元 204
  チャルクリク行きバス 57元 261
  めし 12元 273
  ビール 2.5元 275.5
  ネカフェ 13元 288.5
  めし 7元 295.5

総計 +4622 4917.5元(63,000円)

12日の支出 152元(1,900円)

 内訳
  パン 1元 計
  宿 120元 121
  めし 12元 133
  スーパー 19元 152
  めし 7元 295.5

総計 +4917.5 5069.5元(63,000円)

------- ココから特に中国に興味のある人だけ --------

以下はより理解を深めるためのオマケです。
点線より上の本編とはリンクしません。


第22回は、みんな大好き三国志・後編です。


前回の続きです。
英雄達を通して、三国時代に流れていた空気を探ってみましょう。

三国志の主役クラスは諸葛孔明、関羽、曹操、劉備の4人です。

史書的な意味での主人公である曹操は、
10人の命と1人の命を引き換えにせねばならない状況でサクッと1人を殺せるタイプで、
旧来の習慣などは古雑誌のようなもの。日本史でいうと織田信長に似ています。
色々と部下に任せることができるも自身が極めて有能。若い頃はワルです。
覇業半ばでたおれ、すぐに後継が家臣にのっとられているので次の政権に色々と書かれがちです。
こうした理由で、実際にはむしろ当時の権力者としては文化的な人物であったに関わらず、
多くの残虐行為が伝説化されました。
ただし煙の元の火はあります。曹操は後に反省したようですが、徐州で虐殺行為を行ったようです。


曹操は「墓に金ピカとかやめてwww」という合理主義者で、
同時に詩人でもあり多才な人物だった一方で、
カードゲームマニアが武将カードを集めるかの如くの人材マニアでした。

改革開放の現代中国も、大本は経済主義ではありません。
東からだと目に入りやすい広東や上海の拝金主義は一部に過ぎません。
三国時代も同様で、曹操の合理主義を経済主義の枠の中での合理主義だと思うと、
曹操は理解できないと思います。

曹操にとっての才能とは儒家的な人格的才能で、国家主義的です。
忠誠とは、自身に対する忠誠ではなく、対象問わずで、組織への忠誠心の量でした。
敵に忠誠を尽くしたゆえに自身の誹謗中傷を喧伝した者を後に喜んで登用したり、
優秀な官僚を、自分の後継者となる長男ではなくその弟と親しかったため殺害したり、
当代随一の才能で、孔子の直系でもあった辛口の孔融を危険視して殺したりと
その意味では一貫しています。
曹操は親族を重用しなかったため、彼の権力体は彼の死後、功臣によって滅びます。

曹操の中原統一の前、当時はそれほどの武勲もなかった関羽に入れ込んでいました。

関羽は武将達の代表といえます。
その生涯から、商業の神となりました。世界各地の中華街に、横浜や神戸にも関帝廟があります。
三国志演義では関雲長、関公などと字や敬称でよばれ、
長いひげ、赤い顔、赤い馬、青龍偃月刀と、彼を象徴する数々のフィーチャーがあります。
水滸伝にも子孫であるというそっくりな人物が登場します。

あまり知られていませんが、曹操と関羽は女の取り合いをしたことがあります。
曹操がかっさらってしまいましたが、これは失敗だったでしょう。

劉備が曹操に敗れて逃げ出したとき、留守を守っていた関羽は
守るべき主君がいなくなったので曹操に降伏しました。
このとき関羽は後漢の命令に従うという形で、
また劉備の所在がわかれば劉備の元へ帰るという条件をつけていたようです。

関羽は曹操に恩を返して劉備のところに帰ろうと、
曹操の準決勝のライバルだった袁紹軍のエース、顔良を一騎打ちで討ち取りました。
たっぷりと釣りを払わなければいけないほどの恩返しを食らった曹操は
関羽を引きとめようと色々と金品を贈るのですが、関羽は受け取らずに去ってしまいます。
かつて女を盗ったことが原因だったかもしれませんけどね。
ともあれコレが関羽伝説の始まり。

最期、関羽は才能で滅んだといえます。
当時、三国一の名将で、劉備の部下でありながら大国(戦国時代の楚の中枢部)を預かっていた関羽は、
呉の陸遜(りくそん)という無名だった人物にやられてしまいます。
これは実は呉で最も優れた将軍で、後に関羽のあだ討ち戦で劉備を破ります。
呉は陸遜が無名だからという理由で、対関羽の任にあてました。
有能な人しか残らない人材集団である劉備陣営と
土豪の集まりで爪を隠せた呉との性質の差を、呉がうまく使ったといえます。


