つづきです。
目次
1.ジャンク教養がなぜ教養とは言えないのか
2.イケてる有用人、陰キャの教養人
3.芭蕉と荘子――東洋の役立たず
4.役に立つのは機械や奴隷、暇こそ人間だ――アリストテレス
5.ルソー「いやまて。もっとシンプルで本能的なもんだろ」
6.情報不足の中世から情報過多の近代へ――ベーコンの危惧
7.分業と細分化、技術化と狭視野――シェリングの危惧
8.資本主義下こそ教養が大事――アダム・スミスの教育
9.過分業・過専門で人間が迷走を――ミルと大学の教養主義
10.無教養時代のヤバさ――アドルノたちの現代批判
11.情報の洪水――そしてインターネット
12.教養人は別に賢くない
前回分を3行で要約すると、こうです。
ネットに転がってる “教養” はインチキ臭すぎる。とくにイケメンだ。キモメンも使えねーけどな!
教養はズバっと結論が出るようなもんじゃねえ。それに役に立たねえ。もう「有用」は対立概念だ。
「役に立つってのは道具や動物で、役に立たないところこそ人間だ」ってアリストテレスさんが言ってた。
6.情報不足の中世から情報過多の近代へ――ベーコンの危惧
2.教養人は、速さを求めず、情報や知識の多さを恐れている。優柔不断で適当でいい加減。
この点は、俳句や、ルソーらの一連の教養に通じるものがあります。教養は文明への警戒心や疑問と切り離せません。
「進歩とか効率とか言うけどさ、分業やりすぎじゃね? 情報や学問の細分化が、世界や人間の本質を見失わせて、人間社会が管理不能になるんじゃね? もう誰も全体見えてないよね?」
こういう警告が、だんだんと出てくるようになったのです。
昔は分業不足、情報不足の時代でした。
古代ギリシャは無邪気な時代です。
プラトン『国家』(369Bあたり)では、分業バンザイ、効率化バンザイです。
プラトンは、国家が誕生したのは個人が一人で自給自足できないためだとしました。
そこでは人間は自然の適性に従い、分業して交換します。
しだいに道具製作にも分業・交換がはじまり、他国との輸送も必要となり、国家が大きくなると、市場や商人も生まれる。プラトンはこれを「健康な国家」としました。
いっぽう「熱でふくれあがった国家」は、奢侈に走った国家です。他人から物資を奪おうと戦争を起こすのです。これを「健全な国家」に戻す解決方法は、分業による職業軍人の配備です。
こうして分業が理想の状態とされます。
すなわち『自分のことだけをする』のが正義・倫理です(433)。
そして支配者と被支配者も、分業であるべきです。
そうしてプラトンは、哲人軍人が国家を支配する業につくべきだ、と論を展開します(441E)。性的分業も当然とし、そこから妻子共有論を語るのです。
現代ではヤバい論ですが、当時の事情で思う所があったのでしょう。
なお、東洋でも孟子がほとんど同じ結論に達しています。
許行という農本主義者がいたそうですが、その弟子の陳相という人の「君主も農業をしろ」という説を、孟子が分業は最高だと言って論破するシーンが伝わっています。
結局だれもが分業に頼っている。統治だって分業しないとできない。支配層と被支配層、頭を使う者には統治する仕事、身体を使う者には統治される仕事がある。統治される者は統治する者を食べさせなくてはならないし、統治する者は食べさせてもらえる……。という論です。
ミソは、孟子が論破したのは大先生の許行ではなく、その弟子にすぎません。許行の主張はエッセンシャルとブルシットみたいな話だったようですが、当時から分業への疑惑があったのです。許行ら(諸子百家のうちで農家といいます)は主流にはなれませんでしたが、古代中国は無反省に分業を邁進させたのではなかったのです。
日本には天皇が田植えをやってみる儀式があったり、ウィーンのハプスブルク家には皇帝が貧民の足を洗う慣習がありました。大義名分やプロパガンダにすぎないといえども、意義的には、支配者との接点をアピールしていたこれらの国では、支配者と被支配者の完全な分業は認められていなかったのです。
孟子には有用人寄りのところがありました。孟子の母は、孟子が勉強をさぼると「学問で名を立てることができる。勉強をしなければ人に使われて、苦しい人生を送りますよ」と説教したという逸話が残されています。
日本の受験慣習にもこの出世主義やソフィストの影響が残されています。孟母の話は後世の創作のようですが、孔子から比べると、教養性は明らかに衰退しています。前300年頃には、東も西も文明が有用性の時代にさしかかったのです。
ヨーロッパに戻りましょう。中世にも分業への危機感はなかったようです。
そこで人間は集団の中で生活することが必要になるのであって、そうしたなかで各人は互いに他の者の助けを受け合い、それぞれ理性を働かせてある人は医学を、他の人は何か別のものを、というふうに異なった仕事を見つけだして、それに従事するのである。
(トマス・アクィナス『君主の統治について』 岩波p6)
解説によればここはアヴィセンナという人の説の流用らしいですが、ここでは、我々は分業していくものだから集団が必要である。またその統治が必要である。そのためには共通善が必要である……。と論が展開されます。
神学者の論ですが、意外に唯物論的な歴史観で、マルクスと似ています。
近代になると、細分化への危機感が現われます。
ベーコンの論は、「学問をどうするか。実験と観察をしろやゴルァ!」というものでした。
『ノウム・オルガヌム』(1620年)に『洞窟のイドラ』という項があります。学域が漠然と広すぎたり、狭視野に陥って、つまらぬ争いになっているという話です。
ところで、このような人びとは、哲学と一般的な研究をやりはじめると、そのまえからいだいている空想によってそれらのものをゆがめていためてしまう。
(53―58)
ベーコンはアリストテレスを批判します。自然哲学を論理学に売り渡し、空論のぶつけあいにしたというのです。
それらのイドラは、主として、特定の学問に支配されることや、総合か分析かの一方にかたよって度を過ごすことや、ある時代を愛好することや、対照があまりにも広大か微細かであることからおこったものである。
7.分業と細分化、技術化と狭視野――シェリングの危惧
シェリング『学問論』(1802年)は、ベーコンを発展させたような論です。
学問や芸術においても、特殊なものは、普遍的なものや絶対的なものを、己のうちに宿す限りにおいてのみ価値をもつのである。
(岩波版p12~14あたり)
一定の仕事にばかり従事していて、一般的教養という普遍的な仕事を忘れ、立派な法律学者や医者になろうと努力していて、それより遥かに大切な学者一般の使命や、学問によって高められた精神の使命を忘れるということがあまりにもしばしば起こりがちなのである。
自分で学問の普遍的な理念をもたない人は、他人の心にそういう理念を目醒ましめる力に最も乏しいということは疑いない。下級の狭い学問に、ともかくも賞賛すべき勤勉を捧げている人も学問の有機的全体の直観に到達することはできぬ。
もはや分業や有用性は敵です。
この狭視野は自分自身が起こしており、世界の真の姿は無限であるといいます。
知識が有限であるとすれば、それは自分自身のうちにある限定によってそうなのであって、そう限定するものは外部にはないのである。
(p57)
本来、知識は広い教養です。
シェリングはあらゆる学科の実用性、効用を徹底的に下位だとします。
「○○学って何の役に立つの?」と子供が言うと、その質問自体をボコりにかかるわけです。
たとえば数学。
天文学や物理学一般において、一般的運動法則へその適用という点における数学の偉大な効果がどんなに認められるとしても、数学をこういう効果のゆえにのみ重視する人は、この学問の絶対性の認識に達したということはできぬ。
自然及びその対象の本質或は自体についての理解には少しも関わり得ぬ。
哲学も歴史も物理化学も芸術も、全て効用のためでなく、総合知と繋がることにより、それ自身に本質があるとします。
哲学の効用について語るのは哲学の品位に関わるとわたしは思う。一般に哲学の効用について敢えて質問を発するような人間は、哲学の理念をまだ一度だってもち得なかったのは確かである。哲学はそれ自身の存在によって効用関係から自由だと断定されている。
哲学はただそれ自身のために存する。
(p67)
これは難しくありません。「効用とは何か」と考えることも哲学だからです。
シェリングは、学問が有用性を追求すると国も亡びる。国家は有用性によってできていないためだ、と論じます。
通俗知が自分を絶対知と思い上ろうとしたり、或は思い上って絶対知や〔理念を〕とやかくいおうとする場合である。国家が、通俗悟性が理念に対する審判者となることを奨励するとする、そうすると通俗悟性は直ちに国家の上に立つようになる。ところが、通俗悟性は、理念や理念に基づいて設立された国家の制度をも、理性や理念をも理解しないと同様に、理解しない。通俗悟性は、哲学に対して戦いを挑むと同じ通俗的な根拠をもって、国家の根本形式をさらにいっそうはっきり攻撃することがある。
「今の憲法で、人の上に立てる資格を効率よく取れんの? 馬鹿だな。俺らが資格を取りやすいように改憲で」
「で、人権は俺にいくらくれるの? てか人権て見えないじゃん。はい実在しません」
もしも有権者がこうなると、法の管理はできません。
通俗悟性を理性のつかさどるべき事柄の審判者に祭り上げれば、学問の領域に賤民政治を招来し、それとともに早晩賤民の一般的な台頭を招来するのは全く必然のことである。
もう一つの方向は、そこへ第一の方向が迷い込むのであるが、また理念に基づく一切のものの解体を招来するのである。それは単に有効なものに向かう方向である。
(p70あたり)
有用性ばかりでは、小さな目先のコスパばかり考えるコスパ国家になってしまうといいます。
いわば大学に工学部、医学部、金融学部、宣伝学部しかない国です。
ここでは総合して、教養は広いところでは効用があり、社会的に必須でもあるとされています。
一見役に立たないが、実は役立っているとする論です。
シェリングにとって、分別を超越して統一していくことが学問や真理への道でした。たとえば心理学は心の因果関係だけでなく、肉体の様子も含まないと分裂した部品にすぎず、真理にはならないと考えるのです。
「必然」と「自由」との統一も「一なるもの」で、哲学、国家、芸術、自然学は、その完成品としました。そしてこれらの統一性も図っています。
歴史学は、事実を扱うことと高次の総合知の理念の統一をすべきで、それを媒介するのは芸術ということになります。歴史の完成された世界は、必然性と自由が調和した国家だとします。
自然学では理論と実験の統一を訴えました。ただ何かを試しただけの実験は、ただの観察にすぎず学問とは言えない。理論だけでも空虚で、ホメロスの詩を文字や印刷の技術で語るようなものだ。だから実験と理論の両方がいる、と主張しています。