三国志の後半の主役が諸葛孔明です。
小説では、オッサン達が血なまぐさい闘いを繰り広げる中で、
知的、文化的、神秘的な空気をまとった20代の青年が颯爽(さっそう)と登場します。

実際にもこの人物は突然登場しました。
なぜ引きこもっていたところを劉備陣営についたかははっきりしていません。
徐州の曹操の振る舞いが原因とも、兄が呉に使えていたことが原因ともいわれています。
しかし“水魚の交わり”、“三顧の礼”ということなどから、劉備が個人的に連れてきたというのが真相でしょう。
孔明の後の業績を見ると、士官先を消去法や計算で選んだとは思えません。
これは劉備集団のアイデンティティーでもあります。


劉備と孔明の関係は一風変わったものだったようで、
劉備は「子供がアフォだったら君が仕切っちゃってくれ」
と、禅譲を勧める遺言をしています。

孔明は外様の仕事人でした。
関羽や張飛が劉備と同じ魚なら、孔明は水です。世代も毛色も違います。
それが、劉備陣営に政治、戦略と外交的地位と勢力を与えたのです。
関羽の仇討ちは、合理的観点から止めました。
劉備はそれでも行くわけですけど。

劉備、曹操、関羽の世代は、同じ頃に亡くなります。
後世、諸葛孔明が三国志演義の主役になった理由の一つは、
人口7分の1の小さな蜀で魏と戦ったためでしょう。
放っておくと差がつくゆえに打って出るしかなかった弱小勢力の運命は、
組織の常であり、国家でいえば第二次大戦なんかにも共通するのです。

しかし、もっと大きな理由は、劉備陣営の理想主義や、
孔明の思想的なバランスの完成度にあります。

『出師の表』という名文で忠誠を誓い、家臣として魏と戦ったのは儒家的です。

私生活は道家的で、死後の資産は少なく、劉備と会うまでは隠遁していました。
三国志の時代は、かなり道家的な風潮が強かったようです。
竹林の七賢と呼ばれる人々が老荘的な哲学を語りました。
孔明が描かれるときは、道教の仙人的な羽扇を持っています。

そして、法家でもありました。
「泣いて馬謖を斬る」は、孔明が息子のように可愛がっていた愛弟子が軍規を犯したとき、
涙を流しながら処刑したという故事です。
やはり「泣いて」がポイントで、無表情で斬らないところが秦の法家と違って共感を呼ぶところです。

法家の秦や道家、儒家の前漢後漢を経た頃の中国における弱小国家で孔明が見せた思想の融合は、
運用レベルにおいて、諸子の様々な説を併用できる、分かり合えるという事実の体現でもありました。

孔明は中国史上のスターの一人で、諸葛うんぬんというモノが多々あるほか、
諸葛八卦村という、子孫の一族が暮らすという村まであります。
後に太平天国の乱やイスラム教徒の反乱を鎮圧し、新疆にも来る左宗棠も
自身を孔明になぞらえ、号を老亮といっていました。
日本では秀吉の知将、竹中半兵衛重治が今孔明と呼ばれていました。


孔明の死後、4~5年。
卑弥呼の使者が、曹操の孫のところに着きます。
呉・蜀がいるので背後の外国は優遇され、親魏倭王という名をもらいました。
でもめちゃめちゃ歓待した上で、すげーテキトーに付けたんだろうな。
そういう世界なんですよ、ここ。

その後、劉備や諸葛亮らの蜀は、曹操の子孫の魏に滅ぼされます。

続いて、魏が功臣にのっとられて滅亡。
間接的には蜀に滅ぼされたといえます。
蜀軍から魏を守り抜いた司馬仲達の功が大きすぎたのです。
要するに、お互いのために平和が一番だったというオチ。

魏の帝王は、司馬懿に「息子を頼む」と言ったのが劉備陣営と対称的です。
倭の使者は朝鮮経由で来たのですが、この朝鮮を討伐して勢力下に入れたのも司馬懿でした。
物語には出てこない、三国志と日本史との意外なつながりです。

この新国家、晋が呉を滅ぼします。

次回 シルクロード23 チャルクリク~茫崖(マンヤー・石綿鉱)~花土溝~徳令哈(デリンハ)