芸術学は、先ず芸術の歴史的構成と解し得る。
とし、ただ美しい、刺激的、癒される、気晴らしになる、といった感性的な芸術は、芸術学に携わるべきでない。これらの効用の多寡だけではだめで、芸術も理性と統一せよ、というのです。
卑俗な心がよんで芸術となすものは、すべて哲学者のかかわるところではない。芸術は、彼にとっては絶対者から直かに流れ出る必然的な現象であり、芸術がこのようなものとして確証され証明されてのみ、それは哲学者にとって実在性をもつのである。
シェリングは、体感的な鑑賞と知性的な鑑賞とを切り離しています。
哲学の内面的本質を映し見る哲学者にとって、芸術哲学はその必然的な目標である。略 溌剌とした精神に富む自然研究者は、彼が自然においては混乱した姿で現われているのを見るのみである形相の真の原像を、芸術哲学を通して芸術作品のうちに認識し、また感性的な物がかの原像から生れ出る有様を、感性的な物そのものを通して象徴的に認識することを学ぶのである。
(p178~187あたり)
哲学と芸術の関係は、理論と実験の関係です。
観念と実在、無限と有限の関係がセットで統一されるというわけです。だから哲学でないと芸術のことはわからない、芸術でないと哲学のことはわからない、というのです。
このあたりに「教養」の秘密のひとつがありそうです。
シェリングが俗欲のための芸術を下位に置くところは、アリストテレスの音楽論に通じるものがあります。快楽を目的としない音楽を上位に置くというのは、孔子にも共通する考え(鄭声)です。彼らは優劣をつけて俗なものを叩いているのですが、肥大化した大衆社会がアンバランスで危ういと感じていたのでしょう。
逆に、頭でっかちになってしまうと人間本質が危ないという警鐘もありました。20世紀には『チャタレイ夫人』がこのテーマで下半身を賛美したのですが、出版当時は理解されず弾圧されました。この辺はフォービズム(野獣主義)や文化人類学、民俗学、レヴィ・ストロースなどを経た現代の教養主義とはちょっと違います。人間観が「理性を持つ者」から「理性と感情のせめぎ合う者」へと変わってきたのです。今日の教養人は後者の成分を濃厚に持つでしょう。
シェリング『学問論』は理論的構成がちょっと甘く、ツッコミどころも多い本ですが、教養の総合性はよく表しているように思います。
私見ですが、純理論的には、役に立たなくてもいいし役に立ってもいいのが学問や芸術や科学ではないか――人間は両方を併せ持つ者なのだから――という結論になるはずでは? と思います。それに、現実は奇であって、頭脳や、知識をもとにした考えでは想定できない事象を、“アホ” が無知ゆえに言いだす妄言や空想が想定させたりするものです。たとえば「本当は昨日、日本の飛行機がX国に撃墜されたが政府が隠蔽している!」に対して「あるわけない」と思いつつも、実際にそういうことが起こった場合の対処は想定させてもらっているわけです。そういう意味では ”アホ” もしっかり社会に参加しているわけです。この空想はファンタジーという知識に乗っかっているはずで、それは教養に含まれる可能性があります。そうした寛容性も、排他的である有用性に対する教養の一つの性質ではないでしょうか。人間を語りながら統一と言って、理性だけに留まる理由はありません。
今日に当てはめてみれば、ネット民は確かに ”アホ” で、安倍政権や安倍カルトのように嘘を事実とするといずれ最悪の事態になるので、取り扱いには注意が必要です。ですが、トンデモ論を吐くからといってアホが社会に不要だということにはなりません。この意味でも排他的なジャンク教養は非教養的な有用知識といえます。
シェリングの危機意識は世界の分解についてでした。
後世、実際の危機は、より身近かつ現実的に現われました。世界大戦の時代にです。
専門全振りで何を開発しているかを全く分かっていないマッド・サイエンティストが出てこないように、この時代から教養性を強めて学問の広い視野を持ってもらうことが必要だったのです。
そのためには教養を身につけさせるよりも、暇を与えることが正解だったと思います。
教養というものの本質からして。
8.資本主義下こそ教養が大事――アダム・スミスの教育
シェリング『学問論』は、分業的な専門知識だけでは学問のことはわからん、といいました。
が、過分業の世界がどうなるかは語っていません。
シェリングは観念的な理論派でしたが、こんどは実践的な社会現象の観察に目を向けてみましょう。
イギリスに飛びます。
ホッブズ『リヴァイアサン』(1651年)にも情報過多の概念が出てきます。
助言の能力は、経験と長年にわたる学習によって身につく。ところが、大規模な国家を経営するために心得ていなければならないあらゆる事がらについて網羅的に実体験を積んでいる者など、いるはずがない。したがって、何人も、単に詳しく知っているばかりか徹底的に考察、考究してきた事がらについてでなければ、優れた助言者であるはずがない。
(光文社版p164)
基本的には分業を認めていたアダム・スミス『国富論』(1776年)も警鐘を鳴らしています。
ひとつには分業のメリット「一つの仕事だけできればいい、という良コスパを実現する単純化」の副作用です。
分業が進むにつれて、労働によって生活する人びとの圧倒的部分すなわち国民の大部分の仕事が、少数の、しばしば一つか二つの、きわめて単純な作業に限定されるようになる。ところが大半の人びとの理解力は、必然的に、彼らのふつうの仕事によって形成される。
(アダム・スミス『国富論』岩波版p49あたり)
そこで単純な労働と、単純な思考を持つ人びとが発生します。
一般に、およそ人間としてなりうるかぎり愚かで無知になる。
かれらは私生活も公の利害についても判断できず、兵隊にすらならないといいます。
人間をこうした仕事につかせることを、マルクスは「疎外」といって批判しています。ですがマルクスは、「貧乏人が子だくさんで、金持ちが少子化するのは何故かって? エッセンシャルワーカーは必要なんだから増えて当然だ。ブルシットワーカーなんか要らないんだからいなくなるのが自然だよ」という論を『資本論』に引用しています。スミスも、分業を礼賛するようなことを言って、その効用に感謝したうえで、この警告を盛り込んでいるのです。
だがこれこそ、政府がそれを防止するためにいくらか骨を折らないかぎり、改良され文明化したすべての社会で、労働貧民すなわち国民の大部分が、必然的におちいるにちがいない状態なのである。
スミスはそこで教育が必要だといいます。
もちろん単純作業の効率を上げる勉強ではありません。
『国富論』は「見えざる手」で有名ですが、これは後世の御用学者や権力者のすり替えのようです。
本題は「国家が色々やりすぎると世の中はだめになる。だが、市場は万能ではなく色々とヤバいので、国家はかなりのことをやらないと経済も道徳も腐る」という論です。新自由主義に毒されがちなジャンク教養が騙る「資本主義=放置しろ」ではありません。資本主義こそ教養が大事なのです。
9.過分業・過専門で人間が迷走を――ミルと大学の教養主義
19世紀後半、日本の幕末・維新の頃。産業革命を邁進してきたヨーロッパの経済段階では、分業・細分化による知識の洪水と人間形成への危機感は具体的になってきます。この問題は、単純作業をやらされる労働者にだけではなく、知識階級にも迫ってきていました。
ミル『大学教育について』の骨子は、シェリングとだいたい同じような論です。シェリングは、いわゆる専門馬鹿が大勢できるぞとは言っていますが、それがどうヤバいのかは語っていません。ミルはそれを予言しました。
大学は職業教育の場ではありません。略 大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。
(J.S.ミル 『大学教育について』 岩波版p12~14あたり)
まず、大学教育(教養)と職能教育を完全に切り離します。
ミルにとっては大学でやること≒教養です。この考えは「大学と職業学校の違い」として今日の日本でもコンセンサスになっています。大卒人材が管理職に向くとされる論拠もおそらくこれです。超専門家を束ねる管理職は、ジェネラリストのほうが向いているのです。
さて、ミルにとっては「熟練した」各職業人と「教養ある人間」が基本的に対立していることが前提です。熟練のプロではなく有能な教養人を、という前提には何の説明もありません。
ミルにとって、「熟練のプロ=教養人」という昨今の大衆社会のプラトン主義的な常識は、すでに非常識となっていました。とはいえこの本の細部からは、周囲ではまだ教養不要論(古典不要論、数学不要論)が学界でも根強かった様子がうかがえます。
学習時間の配分を考えれば当然ですが、 “有能で教養ある人” がほんとうは無茶な存在であることに「教養」の秘密があります。
ミルは、大学はこの矛盾を解消して、有能な教養人を育てるべきだというのです。
それは「職能の時間を削って、教養に当てろ」という解決です。
これは人類普遍の真理として語られた論ではなく、たまたま当時、職能全振り勢ばかり増えすぎていたためです。彼の主張は功利主義者らしいハ長調みたいな明るい温度で語られていますが、もしも古典と数学ばかりの世相下であれば、「実学をやれ、インターンに出して工具に触らせろ」と言っていたでしょう。シェリングよりもずっと穏便です。
専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当て正しい方向に導く一般教養(general culture)の光明をもたらす類のものです。確かに、人間は一般教養教育を受けなくても有能な弁護士となることはできますが、しかし、哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります。
これは形式的な理論ですから万人に当たります。ミルは孟子やアリストテレスのような差別主義者ではありません。
靴づくりを職業としている人について言えば、その人を知性溢れた靴職人にするのは教育であって、靴の製造法の伝達ではないのです。
序論では、一般教養は仕事の役に立たないが、人格形成に必要だといいます。マッド・サイエンティスト、つまりハマると毎日徹夜で特訓しまくるIQ140が発明のプロとなり、細菌兵器、金融詐欺、プロパガンダの手口や煽動方法を発明したらヤバいという話を、我々は歴史やナチ高官の検査結果などから知っています。
狭専性により、当人が被害を受ける場合もあります。現在ならば、ジャンク教養の問題の一つは、「間違っている」のではなく、「それ自体は合ってるが、ベースとなる教養がないなら知らねえ方がまし」といった知識です。
たとえば、世間を知らずに英語を学ぶと、日本語詐欺よりも手口のハイレベルな英語詐欺に騙されやすくなるわけです。今ならさしづめ「みんなでお金を集めてAIを作って、必ず儲かるところに投資させるから失敗しません。一口どうですか」とカネを集めてトンズラとかでしょう。人工知能や金融の知識が少しでもあれば、引っかかる確率は大幅に下がります。職業選択、商品購入、投票行動、視聴選択、恋愛結婚選択、転居選択などの誘導は多いです。優れた専門的能力によってお金を持っていて、それだけ教養の狭い人は狙われやすいのです。
人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかもいまだかつてなかった速さで現在増加しています。知識の各分野は今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなるでしょう。略 さて、もしそのような些細な部分を完全に知るために、人はそれ以外のすべてのことについてまったく無知でなければならないとするならば、間もなく人はごく些細な人間的欲望や欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとってはまったく無意味にな存在になってしまわないでしょうか。
これはよくまとまった警句です。
ミル以前の類似の論を何度か見かけたはずですが、すいません忘れました。
近い記述ではニュートン『プリンキピア』に、「この本は専門書ではなく、パンピーは1巻や前書きや公理を読めばいい。他は難しすぎる、まあプロの補足用だな」とあります(1巻冒頭の註3要約)。これはミルと同じ問題意識を持っていた証拠でしょう。知識を開放し、教養部と専門部を分けたのです。パンピーには、各自の専門など他の知識のための時間を開放したことにほかなりません。
僕はパンピーコースでしたが、岩波の訳本などには同じ形式の本があり、註や研究論文を使いながらヲタ読みをすることもあります。また『リヴァイアサン』は岩波はフル、光文社は宗教研究は割愛しています。法律や社会科学の概論的な研究ならば後者で充分という判断でしょう。情報量と教養との闘いは、今日も続いているのです。
ともあれ学問や仕事の難化と狭専・過専への危惧は以前からありましたが、ガチで主題として悩んだのはこの19世紀。ロンドンで空を見上げれば機関車の煙と電信線が飛び交う時代です。
ミルは、情報過多を悪徳の結果とはしません。文明発展が原因を内包する宿命であると見ています。悪者を作らない視点は、ミルの教養を彷彿とさせます。
この本の要旨は「パンキョーなくして大学無し」です。
核心は以下の数文にあって、ほかの記述はすべてこの論証や各論、傍論です。
人間のこのような状態は、単なる無知以上に悪い結果を生み出すことになるでしょう。他の学問あるいは研究全てを排除して、一つの学問あるいは研究のみに没頭するならば、必ずや人間の精神を偏狭にし、誤らせることは、すでに経験によって知るところです。このような場合、精神の内部に育つものは特殊な研究に付きまとう偏見であり、またそれとともに、幅広いものの見方に対してその根拠を理解、評価できない無能力さゆえに視野の狭い専門家が共通して抱く偏見です。人間性というものは、小さなことに熟達すればするほどますます矮小化し、重要なことに対して不適格になっていくであろうと予測せざるをえません。
(p26~28あたり)
といいながらも1867年のミルは、この危機感は自分の思い過ごしだとして楽観視しています。
しかしながら、今日、事態はそれほど悪化しておらず、そのような暗い未来を創造させる根拠はまったくありません。人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させるところまで至ります。
なお、シェリングもミルも、子どものときの古典やラテン語(日本でいう古文や漢文)が何より必要だとしています。
ミルは「科学」(工学や物理)を古典と並立させて、こちらも絶対に必要だとしています。自然科学に触れない者でも自然科学によって論理性が育てられないと、宗教を容認できるかの判断や、有権者としての判断もできないというのです。ニュートンを受けて書かれたヴォルテール『哲学書簡』や、有権者教育論をもつルソー『エミール』の影響でしょうか。
ミルの大学論は安いし、すごく読みやすく、お勧めできます。
10.無教養時代のヤバさ――アドルノたちの現代批判
ミルの論の欠陥は、その楽観でした。難癖をつければ、どのくらいの分業と情報増加がこの先に起こるか、検証させればわかったかもしれないのに、華麗にスルーしてしまったのです。
細分化と情報量は、20世紀には人類の管理キャパを超えてしまったと目されるのです。
アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』は悲観論です。
1940年代のアメリカは、電気製品、ラジオやクルマが普及して旅客機が飛ぶ現代社会です。
精細な情報とどぎつい娯楽の氾濫は、人間を利口にすると同時に白痴化する。
(ちくま版p13~14)
ここは「精細な」が肝です。
アドルノらは、教養の担い手だった特権階級が消滅したとき、その役目を大衆に移行するのに失敗したことで、教養の崩壊を招いたと指摘します。
一九世紀に至るまでは、りっぱな教養というものは、教養なき人々の増大する苦しみを代価として購われた特権であったとすれば、二〇世紀では、衛生的な工場地帯は、あらゆる文化的なものを巨大な坩堝の中で融解することによって買いとられる。
ディストピア観です。知識は金儲けの技術になって、学問は利益追求的な実学が真の目的と思われるようになったといいます。シェリングやミルの言ったようになったわけです。
近代科学への途上で、人間は意味というものを断念した。人間は概念を公式に、原因を法則と確率にとりかえる。
(p26)
先に、サンデルが共同体の解体に危機を感じている話をご紹介しましたが、この現象はデュルケムに説明されています。
『社会分業論』では、分業は効果は経済だけではなく、社会的紐帯も生むとします。
分業では経済学者が言うような幸福は無かった、現実には文明発展とともに不満や心の病が増えた。分業によって地縁・血縁の共同意識が退行して個性が浮かびあがる。これは宗教や道徳や科学の総合性、抽象的な集合意識とのトレードオフだった。こうして分業により、地血縁は職縁に代わる……。と論ぜられています。
しかし条件があります。
分業は正常ならば、一つの仕事に人間を閉じ込めて、視界を塞がない。「正しい分業」には、本当に等価な交換が必要。真の個人の自由は規制の産物で、平等性は自然のうちにはない。自由と平等は、人間が作らないとだめだ、というのです。
サンデルの論は、20世紀のアメリカ人はアドルノらが言うように「意味というものを断念し」、「概念を公式に、原因を法則と確率にとりかえ」てしまい、自由と平等を人間が作らず放置した結果、地血縁は職縁に変わらずにバラバラになった、というアメリカ認識から来ていると思われます。
社会改革者のジェーン・アダムズはこう述べている。「理屈のうえでは、『分業』によって人びとは相互依存をいっそう深め、いっそう人間らしくなる。一貫した目的の達成へ向けて結束するからだ」。だが、この一貫した目的が達成されるかどうかは、当事者がみずからの共同プロジェクトに誇りを持ち、それを自分自身の問題と考えるかどうかにかかっている。「相互依存という機械的事実があるだけでは、結局は何も生まれない」のである。
(『公共哲学』ちくまp27)
引用をしてこのように言っています。
私見ですが、市場主義では「一貫した目的」は他者への勝利(そしてそれは大抵かなり身近な者への勝利)なのだから、結束はありえないことになり、経済思想の文脈と突き合わせることが必要だと思います。ではありますが、アドルノらはこれを教養の死によるとし、サンデルはこれを公共哲学の転換によるとしました。公共哲学の転換を考えさせるアイデアどもが教養なのですから、これは根は同じだと言えるでしょう。
今回は教養の話ですから、アドルノ、ホルクハイマーの論を続けます。
彼らはベーコンやシェリングの抱える欠陥を指摘します。
近代の「一つの普遍的科学」の思想は、反対者を排除するイデオロギーに繋がるというのです。
一つの理想というのは「これが唯一の理想だ」と定められがちで、となれば全体主義に転びかねません。フッサールなどは統一を主張しながらも、ナチから逃げながら書いた『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で、謙虚に一旦クッションを置くことを主張しています(「判断中止」)。
ヘーゲル『精神現象学』は、近代の啓蒙思想が信仰にかわって広めたものが「有用性」であるものの、それには重大な欠陥があり、万物が人間にとって有用であるように人間も有用となってしまい、その使命は全体に奉仕することになってしまったと指摘した、とあります。
まさにアリストテレスのいう道具や動物や奴隷としての人間ですが、すみませんこれは読んでいません。
カントの「人間は目的でなければあかんと」という格率がやぶられ、人間が手段になってしまったということでしょう。
しかし哲学は、これらの修正ができませんでした。
教養は死にかけです。
近代は、有用性に逆らうものを弾圧し始めたのです。
過ぎ去ったものを、進歩の材料として役立てる代りに、むしろまだ生きているものとして救出しようとする熱望は、ただ芸術のうちでのみ充たされてきた。過去の生活の叙述としては、歴史もこの芸術の中に含まれる。芸術が認識と見なされることを諦め、かつそうすることで実践と手を切るかぎり、芸術は快楽と同様、社会の実生活から寛容にあつかわれる。
。
アドルノらは、文明には初期から同じ問題があったと言います。
いわば、ピラミッドのできた5,000年前には、もう時限爆弾が作動していたというのです。なぜなら文明が構造的に自壊を内包してきたからで、原始から古代文明に入ったときにスイッチが入ったからです。そこでオデュッセウスの伝説を論じて、彼も、彼の漕ぎ手も、どちらも抑圧しあう分業の奴隷であるといいます。
人類の熟練と知識とは分業によって分化してきたが、その人類は同時に、人間学的には、より原始的な段階へ押し戻される。なぜなら支配の持続は、生活が技術によって楽になってくる一方、より強い抑圧によって本能の硬直を惹き起すからである。想像力は委縮する。
分業、支配、思考停止がおこると、
進歩の力への適応の中には、権力の進歩が含まれており、その都度ふたたび退化への営みが含まれている。つまりその退化は、不成功に終った進歩なのではなく、まさしく成功した進歩こそが、じつは進歩の反対であることの証拠になる。
(ちくま版p72~78あたり)
このように、頭でっかちな文明が、崩壊の原理を自身に内包してきたというのです。
中国では春秋時代は教養主義でした。孔子は「忠」や「恕」(正直さや思いやり)が必要とし、その原理を持っているかどうかが人の価値であるとし、身分や生まれは関係がなく、教育と修養で身につくとしました。この時代には、高官たちは外交をしながら政治や思想や詩を語り合っていました。孔子の門下は学問を始め、学問が解放されて諸子百家が誕生。学問の全盛期になります。
しかし、つづく戦国時代は実力主義の乱世となりました。有用な諸子が才を競いました。教養は崩壊し、法家の秦が中華を征服して地獄を見たのです。以来思想や哲学が復活することはありませんでした。
全盛期にはあれほど哲学や思想が栄えたのに、イギリスはアヘン戦争と帝国主義に陥り、ドイツはナチスに至りました。英独はベーコンやカントを産むことができなくなりました。歴史は繰り返す、というやつでしょう。
『啓蒙の弁証法』には、ベーコンの同じ個所の引用が2度あります。
知識のうちには、王侯たちが全財産を投じても手にすることができず、命令しても意のままにならず、お抱えのスパイや密偵たちも何の情報さえもたらさず、航海者や発見者たちの船もその原産地には辿りつけないような、数多くのものが隠されている。
(p24、88)
これは理想ですが、ベーコンくらい強靭な精神がないと無理だとあります。
アドルノ、ホルクハイマーはしかし、悲観的すぎたかもしれません。
アドルノのジャズ評論は極めてネガティブなもので、“ジャズ”は俗悪として批判されています。ですが彼が批判した当時の歌謡曲的、感情的、ソウル的だったジャズは、60年代までには知性的なものも高尚な要素も肉体的なダンスもすっかり呑みこんで、美術や映像やコンピューターとも繋がる包括的なアートとして進化を遂げました。
今やジャズは音楽的にはポップとは言いがたく、ジャズから派生したロックやR&Bやラテン音楽やダンス音楽がポップとなり、ジャズ自身は大衆の参入を阻む商業性の低い文化的・芸術的ジャンルとなっています。
映画も同じように展開し、芸術の地位に片足を突っ込み、映画から派生したテレビが大衆的・商業的コンテンツとなりました。教養が絶滅したわけではありません。
とはいえネットが出てきてからは、また別のフェーズに入りました。大衆が発言・主張をするようになったのです。
なお『啓蒙の弁証法』はそれほど知られた本ではなく、あまりまとまったものでもなく、いくらか専門的です。そのうちの一章である『文化産業』はわりと知られています。
11.情報の洪水――そしてインターネット
1970年前後に『情報の洪水』(オーバーロード)が提唱されるようになりました。
ミルの指摘通り、文明が進むにしたがって、不要な情報のために、必要な情報が見えにくくなったのです。この頃は日本ももう現代ですから、スマホとパソコンを捨てたら当時の状況をだいたい再現できます。
90年代、僕が学生の頃にインターネットが解禁されましたが、大学の先生たちはネガティブに受け止めていました。オンライン通販で買って家から出ないとか、オンラインで済ませて人と会わなくなるとか、彼らの言っていたとおりになっています。
教養人の特徴に「ネットにネガティブな印象を抱いている」を入れてもいいくらいです。この危惧は「電気だって最初は危険視されただろう」とうレベルではなく、数千年の文明単位で見た話です。
しかしネット危惧と同じくらい深い考えにおいて、性善説的な人間論や、オンライン社会実現法としての教育・法整備平行論や、「便所の落書きでも発信できた方がいい」などとして、楽観視する意見も多くありました。僕個人としても、全員がテレビを見て右倣えの旧時代に対し、発信の平等化が進んだ今日のほうが自然的だと思います。
一般的には、有用派はだいたいが便利だからと歓迎しました。
教養派はだいたいが批判派だったと思います。当時のITは、今のドア開閉界なみに一部のマニアしか関心を持たぬものでした(ガチのマジでWindows95の知名度が吐噶喇列島に暮らすトカラ馬程度でした)。ですが未来ネタはネット開闢以前からSF小説によくあったのです。たとえばオンライン監視ならオーウェルの『1984』。これらは手塚・藤子などの元ネタだったりして(Fは1984年に1984オマージュのドラえもんを書いています)、昭和には常識に近かった教養です。
超有名なものでは『機動戦士ガンダム』。これは後世まちがいなく教養になると思います。Youtubeを見る前にガンダムを観たほうが教養が手に入るでしょう。
宇宙に進出した人類は、新種(ニュータイプ)に進化して、互いの意思を伝達・共有でき、他者の意思を察知できるようになります。それで新人類はめちゃくちゃ期待されていたのですが、闘争に利用されたり、そのために精神を病んだり、過労になったり、旧種を絶滅させるとか言い出したりして、世界は全然良くなりません。
『情報の洪水』は現在、スマホがあればすぐに体験できます。
「モノが多くて散らかっている部屋では、必要なものを見つけにくい」
たったこれだけのことが、物理的な現象では理解できるのに、情報となるとなかなか理解しにくいのです。
僕なんかは脊髄反射的に知識をネットで漁ることがよくあります。ですが「教養人」というレベルになると、ちょうど成金と伝統貴族との違いを見せつけるように、すぐに知識を漁ったりしないでしょう。まず、今知っていることや、経験や、根底的なことから考えてみるはずです。ネットに触れる前は、みながそうしていた記憶があります。気をつけねばなりませんね。
宗祇の詩は、私たちに尊敬の念を起こさせる。だが芭蕉は、黙っていて私たちの愛をかち取るのである。
(ドナルド・キーン『百代の過客』p69)
12.教養人は別に賢くない
3.教養人は、人間が賢い、知識は賢さである、などと考えない。
これは「無知の知」ですから説明不要でしょう。
色々な論を紹介しましたが、多くの古典が知能批判を含み、ときどきソクラテスに回帰するのが面白いですね。
文明人の多くが、「自分たち文明人は優れており、賢い」と思っています。
「人間は馬鹿だ。自分の馬鹿っぷりも色々問題を抱えている」
そう感じている量と、立身出世や知力マウントに関係ないのに、調査や調べ物をしたり、難解な本を読んでみたり、実験してみたり、例題を解いてみたり、覚えようとしてみたり、製作してみたり、弾いてみたり、考えてみたり、話し合ってみるなどの量は、わりと比例します。
社会や自己の知性の現状を肯定していれば、わざわざ面倒な方面に向かうモチベーションは上がりません。今進んでいる方向に邁進すればいいのです。流行りの歌やゲームでも覚えたり解いたりするほうが、よほど有用です。
多くの文明人は、テストに出ること、注目を浴びること、収入が上がることに向かいます。
これらは有用かつ必要であり、教養よりも優先されるべき上位のものです――飯は教養を生むが、教養は飯を生まないのです。
ですが、それらを教養と同一視することは誤りです。
有用性(とくに常識や専門性)と教養が混同されるのは、人間の評価能力と人間が出すテストの判定能力を信じ、「売れるものが良いものである」と人間の購買選択能力を信じることをベースに、現実において、テストの成績や注目による出世や収入増が有用性を帯びている様相を目にしているからでしょう。そこで「テストに出ることや注目を浴びることを知っていると賢い」となり、「ものしり=教養人=賢い」という前提が支配的となり、「テストの範囲や注目される知識が教養だ」が導き出され、ジャンク教養が跋扈する理由の一つになっているのではないでしょうか。
ですが教養は、テストに出ないほう、スルーされるほう、だけれど先生が雑談で話して止まらないほうのパーツです。
そもそも教養人=頭がいいというのは俗説です。
資格や入試のテストに出ない知識はたくさんあります。
そのなかでAさんは
「アシュラマンの阿修羅面は『怒り』になってからが本気」
(ゆでたまご『キン肉マン』15~16巻)
といった知識にばかりに限られた記憶容量を割りあてています。
いっぽうBさんは、
「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」
(マタイ5章3節)
などにたくさん割り当てています。
すると知識の総量は同じでも、Bさんのほうだけ、まるで賢人であるかのように見えるのです。
聖書の知識は、信頼度が高く、全世代全世別をカバーしています。
アシュラマンはどうでしょう?
アシュラバスターが魚バスターほどメジャーになるとは思えません。
教養人は、有名で汎用性が高く、人生を変えうるほどの内容を持ち、時代の風雨をしのいだ耐久性があり、記憶してから色あせない知識を持っています。人はBさんの知識をチラ見したときに「おっ」となるわけです。なかでも草木の名前や相対性理論、不確定性原理、ブラックホールなど宇宙論ネタといった自然科学的な知識は永久的に使えます。文学や地理歴史も息が長いです。Bさんの知識は蓄積していきます。そして全知識が現役で配備されています。
いっぽうアシュラマンや、芸能人の名前やスキャンダルの動き、スポーツやゲームの数字、宣伝の内容、新製品の内容なんかはすぐに色あせます。Aさんの知識は役に立ち、仲間は増えるでしょう。ですがAさんは毎日知識を消費するため獲得せねばならず、使える知識は蓄積されません。使える知識は常時一部だけなので、無知に見えてしまうのです。
とはいえ、面白いのはアシュラマンのほうですよね。ここまで役に立たない知識だと、まさに役に立たず、無意味なため、こっちのほうが聖書よりも教養らしいかもしれません。いつかAさんのほうが逆転するかもしれません。
では結論に入ります。
「じゃあ教養って具体的に何よ?」
ということになると、私見になりますが、根となる知識ということになりそうです。
字義のごとく、果実や枝ではありません。
根っこは地中に深く広く埋まっていて、これが強いと全体の樹が倒れにくいのです。
根っこが建材にも鑑賞用にも選ばれず、煮ても焼いても食えず、使えないことは言うまでもありません。
樹にとって、倒れないことと同等に、実をつけることも重要です。
実も成らないと樹々は死滅します。
ただ、近代以降の文明社会では
「果実の糖分を増やすとよく売れる!」
「左右対称だと高く売れる!」
といった有用性ばかりが叫ばれています。
実や枝は役に立つので、搾取もされるのです。
果実ばかりでかい樹々は、得ようとする養分が同じなので個性にも欠けがちです。
これでは木としても、きっと生えていて不安なばかりで、面白くもないでしょう。
これまで述べたように、教養は有用性に対立し、役に立ちません。
ほとんど無意味です。
ガンジーがこのように言ったそうです。
あなたのすることはほとんど無意味だろう。
だが、それでもやらなくてはならない。
それは世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである。