コオロギ食はやめておきましょう。野草を食べるとよいでしょう。
 
 

 僕が最初にを食ったのは90年代の北京でした。

 

 セミを目の前で揚げたものでしたが、中身が生で、苦かったです。

 触感はよかったのですが、次に食ったサソリのほうがイケたという記憶があります。

 サソリは解毒剤とされ、薬に近い扱いと聞きました。

 セミは別のところで食い直したら、スナック菓子程度にはうまかったです。

 それから、アジアでは色々食いました。あるときバンコクの屋台で、揚げた虫を一山買ってみました。

 バッタ類などは普通に食えました。コオロギもカマキリもキリギリスもそんなもんでした。

 幼虫類はバタピーやスルメ相当でした。

 タガメも入っていました。コオロギと同じくゴキブリと近い仲間で、サバとカツオ程度の縁戚関係みたいですね。

 でかいタガメは硬くて食えたものではありませんでした。中を吸うものだと言われましたが、ろくに中身は無くて、吸うものだとは思えませんでした。ゆえにでかいタガメは不味いと断定していいと思います。僕の唯一の好き嫌いはでかいタガメです。

 

 とはいえ「小型の虫はまあまあ美味い」、「幼虫は美味い」ということは一般化していいと思います。

 

 という話がありながら、コオロギ食を勧めないのは、

 

 自由に選んだ「俺のメシ」、「わたしのごはん」ではないから


 リンク1 リンク2 リンク3 リンク4

 リンク5 リンク6 リンク7 リンク8

 

 ネットで拾ったプロパガンダ画像ですが、3枚くらい見れば十分でしょう。

 全部同じです。若い女性(タレント? 篠原涼子さんという人以外わかりませんがこの方は女優だと思います)に、「最近ハマっているものは……コオロギ!」と言わせています。

 いつものパターンの臭いで、鼻が曲りそうになります

 すなわち、広告代理店と、養殖・流通の利権と、政治的癒着の案件と、強く疑われるわけです。

 

 

 本当にコオロギが良ければ、高額な食事として現れて、お金持ちから食べ始めて、品切れが話題になるものです。

 

 コオロギ食はプロパガンダです。


 

 で……、プロパガンダだから何?

 

 確かに、ハンバーガーだってサラダだってプロパガンダはあります。

 ですが今回はちょっと違います。

 飲尿健康法と似ている構図で、貴方の人格や尊厳にかかわります。

 

 

 人間、嫌いなヤツに押しつけらえた考えは、嫌いな説になりがちなものです。

 子どもの好き嫌いは、それを食べていた時の食卓の雰囲気によるといいます。ピーマンを無理矢理食わされると、ピーマンは強制される敵だと思うので、ピーマンをますます嫌いになるという心理です。
 逆に、大人が進めてこないもの、たいていは新しいスナック菓子などを自分で選んで気に入ると、自分の発見物となるので気に入ります。それを友達に勧めたりして、認められると菓子と自我がリンクしてますますその菓子が好きになって、結果的に発育を阻害したりするわけです。

 この差は「自分のメシ」であるか、ないかです。


 バブルの頃に、飲尿健康法というものが流行りました。

 

 「ねーわw」

 

 と思ってると、95年くらいになって

 

 「嘘でしたwww科学的に認められる効果はないからwww」

 

 と出てきて、どーすんだこれwwwwwwwwと思ったものです。

 

 人間は宣伝をすれば、小便でも毎日夢中で飲むのです

 問題は流行ったことです。自分で飲尿健康法を見つけた人は、自分の健康法や習慣として、それをモノにしたでしょう。後述のように、虫であろうと尿であろうと、食には精神的・哲学的な側面があるからです。「わが飯」であれば勧めうるものです。

 ですがこれは流行したのです。大抵の人間は、ただ引っかかっただけです。

 

 食わされたものが、他のものと大してかわらない野菜や肉類であれば、「アタシの食事」だろうが他人に食わされたものだろうが、いずれも自分の中でどうにでも発展していくでしょう。

 ですが、昆虫食は上級者向けのグルメです。

 

 

 イスラム教で豚を食べないように、「何を食べるか」は人格、人生感に深くかかわるものです。

 

 

 例の総務省の放送法案件の公文書では、山田秘書官が

 

 「国民だってそこまで馬鹿じゃない」

 

 と言っています(p38下から3つ目の ○……)。

 

 「あの馬鹿の国民でも、そこまで馬鹿じゃない」ということです。

 広告代理店も、他の政治家も、官僚たちも、同じような認識でしょう。

 ですが「最低レベルの馬鹿ではない」と言っているのです。

 

 いっぽう昆虫食をトレンディな宣伝で釣るという行為は、

 その対象者の人格や文化や知性を馬鹿にしきって見下していないとできないことです。

 

 

 だから、昆虫グルメに至った僕の意見としては

 

 「コオロギを食わされるな!」

 

 というわけです。


 食は人間にとって、まず生存と満腹が第一かと思いますが――これも「○○を食うくらいなら死ぬ」という人々もいるので疑いは残りますが――、少し豊かになると第二のレベル、美味いとか不味いとかの快楽になるわけです。
 70年代~90年代の日本は飽食の時代と言われ、飢えの概念は誰も日常に無く、食は快楽から始まっていました。

 さらに豊かになると、人間は、人間的特徴を増すようになります。
 

 食も感性にふれるものだから、美術や音楽と同じように、量が多いとか美味い不味いとかではなくて、精神や哲学という非俗の側面があるわけです。余裕が出ると、これの割合が増します。

 そのとき食の動機や、食事において重要視される部分は、

 

 食文化

 

 コミュニケーション

 

 健康や脳育や生活管理

 

 命と殺についてのドグマ

 

 環境問題

 

 新しいモノへの好奇心や発見

 

 生態系や自然と自分との関係性

 

 アイデンティティのシンボル

 

 異文化との接触

 

 栄養素選択による任意の自己形成

 

 などになります。

 こうした精神的・思想的な食のうち、偏見からの自由を満喫することや、今までの食文化への反感や問題意識といったものが、新しい食を拡げるのです。

 珍味やグルメというのは、どこかで「自由だ! 面白い! ヒャッハー!」と食っているわけです。

 ナマコを最初に食った奴というのは、それが原人の頃からの食習慣ではなく誰かがある日はじめたものならば、ゲテモノに手を出すほどに飢えていた者ではなくて、むしろ食い物が余っていた漁師か坊主ではないかと想定しうるわけです。

 

 だって、自分も腹が減ったからではなく、カネと時間が余っていたからサソリ食ったわけですし。


 僕が昆虫を食べてみたのは、「虫キモい、加工品はナウなヤングにバカウケ」というTOKYOトレンディ六本木アーバンナイト的なプロパガンダによる偏見によって昆虫を食べなくなったカルチャーや、ゴキブリ殺しの商業広告への反感があったためです。

 その頃のメモに「虫キモイとか言うと、自分が高尚で綺麗になった気になれるんだろう。くだらない。なお昭和天皇の好物はハチノコだったらしい」、「ゴキブリを殺すんじゃなくて、汚いと教えてくれるわけだから、ゴキブリが出てないように掃除したいものである」といったことが書いてあるので間違いありません。


 釣りをしていた時も、仲間と一緒に同じことをやっていました。

 ブラックバス、ゴンズイ、ネンブツダイ、フナムシアオイソメなど、毒ではなさそうなものは大体食ってみました。時に一緒に食べたり、互いに報告するわけです。野草などは今も同じ理由で(と近年では経済的な理由で)ときどき食っていますが、これらはグルメです。

 はじめて食べるモノの、新体験の味が広がってくる感触の中から、美味さを見つけた時は格別です。

 そういうときには、唾液の消化と味蕾の反応による物理学的な味のみならず、「オレの飯!」「自由の果実!」といった外的要因でブーストされた脳が感官を開いてポジティブにその反射を受けいれ、生理学的にもイケる状態なわけです。

 

 こういうことを、昔からごく一部の好事家(こうずか)がやっていたわけですが、近年ヨーロッパで昆虫食が少しずつ広まったのです。

 捕獲ものではなく昆虫食品として商品化されたのですが、手を出すのはグルメ同好の士たちだったのです。

 商品であれ、みな自分で見つけたものだから

 「意外といける」

 「こんなの環境問題に対しちゃ雀の涙だよな」

 「お前も食ってみろ」

 「中国じゃ前から食ってんだろ? すげーな」、「いやしょぼいんだろ」

 「そういえばペーターはベジタリアンだったな、魚はいいみたいだけど虫はどうなんだ」

 となるわけです。

 なんにせよ、「俺らのメシ」ですから、手に入るのは自分の可能性の発見と、自由です。

 しかし、周回遅れで、他人のカネ儲けのための挙国一致プロパガンダに乗せられたり、格差拡大政策で貧困化させられて、高くなった玉子のかわりに食わされるというのでは、何かを得られるどころか、せいぜい他人より先に食うか否かでマウントしあう程度で、釈然とせぬままでしょう。

 たとえば「粉にする」というのは、本当はイヤだからです

 

 

 自由のレベルは飲尿健康法の被害者と変わりません。

 生理学的反応は何も起きないので、美味いと思える理由がないのです。

4/28追記

 納得の上でエンジョイするのは、きっと楽しいかと思います。


 野草には、まだグルメの自由が残っています。

 僕からすれば、カタカナ名で宣伝されたハーブは500円とか出して買うのに、宣伝されないからといって野草を食わないのはもったいないですよ。ハーブなんてもんはみんなどこかの野草ですー―毒草や汚染には気をつけないといけませんが。

 

 

 例の総務省の公文書

 

 「国民だってそこまで馬鹿じゃない」

 

 ですが、この制止をつぶして強行された放送法の解釈変更の結果は、日本国民は山田秘書官の想像を超えて馬鹿だったわけです。


 しかし人間の知性は一元的なものではありません。

 日本人は社会性やリテラシーや自由力は低いのですが、生命観、衛生観念、食の意識は高いのです。

 日本人がコオロギ屋に引っ掛る懸念は、むしろ「食材や虫への偏見の無さ」や「衛生的合理性」という日本人に優位な知性が、欠落した知性である「リテラシーの低さ」と「自由力の無さ」と掛け合わされてネガティブに方向づけられて働いて、飲尿健康法的なコオロギ食の流行や、汚リンピック応援や「マスク警察」的な同調圧力として出力される可能性から出てくると言えます。

 

 僕の社会面での危惧は、これまでほぼ全部当たってきました。ですが今回は外れそうです。

 やっぱり食文化への意識がぐっと高いのではないかと思います。

 プロパガンダ屋は「昔は食べていた本当の日本食!」なんかも仕掛けてくるかもしれませんが、日本人はコオロギ案件には騙されないのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 



 

 いいわけねーだろwwwwww



 ナチスそのものじゃねえかwwwww



 と思いつつも


 「なんで老人の集団自決がいけないの? 無駄でしょ?」


 と中学生に問われた時、答えに窮する大人が多いのではないでしょうか。


 「なんで? ねえ、なんで? じゃあ対案は?」



 ……ナチに陥るクソガキをビシっと諭せる大人になろう(目標)



 というのが今回の記事です。


 「なぜ日本では騒がれなかったのに、先進国では大事件になるのだろう?」


 「裏で起っている大きな流れは?」


 などの疑問も解決していきましょう。ガチ解決をめざします



1. 事件の概要

2. 御用タレントの犯人隠し――日本衰退の真犯人は?

3. 「集団自決」の何がマズいか

4. 利益のためには人を殺していい ――ナチスと同じ?

5. 老人って生きてる意味あんの?

6. 差別主義の攻略法

7. 御用タレントのトリセツ




1. 事件の概要

 「高齢者の集団自決」は、最近露出が多い成田悠輔さんという人物の発言です。

 「日本経済のためには、老人の集団自殺しかない」
 という旨のことを言ったという話が、ニューヨーク・タイムズの1面に飛び火。


 ネットでは、少し前から話題になっていました。
 成田さんの突然の起用をはじめた日本のメディアはこの件を隠していましたが、黒船が来たので、わりと日本でも知られるようになったのが今のフェイズです。

 僕もネット民ですから、少し前にチェックしていました。
 この大衆社会ですから、はじめはネットリンチを疑っていました。有名人の言葉のアヤの揚げ足とりや、知的な人物に多いブラックジョーク(註1)が理解されずに、炎上しているんじゃないかと。
 ですが、この件はそうではありません。成田さんはいくつかの動画でこれを言っていました。

 あるZOOM対談の動画では「高齢者の集団自決」は例えではないとして、「モチベーションを与えないと自決しない。そこで『自決はカッコイイ』と思わせれば、切腹が流行ってくれる。三島由紀夫は切腹して、今もカッコイイと言われてるじゃないか」ということを言っています。
 0円のエサで釣って死んでもらおう。大日本帝国と特攻兵かな?

 これでブラックジョークの線は消えました。ある観客を入れたトークショーの動画でも「高齢者の集団自決」の発言をしています。そのかなり後になって「さっきのはものの例えだ」というシーンがあるのかもしれませんが、「少なくとも途中で動画を止めた場合は、そのまま真意と受け取れるだろう」と判断するしかないものがありました。


 概して、問題は3つあります。

 第一に、日本人には「高齢者の集団自決」の賛同者がかなり多いということです。
 積極的な反論者は少ないです。だから海外でばかり問題になっているのです。

 この賛同者たちは、だいたいが

 「事実を言っただけじゃん」

 「じゃあ対案を出せよw」

 という人々です。
 中高生が多いのかもしれませんが、成人も少なからずいるでしょう。

 これでは人間生命に意味や価値を求め、かつ、その意味や価値は生産性であるととらえるナチの一派です。
 19人の障碍者が犠牲になったやまゆり園事件や、ときどき起こる浮浪者襲撃などとおなじ心理的背景が露見しているわけです。


 彼らは同時に「俺は○○を生産しているから生きてていい」としか考えられない被害者です。フロムという社会心理学者によれば、母性の「貴方は貴方だから大事」という無条件の愛が欠如して育ってしまった層だそうです。この稿は彼らを排撃するものではありません。


 第二に、メディアの腐敗の問題です。

 この成田さんは、おそらく御用タレントです。
 ご本人がファシストなのか、炎上商法で過激な発言者を演じているのか、依頼や台本による発言なのかはわかりません。ですが社会問題のレベルでは、どっちにしても問題は “ナチズムの扇動” ですから、成田さんの人格の是非はではありません。個人レベルでは「すまん訂正するわ」で反省すれば済むと思います。

 一方、御用タレントを使うメディアの問題は深刻です。
 御用タレントを起用する番組類も御用だと思います。カネの流れ、ツテ、人選の経緯、番組の結論などを調べればだいたいわかるでしょう。これらのメディアは今もこの件を報道せずに隠したままのようです。もし「高齢者の集団自決」が芸能人や共産党員の発言だったら、涙目になって大騒ぎしていると思いますが……。


 メディアにも、権力や権力に近いマネーが介入しているとなれば、有権者の判断材料を提供する媒体が崩壊していることは、政治の問題、『知る権利』の問題です。

 知的階層(責任階級)にあるメディアの人々が、当然起こりうる危険な誤解への配慮をしなかったことに問題があることは否めません。仮に「集団自決」がジョークやレトリックであったとしても、子どもや、ながら観をする人々も含んだ視聴者大衆の読解力の限界は前提です。
 これらのメディアは、成田さんへのリンチによる尻尾きりを目論むかもしれません。ですが成田さん個人の闇よりも、それを起用し続けたメディアの闇のほうが深いのです。


 第三に、発言の意味そのものの問題があります。

 ファシストの増加問題、メディアの腐敗問題は、社会の問題です。
 いっぽう、「高齢者の集団自決」の内容の問題(なにが悪いの?)は、倫理や哲学の問題です。この稿の本題はこちらです。



2. 御用タレントの犯人隠し――日本衰退の真犯人は?


 まず、この発言の目的はなにかを考察してみましょう。


 御用タレントがよく用いるペテンの手口に、

 真犯人のすりかえ

 があります。

 「高齢者の集団自決」と誘導して、得をする層がいるわけです。


 日本経済の衰退の真犯人って誰だと思います?


 日本経済の衰退や、若い世代が子どもを作れなかった高齢化問題の犯人は……

 既得権益層、政治家、官僚、財界、マスコミ、安倍カルト、日銀あたりです。

 「日本経済の衰退とともに得をしてきた人々とイコールである」
 といってもいいかもしれません。

 彼らは高齢者一般ではありません。


 犯人のすり替えによって、一般国民の不満の矛先をそらし、かれら同士の世代間対立を扇動するのが仕事の一つなのでしょう(註2)。

 馬鹿な一般国人どうしで争っていてくれれば、まとめて逆らうことがなくなります。
 既得権益層、政治家、財界、安倍カルトは、甘い汁を吸い続けることができるのです。日本人てちょろい。


 さて、まず「高齢者」のほうを問題にしていきます。

 「集団自決」のほうは、とりあえずは成田さんの提案を尊重して、そのまま置いておきましょう。
 僕らのような常人にはなかなか思いつかない「集団自決」……。さすが天才といったアイデアですよね。
 これには賛成したくありませんがが、天才の意見は採用しなければならないかも……。

 となると、真犯人がわかった場合の正しい答えはこうなるでしょう。

 「既得権益層、政治家、官僚、財界、マスコミ、安倍カルト、日銀の集団自決」w

 即時的なカネの問題ならばなおさらです。
 山ほどいる財産0円の老人がいくら死んだところで、大した国益にはなりません。
 それよりも、超超超超超たくさんのお金や利権、既得権を持っている人が、いくらか集団自決したほうが、少ない犠牲で効率よく解決するわけです。

 「富裕層の集団自決」www

 これこそ、「日本経済の復活」、「高齢化社会の解決」という、成田さんやその賛同者の希望が達成されるのではないでしょうか(註3)。まさにコスパ最高ですw

 いっぽう、凡俗の僕らはこれが正解と考えてきました。

 「選挙で利権屋を落とし、自分たちの代表を議会に送る」


 ですが、メディアは天才の意見を紹介しているし、悩みどころかもしれませんねw


 中学生に対しては「まずは真犯人を疑え」といえるでしょう。



3. 集団自決の何がマズいか


 こんどは「集団自決」のほうをやっつけていきましょう。

 いくら安倍さんでも、絶対に殺してはいけません。

 前置きになりますが、「自○させる」という発想がでてくる人物には、なんらかの被害経験があるのだろうと思います。
 凄惨で陰険なイジメ、家庭での幼少期の虐待、若年期の何らかの暴力などです。
 その点は同情しますが、通常考えられる「殺す」や「処刑しろ」ではなく、「自決させろ」というところには異常性が認められ、人間の意志の所在を考えれば、この『内面の自由』への支配欲は病的という印象です。となれば、これは「意見」ではなく「症状」です。“天才的アイデア” というもののいくつかは狂気であり、健常な精神からは出てこないものです。

 であれば、「自決させる」は、正確には、精神科とか心理学で扱うべき問題になると思われます。人体の病理ついて社会問題として議論をしてもらちがあきません。
 そこで、ここでは「あるカテゴリの人々を排除する」という理論や言説、「殺人やジェノサイドの動機」などの問題として扱います。


 まず

 生産効率 > 人命

 という前提。

 これがだめです。

 仏典、聖書、古代哲学、社会契約論、カントの定言命法など、この手の思考への反論(これらは道徳ではなく倫理です)は数多くありますが、今回は現代社会の基礎となる社会理論だけで充分でしょう。


 「経済活動のために人間が生きているのではなくて、人間が生きるために経済活動をやっている」

 というのが自然の順序であり、人間からみた世界です。

 自然の秩序に逆らい、「自分を支える手段」のために「自分」を食ってしまうと、挫折します。

 足の骨を抜いて杖を作れば「自分」は衰えるのです。

 これは『本末転倒』です。
 「配達のバイトをしていたが、生活費を増やそうと速い自転車を買った。同僚はチューンナップもしているので改造パーツが欲しくなり、だんだんと生活費が減っていった」というやつです。自転車くらいならいいのですが、みんなでこれをやると、生きるために国を建てたのに、国のために生きることになります。わが身は焼けただれ、国は焼土になります。

 今の日本で頻繁に見られる「カネや肩書きのために人間が生きている原理」にもとづく行動では、手段のために目的を使うことになり、人間は崩壊するわけです。集団も個人も崩壊します。

 第一に集団のレベルでは、ブラック国家やブラック企業は、ホワイトに勝つことができません。
 大企業にホワイト企業が多い理由は、スケールメリットにより待遇が良くなっただけではありません。待遇がいいから個々が積極的に働いて組織を守ろうとした結果、会社がでかくなった面もあるのです。人材を使い捨てにする企業のために頑張る人もいますが、ホワイト企業のために頑張る人よりは数が少ないのです。


 自由主義の保守理論には、米・英・仏の民主主義陣営が3連勝(二度の大戦と冷戦)しているのは、民主主義国家が相対的にホワイトであるために、国民が積極的に国家を守ろうとするためという説があります。
 「おまえの存在は、集団のためにある」という集団では、個々のメンバーにはその組織を維持する意義が比較的弱いので、個人主義世界に勝てないわけです。
 ましてや「国家のために生きろ」ですらない「国家のために死ね」では、とうてい長持ちしません。これは死を賛美した大日本帝国の道徳観(註4)ですが、「高齢者の集団自決」との類似性が認められます。
 この件が海外では大問題になるのに日本でスルーなのは……。

 この件で国会が動かない日本は異常です。

 90年代のメディアならば、海外にバレる前に、成田さんへの反論を語る識者を連日出していたはずです。
 炎上ですから、そうとう稼げますよね?
 視聴率を捨ててまで黙殺するのは、民法として異常極まりないです。
 このことは、広告収入による民法の経営モデルが崩壊し、 “党の放送局” になっていることを暗示しています。


 第二に個人のレベルでは、たとえばホッブズの社会契約論では、「君は自決しなさい」と殺しにかかって来る人間を生かしておく理由が、狙われた者とってはまるでないことになります。

 この意味で「集団自決」は大変危険な発言です。

 表現の自由を制限すべき、または公権力による制限が許される案件と思われます(註5)。

 「国家のためには君が自決するしかない」とされてしまっては、発言者だけでなく、国家や経済も反撃されうるのです。なぜなら、「国や経済のためには、君が自決するしかない」とされた人は「国とか経済がなければ、俺が自決しろとか言われないんだよな……。よーし」
 と考えることは止められないからです。

 いきなりテロということにはならないと思いますが、こういう言説が適切に処理されなければ、民心が今よりもさらに荒れることは確実です。もはや、甲(高齢者)と乙(高齢者は自決しろ勢)のあいだでは、お互いの生存権を護りあうという契約が破棄された状態です。

 世代間対立への標的そらしは絶対に止めねばなりません。

 日本語世界では、もはやまともな見識ほど発言力がありません。
 地道にやるしかないでしょう。日常生活でも、異世代の人と人を紹介するとか、色々な世代の色々ないい話を積極的にしていくとか、何気ないことに気を使っていきたいものです。

 中学生には、そうですね……。この話、ちょっと難しいですよね。

 「お前の切腹を提案する人たちを、お前は喜んで生かしておきたいと思うか?」

 とか

 「人を攻撃すればするほど、そいつは弱くなる。味方が減るからだ」

 とかイキって言ったほうが通じるんですかね(註6)。



4. 利益のためには人を殺していい ――ナチスと同じ?


 「あのさあ……」


 思わず何度もこぼしましたよ、ええ。


 「利益のために人を殺すのはいいことである」

 これが成立するならば、安倍さんの銃撃犯は日本民族の英雄です。
 “ルフィ”も無罪ですね。彼も、彼の利益のために、強盗をやらせて人を殺っただけです。


 マジで日本人、やばすぎるヤツが多すぎる。

 なんかつーかもうナチュラルでナチ。



 略してナチナチ?


 ネット掲示板には「ナチ田」などという書き込みもありました。
 幸い、「ナチじゃねーか」と指摘できる人も、まだまだたくさんいます。


 「これが何でナチスになるの?」

 ナチュラル・ナチの人々には、自分がファシストであるという自覚がありません。
 一般人も中学校や高校でずっと黙らされてきましたから、「これ、なんとくなくナチスっぽい」という通念はあるものの、「こうこうだからナチスであり、悪である」と明言することは簡単ではないと思います。

 「高齢者の集団自決」
 これのどこがナチスと同じであるのかは明確です。

 民族主義ではないので、狭義にはナチズムそのものではありません。「民族のための高齢者の自決」といっているわけではありません。経済や国家のためです。
 しかし全体主義であり「全体のための高齢者の集団自決」といっているので「ほとんどナチスそのもの」です。

 なんで「全体のための高齢者の集団自決」がダメ(≒悪)なのかというと、これも「利益」は「人命維持」のためにあるからです。
 上の話と同じで、

 利益 > 人命

 とすると本末転倒だからです(註7)。


 ナチスは「民族の利益のために個人は死ね」という思想でした。

 ですが、なぜ社会のために個人を殺すことがアウトなんでしょう?
 ファシストはこう考えます。

 「社会の利益にならないなら、死ぬのが当然だが?」

 われわれはこれを論駁したり、再考を促すことができるでしょうか?


 一つには、上述の社会成立の倫理を適用できます。
 ほかに、ナチス特有のイデオロギーがもつ問題があります。産業ファシズム下に育てられた現代の日本人ファシストには、以下の話のほうがとっつきやすいでしょう。


 ナチスがなぜ生産不能者の “処理” をやったかというと、カネのためではありません。イデオロギーのためです。

 ナチスは「生産不能者がいないほうが国家経済が豊かになるという経済学説」を持っていたわけでもなく、米英やソ連の経済思想を強く批判してイデオロギーに結びつけていたわけでもありません。
 「生産不能なら需要作って消費してくれるぞ。経済段階が進むと凄い生産ツールがふえて供給過多・需要不足になるからちょうどいい」と唱えるケインズに、ヒトラーが何か反論して「論破ァ!」と叫んだこともありません。利益や経済的価値の話から "生産不能者" を殺害したわけではないのです。

 「民族のために他のすべてがある」

 これは総統閣下の『我が闘争』にも、総統閣下や大臣閣下の演説などにも繰り返されます。芦田均『外交史』、南原繁『国家と宗教』などに、長ったらしく散在するナチ思想を客観的にまとめた記述があります(註8)。
 これらをさらにまとめると、こうです。

 ナチスは英米など資本主義・自由主義陣営のように「個人」を単位とするのではなく、ソ連のように「階級」や「国家」を単位とするのでもなく、それらにかわる価値観を持つ独自の世界を作ろうとしました。
 このときに出てきた単位が「民族」です。

 もとは感情でした。ただ庶民が、右翼的に「ドイツ人凄い。だから俺凄い」とわめいていただけのものが、御用学者によって近代的理論に体系化されたのです。
 今の日本は、まさにこの段階なんです。蒙昧なネトウヨ妄想の理論化というフェイズです。イェール大の助教が「高齢者の集団自決」と発言したことも凄いですが、この主張は昔からありました。今回はイェール大の経済学者による理由つきだから大きな問題になっているという面があるのです。

 ナチズムの理論化の際にはダーウィンやニーチェが援用されました。世界の姿は民族と民族の生存競争であるとしたのです(註9)。これは神の目的として説明されました。闘争は、最も優秀なる民族が残るために、神が意図したものとされました。
 「個人」や「階級」は唯一の真の単位である「民族」の下位カテゴリです。ナチスは西のホッブズの社会契約論と、東のマルクス・レーニンの階級闘争を否定しました。
 ナチの世界では、人間は個々に世界と接しているのではなく、個人は民族に結びついており、世界と接している単位は民族です。人間の真の単位は民族です。真の理念もまた民族単位でなければなりません。そうした正しい世界の実現のために、世界も人間も再興されねばならないのです。

 人類史は個人主義の時代を終えて、民族主義に進化した段階とします。
 こういうところはソ連の理論「資本主義の時代を終えた階級闘争の時代」を雑にパクっています。換骨奪胎といってもいいかもしれません。
 さらに雑パクりしたのが今の日本のファシズムと言えるでしょう。
 ナチスのいう「民族」を、「日本経済」や「企業」と入れ替えると、安倍政権に近いネオ・リベラリストの言説になります(後述)。そこでは経済は真理なのです。

 個人主義の理論ほうもざっとおさらいしましょう。
 その伝統はアテネや聖書や諸子百家に戻って古いのですが、近代個人主義はニュートン『プリンキピア』が万有引力の法則、太陽系の自律的な秩序などを発見し、それをヴォルテール『哲学書簡』が社会に当てはめたのが啓蒙思想のはじまりとされます。どちらも読みましたが、通説のとおりだと思います。
 近代個人主義は、科学に依拠しています。地球や国王だけが引力を持つのではなく、貴族の血は青くはありません。嘘はいけません。社会は皆が引力をもった個々人が、太陽と惑星のように勝手に動きながらも関係対として、自律的に存在していると認識されたのです。国王を支えているのは神託や血ではなく、他の国民たちの承認です。
 この思想の大枠はカントによって完成しました。国連やEUもカントのモデルです。「社会における活躍が人間生命の意義」なのではなく、「社会は人間が生きるためのツール」にすぎません。民族や国家を組織しない個人はいますが、民族や国家はかならず個人を必要とするのです。個人は民族や国家に先行し、目的と手段が入れ替わることはありません。


 ナチズムを論駁するのは簡単です。高度な理論ではありますが、ベースがおかしいので砂上の楼閣です。科学ではないので、小学生でも論駁できます。定番の論駁法もたくさんあります。
 
 しかし問題は、科学的手法や論理でナチを説得することはできないことです。
 ナチズムは信仰、もといカルトであるので、理屈は通じません。個人主義者のほうは科学的なので話が通じる相手です。ですので、ファシストを自分たちと同じようにとらえがちです。ですがファシストは「理論と気分だったら、気分が正しい。だから正しいのは総統と俺だ」と言っているのです。


 「みんなに損をさせてるんだから、自決して当然だよね」

 これを狂気や愚考から引き戻すのは難しいです。可能ならば第二次世界大戦は起こっていません。とはいえ最善を尽くさねばならないでしょう。

 もしかすると、ソクラテス論法を使って、自身で答えを出してもらえばやめるかもしれません。「事実」は他人に押しつけられたものではなく、自分で発見したものなので、大事にして愛でて育てるという心理に頼るのです。

 たとえば、まず「A国とB国とどちらが強いか」を答えてもらいます。
 A国は、自己責任の国です。非正規は貧しく、老人や障碍者は収容所か処分。
 B国は、脱落者を教育や援助で戦力化してきます。非正規や前科持ちを教育し、老人や障碍者を消費者や相談役や社会的実験の道具として利用し、全員をメンバーにして全員でかかってきます。

 その上で、A国では、最初のステージで高齢者に自決させる。すると次のステージで「足を引っ張る層」がまた出てくるわけです。誰を自決させるかを答えてもらいます。
 それをまた次のステージで、富貴や国力のために自決させる。するとまた次の「足を引っ張る層」が相対的に必ず出てくる。
 最後に生き残るのは誰か、どうすればこの足切り政策が成功するか、などを論じてもらうのです。
 うまく行くなら、完成した理想のA国が、B国に勝てるかを論じてもらいましょう(註10)。
 もしかすると、騙されたことに気づいてくれるかもしれません。


5. 老人って生きてる意味あんの?


 「高齢者の集団自決」

 この発想は、やまゆり園の事件(障害者は無駄! と重度の安倍カルトの犯人が19人を手にかけた事件)と同じです。

 ここでも論じました。(『なんで障害者を殺しちゃいけないの?邪魔でしょ?』 2016年)
 当時の危惧通りになっており、予想外のことは何一つ起こらないですから、この論は合っているのだと思います。ここでは要点を抜きます。

 このとき、ネットでは「老人も殺して欲しい」、「もっと大勢やればよかった」、という書き込みがたくさんありました。
 ナチズムは今に始まったことではなく、あいかわらずの思考停止なのです。

 「老人って生きてる価値あんの?」

 に対して、

 「ないかも知れないけど、仕方ないから生かしてあげましょう」

 といったような程度の認識の人も、めちゃくちゃ多いですよね。
 ナチズムではありませんが、これでは「一線を越えていないだけのやべーやつ」です。
 「生きてる価値はないけど、人殺しはいけないから殺すのを我慢しろ」では、本質的な解決はできません。

 ですが、ナチズムの浸透はすすむばかりです。

 「あいつらが生きている意味って何だろう」

 「私がいる価値って何だろう」

 という話を普通に耳にすることがあるでしょう、日本では。

 これ自体が愚問なんですよ。

 なぜでしょう?


 「意義」「価値」←こいつら

 こいつらのほうが、生きるという目的のためにある手段なのです。


 これも、手段と目的の混同なんです。


 「生産効率が、人間が生きる価値である」というところから正義を発生させると、やまゆり園です。

 稼ぎがいいのはいいことだ。
 仕事ができるのはいいことだ。
 成績がいいのはいいことだ……

 といった道徳観に支配された大衆社会が現代です。
 実際には、金銭も成績も相対的ですから、他人からシェアを奪うことや、他人を下にして自分が上に立つ行為を経ないと手に入らないので、凄惨な闘争が発生しているわけです。

 2016年より悪化しているのは、権力周りの愚民化政策です。
 今回も御用タレント案件だと思いますが、こういう下層の国民間の闘争で得をするのは、闘争をさせて吸い上げる側です。ほとんど官製の闘争、官製のファシズムなんです。


 官製ファシズム。


 ああ、なんて日本らしい響きなんだろう?


 この思想の下では、生産しない人には本質的な価値がありません。

 子供は投資。

 老人は重荷。


 多くの人々が、どこかでそう思っています。
 海外に行くと、ガチのマジでそうは思っていない人がたくさんいる、という話を理解できない人にも会ったことがあります。ですが外国の人々を見ていると、ときに、サラッと心の底から遊んでいることに気づかされます。自分のことも他人のことも生産ツールだなどと露ほど思っていないので、余裕なのです。どうも生存権の認識という社会知の多寡によるのではと思います。

 日本で危険なのは、中上流層です。

 「高齢者をいじめるなんて悪いことだ!」

 という人々も、必ずしも信用できません。自分がファシズムに突き落とした相手を、「ナチめ!」と攻撃していることも多いのです。
 この道徳家のバックボーンは、ポジション闘争の勝利で得た特権です。「正義の味方になりたい」という欲望を、このチャンスに出して犯人を叩くのです。そこには倫理や感情・感性に由来する公平さや客観性はありません。

 突き落された上に叩かれたファシストは、「自分たちが正しかった」と痛感するでしょう。ファシストを叩いたところで、ファシズムを止めることはありません。むしろ良識に対する反撃に出るのです。「やはり高齢者の集団自決しかない!」と。

 「被害者の救済」、「再発防止」、「犯人がなぜそれをやってしまったのか」を少しでも真剣に考えたならば、ああはならないはずです。


 倫理の解決は簡単で、ズバリ一撃できます。


 人生 > 価値

 
 さらにいえば、価値にまつわるところの機能の存在で、これを検算できます。
 ある人についている、価値を感じる感覚器官、価値を感じる感性や臓器、価値を判断しようとする意志、価値を判断する能力も、本人の生存のために、人体の部品としてついているものです。
 もし価値のために人体全てが生きるとか死ぬとなると、一部の臓器が製造した人工物のために人体すべてがあることになります。ところが人工物には再生産の機能がありません。人体は再生産できて、人工物を産めるのにです。
 たとえば、いいと思った曲のために生きるならば、耳のために人体や人生があることになります。そうではなく、いい曲を得るのは彼の人体が喜び人生を充実させるためで、耳はそのための器官だというのが自然の摂理です。人体がないと耳は維持できず、音楽も維持できません。「価値」が生命の下位にあることは、気づけばすぐにわれに返るものです。
 また、国家や民族に属さない人も、価値にまつわる機能を備えています。「価値」の産物である「国家」や「社会」などは「価値」以下です。
 国家経済ナチズムなどは、全体から結論まですべてが空想です。



6. 差別主義の攻略法


 第一に、能力主義の廃止です。

 上述の「価値」のうち、「能力」は多く出てきます。

 ファシストによれば「高齢者が集団自決すべきなのは、生きる価値がないから。なぜなら生産能力が無いから」です。

 「カネを稼ぐ能力」にまして「知能」が日本の現代人の地雷、発狂要素だと思います。ですが、こちらも職能闘争の脅迫を受けているためと思われるので、同一視してよいでしょう。


 人間は「能力」の生きものではありません。

 それを忘れて「自分の存在意義」などを求めると、「存在意義のない人」の存在可能性が出現します。


 大抵の人間は、ここで「『他人よりも自分が優れている』と思いたい」という欲望に負けるでしょう。
 「俺とは違って存在意義のない人たち」
 が簡単に出てきてしまいます。

 これは自他への攻撃精神の萌芽です。
 さらに病んでいれば「存在意義のない自分」と、矛先を自身に向けます。


 そもそも

 「能力って何?」

 と聞かれて、答えられる人は稀でしょう。

 ある人の本当の「能力」がわかるのは、死んだ時からです。
 誰を好きになるかも選べない人間に、「能力」を判定する能力があるのかは謎です。

 たとえば老荘思想の『無用の用』はこうです。

 「ある人は、右腕が無かったから生き残った。隣のやつは、銃を撃てるから殺された。つまり右腕がないということは能力である」

 「能力」とは、みな「能力とされること」の一つ一つにすぎず、真の能力の価値などありません。
 それぞれ特性について、未来が見えるわけでもない人間が、一体何の優劣を求めて対立するのか。「右腕が無い奴とある奴と双方を尊重し、多様性を確保しよう」という既存の倫理のほうが自然です。

 寅さんへの憧れ、のび太への謎の高評価、アホな猫を飼う行為なんかは、「ある能力にかこつけて人格全体を判定しない」という精神から来ているんじゃないかと思います。まだまだ倫理派のほうが多いんですよね。
 何かコンテンツとか、上手いワードでも流行ると、一気に世の中が明るくなる可能性もあります。どこかのユーチューバーあたりがなんか言ってくれないかな……。


 第二に、「理由があれば人を殺していい」という判断の認識です。

 これも日本人はヤバいです。
 かつて学校教育で考えることを止めさせたヤツ、どう責任とるんだこれってレベル。
 死刑の問題とも深く関係しています。

 なぜヤバいかというと

 「○○ならば、人を殺していい」

 ということが成立すると、これは論理学的には

 「理由があれば、人を殺していい」という形式になります。

 同時に
 「××ならば、人を殺していい」
 「△△ならば、人を殺していい」
 という対等な概念に変換してよいことになります。

 復讐、慈悲、予防、正義、道連れ、神の声……、理由にされる価値観は人それぞれですから、人が対等である限りは、いずれの真意も対等です。
 そこで社会の人命尊重は「人命が最高で、比肩するものはない。あらゆる場合に殺人はダメ」とせねば成立できません。

 ある人の理由だけがだめということは不公平です。人が対等でなければ、下に置かれた人には社会を維持するメリットがなく社会は成立できません。となると、やはり最高の価値を人命にしないと社会は成立できません。

 「人を殺していいか」の議論になるのは「人を殺さないためならば、人を殺していいか」のみになります。最強対最強ですから「人命が最高」は崩れていません。「トロッコ問題」や「戦争を止めるための戦争はいいのか」、派生して「人間以外の命は?」「『生む』と『殺す』では?」なども議論になりえるでしょう。

 日本では、人命についての議論があまりに欠けてきました。
 感情面では日本は進んでおり、コンテンツなども大変充実しています。奈良公園の鹿とか人形供養までありますし、食事と命の問題、兵器輸出への想像力や警戒心などにも、優れた精神が見られます。
 ですが、そのために議論が欠けたのかもしれません。論理的に対応できる能力をある程度は社会が持たないと、この手の問題が出てきたときに対応できません。
 とはいえ、「理論はあるのに感情がヤバいタイプ」と比べたら、改善は圧倒的に容易です。


 第三に、いわゆる無知の知です。

 「日本人は頭がいい」みたいなのは、いい加減卒業しないといけません。

 殺意と自己の過大評価には一定の関係があります
 自分を賢いと思っているから、殺人権、選別権の自認しうるのです。
 デスノートみたいな大衆コンテンツの影響があるのかもしれませんが、これってめちゃめちゃ痛い人ですよね。

 選別権の自認ですよ?

 「あいつムカつく! ぶっころす!」
 と椅子を蹴って足を抱えている人のほうが、まだ見るに堪えます。

 ファシストはとにかく、なにより女子にモテなくなるので、絶対にやめたほうがいいです。人間というものへの根本認識を深めるのがおすすめです。人間を知ればモテ度は別世界。となれば少子化も解決しますよ。すべて解決です。
 「高齢者の集団自決」に声を合わせて何か解決するなら教えてほしいです。



7. 御用タレントのトリセツ


 最後に、ちょっとハイレベルな戦いをやってみましょう。


 御用タレントは、安倍官邸、自民党の一部、財界、維新などの御用タレントです。

 電通や放送局(NHK含む)、アメリカのいわゆるジャパンハンドラーなども繋がっているため、その構造は研究を要するものです。

 ですが、やっていることは古典的なペテンであって単純です。


 第一に、肩書のトリックを使うことが多いです。

 御用タレントは「○○博士」「XX大学卒」「○○学者」などという肩書きで出てきます。
 そこで、カメラの前で、わけわからないこと長々と並べるわけです。
 ツイッターなどもダラダラと読解不能のことを書きます。
 その中に突然英単語を混ぜて権威を増すことなども、詐欺師の常套手段です。

 僕なんかは野球のことはわからないので、
 「そこは、野球のシンギュラリティというのは、もうすでに起こっている、そういう認識なんですね。だから阪神の中でも、打順ひとつとっても新しいやり方になってる。19年のドジャースのマ3-3-6のマトリックスで出した打率、えー、これは個別の打率ですね、3.32を超えてるんです。3.32ですよ? 形式知の集合体がチームなんです。ですが阪神には、そこはエクィティですから、肩書ばかりの守旧派みたいなひとがチームには残ってて。頭の固い人たちですから、まだ昔の方法で算出してる(笑)。だからコアコンピータンスの限界収穫、これがおこっちゃった。安倍さんはそこを改革しようとした
 と言われたら、正誤の判断能力がありません。

 視聴者は「どういうことなの?」と感じるわけですが、御用タレントには○○学者、教授、博士、東大卒、オックスフォード、といった肩書きがあるわけです。
 そこで、「この人、すっごい高度なことを言ってる……」と思ってしまいます。

 結論やムードだけは極めて単純で、子どもでもわかるようになっています。
 結論はほぼ常に「安倍さんは正しい、野党はダメ」です。それ以外は稀です。
 そこでお茶の間の視聴者は、「なんかよくわかんないけど、安倍さんが正しいんだな」と印象付けられてしまうのです。


 今ガサ入れで話題になっている美人国際政治学者のMさんは、国際政治学の研究実績はほぼなく、学識を基準に出演者を選ぶならば、別の人物が山ほどいるはずです。
 彼女は自民党の論文大会に、僕の友達でも書けそうなヨイショ入りの感想文論文を出して賞を取っています。『政権与党から論文賞をもらった』という肩書がついたわけです。そして政府の有識者会議?のポストも持っています。自衛隊で講演もしてたんじゃないかな。彼女の弁護士は、統一教会の弁護士と同じ方だそうです。


 個人的にちょっと疑っている線があるのですが、成田さんが出てきたのは、急にでしたよね。

 これ、御用タレントを使う幕府のほうでは、Mさんのガサ入れがわかっているわけですから、世代交代に白羽の矢を立てたんじゃないですかね?

 巷では、「安倍さんが亡くなったおかげで捜査が入るようになった」と言われています。
 ですが、Mさんの夫の会社は太陽光発電の利権の会社でした。
 Mさんのガサ入れの背後には、原発ムラの力がある可能性が疑われるわけです。
 Mさんは太陽光を支持する発言をしていたそうですから、目障りにはなっていたでしょう。そこからのガサ入れ、さらに後釜としての成田さんという所は、完全に憶測なんですが。

 こうなると、成田さんの質や真意にも疑惑が浮かびます。
 ガサ入れが検察が動けるようになって正しく発動されたのなら、幕府のほうも「Mはやべーだろ! 次はもうすこしまともなヤツを」と考えるはずです。だったら成田さんは良識派で、今回のは事故です。

 いくらMさんの関係の会社でも、太陽光でああいう中韓搾取や事故は起こりません。原発利権よりは狂気の度合いが少ないでしょう。Mさんの狂気には限度がありました。
 成田さんの突然のブレイクが、もしも原発ムラの案件ならば、幕府のほうは「Mよりもっと原発利権に寄ったヤツを」と考えます。するとMさんよりさらにやべーやつとして、成田さんを呼んできたという疑惑が浮かぶわけです。
 となれば、彼の本心は、原発的なディストピア主義者かもしれません――人間は科学と産業のための道具と捉えているおそれがあります。


 実際のところ成田さんは、ナチズムやファシズムの思想を持った人物ではないようです。いわゆるネオ・リベラリスト、リバタリアンに近い考え方のようで、差別主義や排外主義といった面は見られませんでした。
 彼の発言の中では「高齢者の集団自決」は浮いています。乙武洋匡さんへの、第三者が聞けば暴言となりうる発言なども、単体では十分ヤバいですが、口が悪い、冗談がすぎる、非常識といった面は、、尖った人物にはしばしば見られることです。ああいう発言は、彼の考え方の体系に乗ったものではないでしょう。


 ですが、御用タレントが自由を詐称することにも問題の核心があるのです。


 ちょっと難しい話になります。
 専門家も騙されていることがままあり、僕は自由の思想・哲学や人権・憲法にはおそらく数万時間を割いていますが、分析できたのは最近です。

 御用タレントの手口に、リベラルを自称するというものがあります。

 これは御用タレントを2種類に分けたうちの1種類に該当する感じです。もう一種は超国家主義者です。ここ数年はリベラルを自称するタイプが流行りです。

 自由を称するとはいえ、当然、彼らは安倍一味の側で、民主主義の敵であることは言うまでもありません。その実はリベラルではなく、ネオリベ、リバタリアンなのです。

 種明かしをしていきましょう。


 いわゆる人権には、自由権と社会権という分類があります。

 自由権は最初に明言された人権で、「国家権力からの自由」です。
 18世紀には、自由国家的な人権宣言が出されました。特高警察みたいなもんはダメ。国はできるだけ個人に干渉しません。自由国家だから「リベラル」なわけです。

 しかし、次の19世紀は産業革命の時代です。
 経済社会が進展すると、企業などの私設の共同体が強くなって、個人の人権を圧迫して、貧困や奴隷状態に追いこんだりするようになったのです。

 そこで、私権力から人権を守るために出てきたのが社会権です。
 社会権は自由権に追加されて明言された人権で、「国家による自由」です。
 1919年のワイマール憲法以降は、社会権をも保障する社会国家的な人権宣言となりました。 だれもが「人間に値する生活」を送れるよう、国家が積極的に動くようにする権利です。

 安倍一味にもいくつかの派閥がありますが、一つは国家権力を拡大し、国民の自由権を侵害しようとする「大日本帝国政府復刻型」です。
 もう一つは、自由権のみを拡大することで、私企業が一般国民を好きに使えるように社会権を侵害しようとするタイプ。「大日本帝国経済復刻型」とでもいいましょうか。こちらは政治的には、私企業を介して国民を支配する考え方に統合されています。日本国は企業を思うようにはできませんが、たとえば労働条件の悪化により軍隊に行くしかない状況を作る経済徴兵などで、一般国民を思うようにできます。
 両派は、一般有権者の支配を共通目的とし、親和性があるわけです。「大日本帝国政府復刻型」がナチスに近いのはもちろん、「民族」を「企業」に書きかえたものが「大日本帝国経済復刻型」と考えると、こちらもだいたいナチスです。

 現代では、自由権と社会権の関係は、経済政策にリンクしています。
 自由権と社会権とは、前提とする国家観がちがうわけです。自由国家では民営化をすすめ、格差を放置することになるので富裕層は儲かります。政策は労働者を保護する規制などを撤廃しようとするもので、小泉・竹中政権の新自由主義がこれです。Mさんや成田さんはこっちに近いです。
 超国家主義者のほうは、アベノミクスです。国家は経済に積極的に介入して、権力層の富裕化と一般国民の貧困化に動くわけです。円安株高による格差拡大は主砲です。
 これらは、富裕層=国家となることで、手を組むことができます。
 これが安倍政権の権力構造であり、彼らの勢力を構成している原理です。

 社会権が拡大しすぎると、国家による個人への支配力が過大になり、自由権が侵害され、ソ連や北朝鮮のような警察国家へと転落します。これは事実です。
 ですが、社会権は食べ物のようなもので、食べ過ぎても死ぬし、足りなくても死にます
 この構造の複雑さを濫用し、社会権を不当に攻撃して、個人を私企業の奴隷にしていくというのが、「大日本帝国経済復刻型」の勢力の手口、レッテル貼りです。そこで社会権をキープしようとして何かをいうと「日本をソ連にしたい左翼」とペタリ。
 これに天皇制・神道中心国家を掲げる国家主義者も利害が同じなので、乗るわけです。反共カルトも同じようなことを言って、社会権の侵害を試みます。

 こうしてネオリベ型の御用タレントは、とくに社会権の侵害を試みます。彼らが私企業の権利制限を語ることは、まずありません。
 バックが誰かといえば、私的権力の保持者ということになります。そのポジショントーク「国家を弱めることで私的権力を自由にし、支配される側の社会権をはく奪するべきだ」を、宣伝主を隠して、中立のふりをして繰り返すわけです。ナチのテクニックですね。

 とかく御用タレントは、べらべらべらべらべら、企業に任せて。市場に任せて。安倍さんが正しい。こうです。右翼と親和する場合は、「日本人は優しい」「賢い」といったペテンが使われます。だから企業に任せて。市場に任せて。安倍さんが正しい。

 “リベラル”のブランドを略取する方法は、18世紀の「小さな不干渉政府」を現代的な民主国家とすり替え、「国家からの自由」だけを権利として主張するペテンといえます。
 たいへん巧妙な乗っ取りで、一見自由主義者に見えなくもなく、有識者がそれに騙されている光景も見かけます。
 御用タレントは「有権者をプロパガンダで騙し、『日本国にブラック企業を止めさせよう』などと露ほども思わぬように誘導するための有害な役者」というのが、僕の見方です。
 裏を返せば、一般有権者が生き残る道は、「日本国を活かし、暴威をふるう私権力を調整させて己の社会権を守る」道だけです。
 
 この“自由主義”が彼らの積極的に心底共鳴する思想なのか、政権筋・財界筋の依頼でやっているビジネスなのか、権利という意識が欠如したまま知らず知らずにやっているのかはわかりません。とくに顔を合わせて陰謀を練っているわけではないでしょう――この手の人々は数が多く、陰謀などせずとも同志がそこらじゅうにいます。

 より重要なことは、日本人一般に、社会権の概念が欠けているか、薄いということです。これではナチズムに勝てません。
 本当のリベラルは「自由権と社会権の両方を最大限に守る方法」を模索します。「国家からの自由、私的権力からの自由の両方」を追求します。
 彼らがリベラルでないことは、一般に理解されるべきです。


 最後に、高齢者の方は、自決などは考えないでくださいね。

 そんな暇があったら、経験を思い出して、今の腐敗を何とかしてください

 マジのガチの本当に、穏健さ、慎重さ、重厚さが欠けているのが今の世の中です。
 これらは年齢で獲得できるものではないですか?

 寛大な心で、われわれ若輩どもを許し、暖かく再建への道へと導いていただきたいものです。
 

 我々も、いずれ高齢者になったら、若い世代から馬鹿なことを言われるでしょう。そのときには寛大かつ冷静に諭せるようになっていたいものです。また、高齢で苦しんだり、こういう言説に悩む高齢者の方の身近におられる若い方には、ぜひとも励ましてあげていただきたいものです。



註1
 ニューヨーク・タイムズの記事の見出しのひとつ「A not-so-modest mass suicideproposal(それほど穏健ではない集団自殺の提案)」は、スウィフトの『穏健なる提案( Modest Proposal 』)を下地にしていると思われます。

 スウィフトは『ガリバー旅行記』の作者。
 彼は、育児費用にあえぐ貧民の子供たちが、親や国家の負担とならず、逆に有益な存在になるための穏健策として、「1歳になったら富裕層が食べればいい」と提案。

 本心はもちろん、格差を皮肉ったのです。『ガリバー』では小人の国やラピュタが有名ですが、原作は政治や社会の風刺です。

 金持は、貧乏人の労働の、ただ美味い汁だけを吸っているわけであるが、数から言えばそれは貧者のわずかに千分の一にすぎないという有様である。結局大多数の人間というものは、ごく少数の者を裕福にしてやるために、毎日毎日安い賃金で働いて、しかもみじめな暮しをしなければならないのだ。
 (『ガリバー旅行記』岩波文庫p329)


註2
 真犯人隠しは、この言説がファシズムであると判定できる理由の一つです。
 ハンナ・アレントや丸山真男の有名な理論に、ファシズムは革命の力を権力者が操って他国にそらしたものだという発見があります。

 一般に認められた基準の一切を公然とシニカルに斥ける悪趣味ぶりには、最悪のことをはっきり認める覚悟と、あらゆる気取りに対する侮蔑とが示されていたが、この覚悟とこの侮蔑はえてして新しい勇気や新しい生活態度と誤解されがちだった。

 (ハンナ・アレント『全体主義の起源――3全体主義』 p52)

 残虐や非人間性や非道徳性の一種の誇示は革命的に見えた。
 (p53)


註3 
 高齢化や日本経済の問題の解決を功利主義でやるならば、人口の1%ほどの富裕層の集団自決をしたほうが、人口の2割、3割となる高齢者の集団自決よりも「最大多数の最大幸福」がもたらされることになります。

 ベンサムはもちろん「一人をイジメれば、クラスの大多数が幸福」などと言いたいわけではありません。ベンサムの弟子のミルが他人の幸福と自分の幸福の同一性という条件をつけるなどして、論理的欠陥を修正し、それが民主主義のコンセンサスになったのです。これはときに「最小不幸」とされたりしますが、目指すところはみな「平穏な協力社会」です。

 ですが「最大多数の最大幸福」の言葉はわかりやすいので独り歩きして、頻繁に誤用され、排除の根拠に濫用されることもしばしば見られます。ネットでは「高齢者の集団自決は最適解!」の支柱の多くがこの濫用です。


註4
 『海ゆかば』は大伴家持を掘りだしてきたものです。国のために戦って死んだ骸が美しいという詩です。大伴氏は軍事を担当した大豪族で、報酬も大きかったのでしょう。
 軍歌などの戦前の民心操作のテクニックや靖国信仰の件からすると、次のステップは自決者の英雄視とまでは行かなくても、高齢者の財産放棄や重税化、医療費削減の当然化、美化です。次世代の御用タレントがいつものペテンでそのお手伝いをするでしょう。


註5
 ホッブズ社会契約論では、もともと人間が暮らしていた自然状態をバトル・ロワイヤル状態としました。そこでは「人を殺してはいけません」というルールもなくて、万人が殺し合いに陥っています。
 ホッブズはこれではヤバいので、みんなは「お互いに殺すのをやめよう、今日から殺人はアウトだからw」として生き延びたと(論理形式的に)考えました。

 ホッブズ論によれば、現在の日本の高齢者には、成田さんやその支持者に生きてもらう理由がありません。笑いながら自分を殺しに来る相手なので、「そっちこそ集団自決してくれたほうがわしらにはベターじゃよ」ということになります。

 この地獄の背景は、自然状態の人間をアメリカ先住民に求めたことから来ているようです。偏見だったと言っていいでしょう。17世紀のイギリスは絶賛侵略中。そのポジションからアメリカ先住民は悪役とされ、おそらくホッブズも「インディアンは白人を襲って頭の皮をはぐ」といったデマを得ていました。
 18世紀のルソーはより正確な情報を持っていました。イギリスのアメリカ進出を邪魔したフランスで活動していたのです。アメリカ先住民を正しく認識しており、性善説的に人類社会をとらえ、文明社会のほうを批判した社会契約論を構築しました。

 とはいえホッブズの論が上書きされたわけではありません。ロックなども併せて、これらは止揚(いいとこどり)されたのです。ホッブズ論はたとえば、正当防衛の概念の元ネタになっています。
 人間は普通、自分の命を守ろうとします。彼にとって一番大事なものとして周囲が確実に担保できるものは彼自身の命です。「命を狙われる場合、彼が攻撃者を殺すことを止める代替品を誰も用意できない」という事象が自然のルールとして認められたのです。
 いずれの社会契約論にとっても、「集団自決」と言われた側には、言った側と共同体を構成する理由がありません。もちろん「おいおい、考え直してくれよ」と言うべきなのですが、「こいつらを先に集団自決させなくちゃ」と考えることを止められる有力な代替品はありません。

 そこでこうした意見は大変危険で、社会の解体と同義になります。
 社会なき世界は、ホッブズは地獄になると言っていますが、ルソーは自然人として平和に暮らせると言います。今回の件はニュートラルで平和的な解体ではなく、「集団自決」という攻撃的なトリガーと反撃によるものなので、僕は大変危険だとしているわけです。

 ホッブズの論に従うならば、国民のうちのあるカテゴリの集団自死を促すことは、社会の崩壊と治安悪化の扇動です。一方で『知る権利』には大して該当しません。憲法「公共の福祉」に違反し、人権の優先度からも報道が規制されるべきです。
 これは自殺のほう助だとか決行を煽る問題、または動乱の扇動といった刑法上の問題とは別で、政治的意見の自由の問題や、個人の意見の自由(内心の自由)の文脈でもなく、メディア(表現の自由)の問題です。またこの規制は「黙らせる」ではなく、反対意見の論者も出すといった中立性を求めるものであるべきで、またコメディやジョーク番組などは除き、報道や時事をテーマにした番組に限定すべきと考えられます。
 タレントA「高齢者の集団自決w」
 タレントB「アハハw」
 これでは視聴者の多くが「高齢者の集団自決w」or「おまえこそ死ね!」と考えるのは統計でも理屈でも確認できるでしょう。なお、関西人はどついてツッコミを入れるので社会性が高いです。


註6
 「中学生」の認識は、自分が中学生のときの記憶や映画やマンガなどのコンテンツが基準になるため、地域の差や趣味の差、個人の差が大きいです。ネットスラングに「厨房」といった偏見はわりと共通しているように思いますが、僕の認識も似たようなものです。ですが中学生の頭の回転、記憶力などは全世代最強で、まだ飼いならされておらず、自由な発想もしやすいのです。
 今回の「高齢者の集団自決」は、この自由さをヤバい方に持っていく典型です。

 僕が中学生のときは、馬鹿のなかでも比較的馬鹿でした。ミミズとカエルウオの間くらいの力ですかね……。
 計算は学年最速レベルで、「さば哲学」と冷やかされるくらいに物識りでしたが、思考力や認識力や言語センスは低かったので、間違っている単純な行動を高速で実現できるタイプでした――悪口を連発できるとか。攻撃的、相対主義、他罰的で、かなりたちが悪かったように思います。なお、つねにイキる隙を探していたため、痛さも兼ね備えていました。
 「ネットがなくて本当によかった」
 と毎日思いますよ、今は。

 日本人が中学生を飼いならしてきたのは衰退の主要因でした。倫理や社会の問題についても自身で考えるように誘導せねばなりません。これは先進国でこの問題がいきなり大事件になることができた理由なのです。


註6
 カント定言命法。『道徳形而上学原論』(岩波文庫版p80~120あたり)より。
 哲学的に論が構築され、「人間は人間を常に目的側に置かねばならず、手段にしてはいけない」と出力されています。
 このくだりはルソーの思想を理論化したものといえます。


註7
 ナチス理論によれば、世界は個人主義者の考えるように「万人の万人に対する闘争」でもなければ、またマルクスのいった階級と階級の闘争でもない。実に民族と民族の闘争なのである。
 さらにまた、かれらの史観によれば、神は民族を創り給い、最も優秀なる民族を地上に残さんがために不断の闘争をなさしめ給うのである。したがって民族こそは人類生活の自然的な、かつまた基本的な単位であり、個人も階級も民族という大きな生活体の構成部分にすぎないものであるという。しかるに世界史は個人解放の時代を経て、いまや新しき社会的時代に入らんとしつつある。
(芦田均『第二次世界大戦外交史』 岩波下巻 p111)

 すこし開けて、

 血の共同体政策としては血の純潔、保健政策、家庭保護政策、結婚政策、断種政策、多産政策等が講ぜられ、物質または経済共同体政策としては、新しき労働秩序法、経済団体法、労働奉仕法、農地法、労働組合法、労働配置法、手工業保護法等々として具現され、社会生活と経済生活の一体化、したがってまた、社会政策と経済政策の一体化が論ぜられていた。

 ナチスは民族の理想的な生存のための手段として、第三帝国を作ろうとしたのです。国家主義ではなく民族主義です。

 あたかも近代精神が人間個人を中心としたのに対して、これは民族共同体が中心であり、近代「個人」主義に対する民族「全体」主義の主張である。けだし、近世自由主義ないし民主主義とさらにはマルクス的社会主義に対抗してナチスの依拠する根本原理であるとともに、個人主義の系をなす単なる世界主義ないし国際主義に拮抗して彼らの戦う基本理念である。彼らにとっては、人間は個々に独立して世界または宇宙にあるのではなく、もともと共同体的存在者として同胞民族に本源的に結びつく。民族が唯一の現実的にして包括的な、それみずから完結した生の有機体であって、民族においての根本衝動と体験との共同のうちに、真の全体的共同体の理念が育成せられると見る。それ故に、個々の人格でなく、民族こそが生の根本形態であって、およそ世界観と諸科学はこの認識の上に出発すべく、かようにして生の維持と向上とを最高度の完結にまでもたらすことが新しい世界観の使命でなければならない。
 (南原繁『国家と宗教』 岩波p254)


註8
 ダーウィンの援用されたであろう部分です。

 どの生物種でも、生き残れる以上の数の子どもが生まれてくる。しかもその結果として、生存闘争が繰り返し起こる。こうした状況下では、自分自身の生存にとって少しでも利益となるような変異をそなえた個体は、たとえそれがいかに小さな変異であっても、複雑で変化しやすい環境下において生き残る可能性が高くなるはずであり、自然によって選抜されることになる。遺伝という強固な原理により、どんなものであれ選抜された変異は、変化した新しい種類を広めるうえで役立つことになる。
 (『種の起源』光文社版p21)

 同じニワトリでも、闘争心の強いシャモと、闘争心の弱い品種、卵を決して抱こうとはせずに生み続ける品種、小型で優雅なバンタムなどを比較した場合はどうか。食用ないし観賞用で用途も季節も異なる野菜、作物、果樹、花卉などのさまざまな栽培品種を比べると、それらは単一に一回の変異だけで出現したとは思えないはずである。すなわち、すべての品種が、今われわれが目にしているような完全なもの、有用なものとして突然に生じたとは思えないのだ。それを証明する例はいくつもある。そうした品種の歴史を理解する鍵は、選抜を蓄積できる人間の能力にある。自然は変異を継起させるだけで、人間がそれを自分の都合のよい方向へと積み上げるのだ。この意味で、人間は自分のために有用な品種を作り出していると言ってよい。
 (p64)

 種の生存闘争を、血統主義における民族間の闘争とし、民族の血の改良として殺戮を偉大な目的と考えたわけです。
 ダーウィンにはヤバめの思想が散見されます。


註9
 A国はもちろん日本です。B国は、たとえば戦後のドイツです。
 2022年、日本とドイツの経済力が並びました。総計です。90年代には、総計でも一人当たりでも、日本のほうがドイツよりもお金持ちでした。ドイツの人口は8000万人です。日本は1億2000万人。日本経済は停滞していますから、ドイツはこの30年で、1.5倍以上豊かになったのです。

 そしてドイツ人が持っている複数の国家のなかで、一番貧しいのがこのドイツです。
 オーストリア、スイス、リヒテンシュタインはさらに富裕です。ドイツ人は、中立国、君主国、共産国、資本主義国を同時に維持してきました。ナチのときすら多様性を失わず、復興が早かったのです。民主主義はスイスに保存されていましたし、冷戦で東側が勝ったとしても東を西にコピペすればよかったのです。
 そしてその貧しいドイツの中でも、たくさんの州や中都市が対等に栄え、国土を上手に使っています。生活していると、駅前の自転車が問題になれば、それが解決されるのです。こうした問題が日本で解決されることは稀です。政治能力が桁違いなのです。

 日本は、一国主義どころか、東京一極で、過密・過疎いずれかにあえいで出口がありません。老人は負担だから自決しろ、生産性の悪い非正規は黙ってろ、障碍者は出てくるな、女は、外国人は……。負のループです。

 食文化や衛生観念など、日本のほうが進んでいる面もありますが、社会面では大きな差があります。


註10
 安倍さんが野党議員(小西議員だったかな?)に「法学部出てるならアシベ知ってるよね?」と質問されて、「誰それ?」となって少し話題になった芦部『憲法』。
 安倍さんを弁護しておくと、安倍さんの世代では宮沢俊義のはずですから知らなくても無理はありません。とはいえ芦部『憲法』はスタンダードとされるテキストです。3冊のものと1冊のものがあり、以下の引用は後者からです。

 (1919年のワイマール憲法は)
 財産権がもはや不可侵の権利ではなく、社会的に拘束を負ったものであることを宣言している。それ以降、世界各国の憲法は、公正な配分に重きを置く実質的な平等主義に基づいて、多かれ少なかれ、社会権(生存権、教育を受ける権利、勤労の権利、労働基本権など)の保障をとりいれ、社会国家として国民の福祉の向上に努める義務を国家に課すようになっている。
 (p78)

 社会権は、資本主義の高度化にともなって生じた失業・貧困・労働条件の悪化などの弊害から、社会的・経済的弱者を守るために保障されるに至った二〇世紀的な人権である。それは「国家による自由」とも言われ、社会的・経済的弱者が「人間に値する生活」を営むことができるように、国家の積極的な配慮を求めることのできる権利である。
 (p84)

 第二は、自由権と社会権との関係をどのように理解するかという問題である。自由権は、国家の干渉を否定する自由国家・消極国家の思想を基礎とする、国家に対する不作為請求権であるのに対して、社会権は、国家の関与を広く認める社会国家・積極国家の思想を前提として、国家の積極的な作為を請求する権利(ただし具体的な請求権ではない)であるから、自由権と社会権とは、その前提とする国家観および法的性質を異にする。
 もっとも、社会権およびその基礎にある社会国家の思想を過大に重視すると、人権の分類が相対的であるだけに、自由権の領域にまで国家が介入することを認める結果になるおそれが生じる。そこで、個人の人格的自立を第一に考えるならば、現代においてもなお、「国家からの自由」の思想が基本とされなければならない。
 (p85)

 

 ①公共の福祉とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である。②この意味での公共の福祉は、憲法規定にかかわらずすべての人権に論理必然的に内在している。③この原理は、自由権を各人に公平に保障するための制約を根拠づける場合には、必要最小限度の規制のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保障するために自由権の規制を根拠づける場合には、必要な限度の規制を認めるもの(社会国家的公共の福祉)としてはたらく。

 整理しておきますと、

 ① 個人 > 公権力 > 私権力     民主主義国家

 ② 公権力 > 私権力 > 個人     大日本帝国、ナチスドイツ

 ③ 私権力 > 公権力 > 個人     現代のアメリカや日本、民族を私権力とみなせばナチスも

 ④ 公権力 > 個人 > 私権力     ソ連


 リベラルを称する御用タレント・御用学者は、③私権力専制を理想とし、①民主主義とのすり替えをします。そこで、ときに日本をアメリカ型の格差社会にしようとしているようにも見えますし、ナチスに通じるように見える時もあり、大日本帝国の復古をしているように見える時もあります。さらに②国家主義タイプの御用タレントと混同され「ビジネス右翼」とされることもあります。

 事実、②国家専制と③私権力専制の実態はあいまいです。
 安倍政権は本流は②国家主義です。神道や家庭支配による祭政一致、精神支配などを考えていますが、ネオリベは傍流でこれを望んではいません。ですが本流も、自分が国家の奴隷になるつもりは毛頭なく、②国家主義国家を作りながら、自分の私権力が公権力を乗っ取って錦の旗をつかうことで、実質は③私権力の専制にする構図です。
統一教会も世襲貴族も私権力です。企業も私権力ですから、安倍の旗のもとに②と③は同化しやすかったのです。すこし条件を緩くすれば、自民党があつまる力学の一つがこれといえるでしょう。
 腐敗していたソ連にも③私権力専制の面がなくはありませんが、貴族世襲制ではなく財界も弱かったため④の要素が強いです。ハンナ・アレントは国家権力以外の中間的権力勢力を潰すのが全体主義の手段と指摘しています。④は左翼的で、御用タレントでこれに誘導する人はたぶんいません。

 上げなかった構造
 ⑤ 個人 > 私権力 > 公権力  
 は、イギリス、またアメリカにこの面があります。個人主義で市場主義、企業が強くて小さな政府の面があるからです。

 ⑥ 私権力 > 個人 > 公権力
 これは無政府状態に近いです。例が思い浮かびません。この構造だと治安、武力や防衛力を私権力がもつことになり、そうしてできた私権力は軍閥となり、公権力化するので成立できないのではと思います。

 

 

 

 

 

 

 僕の中学の友達に、統一教会の被害者がいました。

 その話はつとに知っていたものの、原因が統一教会だったことはわりと最近知ったのです。

 被害イベントは短期間だったので、この友人を2世信者と言っていいのかどうか微妙なところですが、元2世信者という表現ならば当てはまるでしょう。

 僕らが中学生だった頃に、この友人の
お母さんが、学校や近所を騒がせる事件に巻きこまれました。テレビはわかりませんが新聞の地域欄には載ったはずです。新聞を読まずとも近隣のひとたちは全員知っていました。知らずに過ごすことは不可能でした。事件の跡の光景は今も覚えています。

 学校などからは、その事件の原因は、この友人のお母さんのノイローゼやらストレスやらだと説明を受けていたのですが、大人になってから友人から直接聞くには、どうやら話はその一件だけではなく、なかなかファンキーなお母さんで、「お前よく生存できたな」という話のオンパレード。


 友人は幼少のときから家庭から逃げながら暮らし、中学の時には、近くのビルの陰(要するにほとんど外)の仮住まいで過ごした日々もあったそうです。


 現在この友人はカルトの被害は受けていません。僕もこの話は中途半端に採取してから10年ほど忘れていました。子供のときの苦労話は、旧友間では武勇伝の棚に収められるネタです。今でこそほとんど笑い話ですが、それでも友人にとってはお母さんとの関係が一般的なものではないということは現役の事情にちがいなく、また単体だと凄惨な話に転がりかねないことには違いなく、今もそういう問題がふりかかる子供らがどこかにいるはずなので、一種のブラックな笑いになります。とはいいながらも、一転して仲間の武勇伝の背景となると、その主役がくぐりぬけたトラブルが大きいほどに引き立つものです。武勇伝は何度聞いても面白い話という類のひとつです。

 たまたま先日、この友人と会った時に、何かの流れから、そういや昔色々あったみたいだけど、統一教会は大丈夫だったの? と聞いたわけです。

 統一教会は「抜けられない」という印象ですから、これは字義通りの質問ではありません。代名詞として、その手のカルトとかにはハマらなかったの? というような意味です。
 引っかからなかったのか、勧誘が来なかったのか、他のカルトにハマっていなかったのか、まあ話が広がれば、と船を出したわけです。


 ところが帰って来た答えが、

 「いやいや、統一教会。まさに統一教会にハマってた時」

 というのでおどろきました。
 事件の前には、
冷蔵庫にメッコールや高麗人参が増えはじめていたといいます。

 この友人のほうは猛者ですから、その章はほかの章に比べれば大したことない、という感じで話していました。
 聞くと、お母さんは
数々の新興宗教にハマっていたのです。友人は物心つかぬころから変なダンスをする会などに……。

 

  こういう人はときどきいて、今読んでいるドイツ語の復習用の推理もの(現地の友人が書いたもの)にも、何でも信じやすい人物が、トラブルの渦中の人として出てきています。実在のモデルがいて、話に「占いの結果によると」と添えられるだけで、自分の運命の人はこの人、宿命の地はここだ、奇跡のめぐりあわせ、などと信じて、それで行動力を得て突っ走ってしまうのです。

 で、怪しい連中というのはこの手の人びとを、どこにいようと的確に嗅ぎつけるのです。また、この手の人びとは、わざわざ一番怪しい連中を的確に選び抜いて、近づいてしまうのです。

 向こうの話はたまたま月の女神の宗教でしたが、統一教会のムーン(文鮮明の ”文ムン” から)とは関係なく、天体の月のパワーや意思にすべての原因を求めるオカルトです。こうした類型の人々が一定数いることに洋の東西はありません。人間とはこういうものなのでしょう。
 ですがこの件はぶっとんでいました。一段上を行っていて、
怪しい連中すら去っていくために、入れ替わりで次々とイベントです。統一教会のときの事件については、それ自体は秘密でもなんでもないのですが、そこから調べると誰のことかわかってしまいかねない程度には派手なので、詳しく書けないのです。


 入信の経緯を聞くと、この友人宅の
すぐ近所に統一教会の信者がいて、それが、お母さんがご近所向けやっていたある趣味の会にまぎれて、参加者として家に入りこんできて、勧誘してしまったというのです。

 それからすぐ? 1年後くらいと言っていたかな? とにかく長い期間ではありません。しばらくして例の事件が起こり、そのままお母さんは
入院
 ところがまだ心身ともに病院から出してはいけないのに、
統一教会とは別のところで、保証人のようなインチキ臭い人が現われて、すぐに病院から出してしまったそうです。友人は法や規則の不備といったことをこぼしていました。僕は考えながらもあいづちをうちました。
 となると、再び自由になったお母さんは、
別の散財だったか暴走だったかをはじめてしまって、友人のほうは大変に困ったという話でした。で、その後もお母さんのこの性質ためにああなったこうなったという話が続くわけです。まだ僕らが中学のときの話ですから、統一教会の章は、せいぜい中盤あたりなのです。

 「え……、統一教会はもう出てこないの?」

 「すぐ逃げてったよ。ヤバいから。追ってくるわけないじゃん」

 という感じで、病院にも来ず、音沙汰なかったそうです。友人の中では統一教会は雑魚扱いでした。前後の武勇伝のほうが刺激的だから、そっちの話を聞けやといった調子です。統一教会の事件の被害規模は大きかったのですが、家族が苦しめられた期間は短いのです。そして統一教会は、数ある怪しいグループのひとつにすぎなかったわけです。

 僕は「幹部・信者」などと分けて書いていますが、この手の専制体制の団体は、上層部と一般構成員はまったく異なり、その隔たりが極めて大きいのです。もちろん上層部は打算的です。なるほど考えてみれば、さすがの統一教会も事件レベルになればスッといなくなるはずですよ。教団や信者や教団の資産に事件レベルの被害を再度出すことになったら、いくら統一教会でも割にあいません。

 このケースでは、統一教会は悪魔的な洗脳をやりすぎて失敗、自爆したわけです。怖いというか、間抜けというか……。おかげでわが友は “助かった” と言えなくもありません。もし生かさず殺さずで来られたら、今も被害が続いていたかもしれず、友人のほうも精神的なダメージを今日まで受けていたかもしれません。親が子供の職場に押しかけて金をせびってくるとか、それだけでもたまらないですからね。

 このお母さんは別のヤバい何かにハマったため、統一教の “原理” の永続的な信仰には至らなかったのです。統一教会より小規模で目立たなくとも、より強烈な
をそなえたカルト団体があるというわけです。つまり “幸い、統一教会にはハマらなかった” というわけではなかったのです。
 友人の話の時間配分や温度からするに、統一教会は、怪しい連中から受けた総被害のうちの数パーセントといったところなのでしょう。


 ・統一教会が逃げ出していくようなケースもある。

 ・統一教会が雑魚に見えるほど怪しい集団すら山ほどある。


 これらの点は、われわれがこの問題を乗り越えるために必要な認識です。

 日本人らしい「個人として被害に遭わないため」ではなく、先進国のように、カルトと亡国の観点からです。

 

 この問題を「個人として被害に遭わない」の総計で解決することはできません。これではカルトの手口を高度化させたり、被害者のイスを他人に押しつけるだけです。社会問題というのはすべてそうです。



 第一に、みんな世の中を高く評価しすぎなのです。


 現実を見れば、世の中には、「統一教会のほうがまし」というヤバいもん普通に身のまわりにあるわけです。

 それらはカルトからではなく、世の中一般から発生するのです。

 過労死を出すような職場はそれです。被害者にとってのイジメのある環境もそれです。

 人格、考えてきたこと、考える事、過去、独創性、個性、すべてを否定する単純労働に長時間拘束される人間疎外などもヤバいです。

 孤独のまま死んでいくのが見えている人生。

 同調圧力、監視と炎上、メディア、教育が枠組みをつくる自己規定

 ルッキズム知能主義といった価値観の一次元性より、嘲笑されることが永続することがだいたい見えてしまっている人生。

 どんどんこんなものが増えている。

 これらのヤバいもんには狂気か死しかありません。人間はパンのみでは生きられません。

 だから「死ぬな。狂え」というわけです。

 

 これらの絶望のイスは、数が用意されています。合言葉はなんの進歩もなく「がんばれ」「努力しろ」ですが、誰かがイジメや貧困を個人的に克服しても、別の人間がそのイスに据えられるだけです。そしてそれを直そうとする人は稀有で、みなはますます努力を注入して闘争を激化させていき、ますます狂っていく。絶望は増加する一方です。絶望は増加中なのです。

 みんな、自分がそういう絶望の環境に置かれたり、他の人間たちにそこに放り込まれる危機を感じれば、救いを求めるわけです。価値観を根底的に変えてくれそうだっり、立場や役目や生き甲斐をくれたり、永続的で親しいコミュニケーションの機会をくれそうな声がかかれば、振り向くでしょう。カルトに入ったり、犯罪に一か八かをかけるほうがましだと、追い込まれていくという条件が、日本社会にはごっつごっつに備わっているのです。

 

 そして、そんな世の中に暮らす人生一億のうちには、現代人がメディアに植えつけられているよりもはるかに多様な、色々な人生があるのです。

 極端な話、“ふつうの社会” に暮らしながら死を選ぶ人は、カルトに入ったほうがましでしょう。

 「刑務所のほうがシャバより待遇がいい」ならば、犯罪は増えるでしょう。
 

 カルトを選ぶ未来像 > カルト以外を選ぶ未来像 をもつ人の数だけ、カルトは栄えます。


 ある若者がいるとします。大人は、「彼が反社を選ぶよりも充実した人生を、われわれは用意できているか?」と自問自答する必要があります。若者は、「親ガチャを外したら、ずっと底辺として、人間でなくてもできるような単純労働を毎日やって、嘲笑されつづけるだけだ。すべて自己責任とされ、誰も自分のことは見てくれない」と知っているから、危険な賭けに出るのです。ナチスのように、このエネルギーを外国やマイノリティーへの憎悪にそらすとか、国民同士で分断して戦うように煽動するとかはもってのほかです。


 ガチャを当てても世の中に疑問を持つ人は大勢います。すこし考えれば一般的日本社会がヤバいことはわかります。オウムは彼らを吸収して、その能力でサリンまで製造したわけです。

 90年代、大学では原理研究会が猛威を奮っていました

 それに対して大人、たとえばメディアや大学側は

 「カルトに注意!」

 の警句は山ほど出しました。

 ですが、

 「学生がカルトに入らないように、カルトじゃない大学生活を有意義なものにしよう!」

 という話は一度も聞いたことがありませんでした。

 この30年、カルトが栄えつづけてきた理由の一つはこれなんです。

 犯罪に関しても、日本人は

 

 「厳罰を! 刑務所は甘すぎる!」

 

 というばかりです。
 

 「刑務所の外の生活をよくしよう」

 

 という人は、わりとまじで自分以外には見たことがありません。
 もうなんというか、この発想が全てダメなんですよ。

 

 統一教会の解散は僕も賛成です。エバ国家論者と日本人の共存は不可能です。

 ですがそれは、

 

 「世の中一般よりカルトを選んだ信者を、より厳しく追いつめ、痛めつける」

 

 ではなく

 

 「カルトに入信しないほうの人生を有意義に送れるように、舞台を用意する」

 

 が本道です。

 解散というならば、元信者の救済も、少なくとも同時に語られねばなりません

 そうすれば、彼らが帰ってくる可能性も生まれるのです。

 僕からいわせれば、日本人による謎の攻撃精神で解散攻撃が先行しているから日本でカルトが流行るんですよ。

 この攻撃精神、また他罰か自罰かの2択で発狂してるんですかね?

 

 人生の有意義性を担保するには、とくに精神的生活のクオリティをカルトへの期待以上に上げていかねばなりません。

 今は、経済内戦を60年も続けているから、いすとりゲームや、カネや地位のための嘘や、単純作業、マウント合戦などで、かなりの人が精神を削られまくってヘトヘトでしょう。

 そんな中で「カルトには解散を」とわめいてばかりいるから、カルトが増えるのですよそんな攻撃的かつ短絡的な人たちと暮らしたいと、ふつうの人間は思わないから、帰ってくるわけがないんです

 小学生の僕は、国鉄民営化の前に「国鉄の労働組合がまたサボってる! おかげで会社に行けない!」と発狂しているサビ残サラリーマンたちを見て、「他人の待遇を悪くしろっていうんじゃなくて、自分の待遇をよくしろって詰め寄ればいいのに、なんで?」と思ったものです。もうほんと馬鹿じゃないかと。のちに知ったところでは、スパイト行動というそうですが。
 その結果が今の日本経済の惨状ですよ。
 サビ残とか年休未消化とか過労死とか、そこから出ようとするやつの足を引っ張るとか、
カルトはどっちだよ
 そういう意味じゃ、日本人はほとんど全員が2世信者みたいなものです。

 こうしたカルト的な思考回路は、あらゆる処理に当てられています。

 ダメなほうを選んでしまうということを考えてみましょう。クスリでも痴漢でもなんでもいいです。

 「ダメな選択」をしないようにするために、どうしよう?

 となったときに考えられる解決方法として

 「ダメな選択をするデメリット」を増やすこと

 と

 「ダメでない選択をするメリット」を増やすこと

 は等価です。

 これは宇宙の摂理です。

 

 日本人がなぜ

 「ダメな選択をするデメリット」を増やすことのほうだけに興奮しながら全力投球するかというと、その深層には、問題を他人ごとにして切り離し、自分を相対化させて、「こいつはクズ。自分は正しい方を選んだ立派な人間だ」と思おうとする心理があると思います。こうなると、悪人の悪事が巨悪であるほど自分は相対的に立派になります。「回転寿司を舐めるなんて親子ともども死に値する!」としておけば、しょーもないただの人でも、巨悪を罰する大正義になれます。色々抑圧されて、そう反応してしまうのでしょう。

 もし彼がニュートラルならば、「ダメでない選択をするメリット」を増やすことが、同時に出てくるはずです。また自分(たち)の問題として考えるならば、「ダメでない選択をするメリット」を増やすこと先に思いつくはずです。

 さて、寿司にいたずらをしない子が褒められている光景を、見たことがありますか? 実際、中高生ですでに広い視野をもって、社会性を見につけた子なんてめちゃめちゃ凄いですよね。次世代のリーダーとか、先の期待もできるでしょう。いろいろやらかしていた僕なんかは完敗です。ですが、そういう話を聞いたことはついぞありません。たぶん、自分より強い敵は邪魔なのでしょう。

 匿名のネットは、勝者になれなかった多数の人たちの本音であふれかえっています。

 やはり内戦中の日本人にとって、他の日本人は、闘争をしている敵なのです。

 だからカルトを選んだ人々に捨てられたのだと思いますよ、一般的日本社会は。

 いいことをしたら「あたりまえ。そのまま苦しんでもっと働け」

 悪いことをしたら「一生刑務所に入ってろ」

 という団体では、それに従いながらそこにいる価値はありません。


 友人の件は、主に物損ですんだ一過性のものでした。この友人氏を見る限り、このお母さんを否定しようなどとは僕はまったく思いません。結果論ではありますが、われわれの友達付き合いがあるのはこれも含めた諸々の経緯があってのことです。

 いっぽう、安倍さん暗殺のあと、元信者や2世信者の報告をたくさん見ることができますが、これらはずっとヘビーなわけです。カルトは人間ごと、人格ごとさらっていくのです。

 カルト勢力の最大のものは、大日本帝国です。安倍カルトであり、自民党の一部であり、統一教会(韓国と日本を置き換え、文鮮明・韓鶴子を天皇に置き換えた大日本帝国カルト)や神道系などの諸カルトです。国家神道や大本教から派生したりして戦後に勢力を伸ばしてきました。どれも一般信徒はカネや死をもって権威に奉仕するわけです。上の内戦の実現や、その敗者の憎悪を外国やさらなる弱者に向ける煽動もつづけられています。丸山真男の論旨は、ファシズムは革命の方向性をずらしたものだというものでした。

 『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』 鈴木エイトによると、22年6月、統一教会のイベントにウン十人という自民党議員が参加。
 それについて自民党は、関与に組織性はなく、
個々の議員が勝手にやっているものと主張したとあります。これは統一教会の霊感商法の言い逃れと同じで、あれもいつも信者が個人で勝手にやっているものです。

 大日本帝国の兵士の特攻も “自主的” でしたね。これで、組織的大量殺人をやったかなりの権力者が不問にされました。

 信者の間でシック(信者)とされている国会議員がいますが、『汚染』では、
政治家、自民党自体が統一教会のマインドコントロール下にあり、 “統一教会は問題ない団体である” と、本気で考えていたこともありうるというのです。

 この疑惑はそれなりに濃いです。

 自民党と統一教会はともに祭政一致です。
 祭祀=まつりごと=政治
 というわけです。
 両団体は、大日本帝国の家庭支配ファシズムの復古を狙う同志ですから、お互いにとって祭政一致は大正義です。

 そこで、自民党としては統一教会のことを

 「霊感商法で-1点。だが正義の反共思想で+1点。すばらしい家族国家思想で+1点。だから統一教会は+1点。いいところの方が多い団体だ」

 くらいに思っているのは妥当だと思われます。
 まあ、統一教会と自民党には、思うとか思う以前の、既存の権力構造としての一体性があるわけですが。安倍さんの発言やスローガンなんかにも統一教会がよく表れています。


 “保守”を名のる国家主義者の政治家がたびたび挙げるものに
バークがあります。

 実際には、右翼政治家の大半はゴロツキみたいなもので、古典などには縁がなく主著を読んですらいないでしょう。バークは昔のイギリスのそれっぽい権威なので、その名前をつかって情報弱者を騙して自分をリスペクトさせている手口です。

 とはいえ、上のほうの人々は秘書や官僚に読ませて説明を受けるとか、もしくは流し読みくらいはしているはずです。または要約を読んだり聞いたりはしているでしょうから、バークの思想が自民党の考えにかなり近いのは事実でしょう。

 実際に読んでみると、バークはわりととんでもないことを書いています。

 バークにとって、下層の国民は、黙らせるべき「豚」です。

 「よくこんなものがモデルだとか公言できるな」

 というのが僕の感想です。
 統一教会との一体性にも、このバークの思想が一役買っている可能性があります。

 バークは国家と宗教についてどう考えていたでしょうか。
 『フランス革命の省察』に、『国家の聖化』という章があります。

 国家宗教制度による国家の聖化は、自由な市民たちに、健全な畏怖をあたえてはたらきかけるためにも、必要である。なぜなら、かれらの自由を確保するために、かれらは、権力のある確固とした部分をもたなければならないからである。だから、かれらにとっては、国家にむすびつき、国家へのかれらの義務にむすびついた宗教は、人民がかれらの服従の条件によって、私的感情と家事の運営とにとじこめられているような諸社会におけるよりも、いっそう重要になる。権力のなんらかの部分をもつすべての人びとは、かれらが、信託をうけて行為するものだという考えを、そして、自分たちはその信託における行動について、社会の、ひとりの偉大な主人・創造者・創設者にたいして、責任があるのだという考えを、つよく、おそろしく刻印されるべきである
この原理は、集団的主権を行使する人びとの心には、単独の君主たちの心によりも、つよく刻印づけられるべきでさえあるこれらの君主は、道具なしには、なにもすることができない

 (中央公論社 『世界の名著』 p163)

 かれら自身の是認は、かれらにとっては、自分たちに有利な公共の判断のようにみえるのである。だから、完全な民主政治は、この世でもっとも恥知らずなものである

 (p164上)

 いちおう僕からも簡単に反論(トマス・ペインのごっつい反論書があります)しておきますと、第一に、これでは「自由な市民」ではありません。
 それに、そもそも国家が聖化されるべきであるかは自由な市民が決めることで、貴族や富裕層が決めることではありません。社会契約論では主体は人間で、市民は各自が自主的に行動することと互いにそれを保障しあうことで政府=市民とします。樹立時に「自分のため」と「国家のため」を一致させるわけです。宗教の権威による王権神授的な国家論は、ドグマという人間がまとめたものが母体となるので人間そのものより怪しいです。神に投げてしまえば責任の所在もありません。単一の権威とすれば
国家宗教が異端の弾圧をはじめ、さらなる誤謬に陥るわけです。
 
国家の権威は神の恐怖で脅迫するものではなく、市民がつくるものです。たとえばアメリカ合衆国は(バークの時代にはこの歴史はまだありませんが)、アメリカ国民に対して権威を持っています。市民は互いのために、FBIやロス市警といった合衆国の警察に適当な権威を持たせるわけです。もってもらわないと困るが、もたせすぎても困るから、権威の分量を調整するわけです。市民が国家の権威に納得して、市民が自分たちの産物 “アメリカ合衆国” に権威を形成させているから、NASAや大統領に適度な権威があるのです。

 バークは現代ならばレッドカードを数枚受けています。
 バークは「自分が自分を裁ける」という概念がおかしいという旨を指摘していますが、当然市民Aが市民Bを、BがAを裁くわけです。とりきめ(法律)があらかじめ合意されており、破ったら法が裁くのであって市民はそれを取り扱うだけです。国王や貴族が国民を裁けると思いこみ、それを実行するほうが「恥知らず」といえます。
 引用外に、民主主義では全体としての人民を処罰できないともありますが、国王が、自分や、自分を含めた国民全体を処罰するのかといえば否です。また国王に可能なものが、なぜ大統領や市長では無理なのかは説明がありません。民選の国王と世襲の国王についても問題が残ります。要するに、フランス革命の暴力がイギリスの秩序や平和への脅威であったために、悲鳴を上げたようなものだったのです。

 バークの宗教権威主義は、はっきりいえば彼の支配欲と優越感をむき出しにした公開自慰にすぎず、内容はありません。
 それだけに、バークの思想は安倍カルトの直接の先祖のひとつと判定してよいと思います。

 だとすると、『汚染』の疑惑のように、自民党などは統一教会を「少しいいものだ」と心から思っているという線がより現実的になります。

 

 政治家も色々ですから個人差はあるでしょうが、統一教会のドグマはひとことも信じていなくても、理念として「自分は信じていないものでも、国家カルトならば進んで受け入れよう」という考えがシンパの平均的な感覚かもしれません。

 これが、この点で悪い政治家かといえば、そう言い切れない面もあります。祭政一致の時点でとんでもない話ではあるのですが、選挙区のひとびとを見ていれば、有権者にカルトのニーズがあることは明らかですから、有権者の期待に応えてカルトと一体になることは、表面的には、ひとつの民意の反映ではあるのです。

 彼らの問題は、崩れていく頽廃期の社会に出てきた現象であるカルトと一体となり、自分たち一味の利権のために、社会をますます崩してカルト化させようというところにあります。

 ヴェブレンが書き残したように、嘘をつき、憲法を破り、統計を改竄し、歴史を書き換え、政権のために国家の公金を流し、マスコミを影響下に置き、デマを撒き散らし、研究費を軍事費に回し、国民を分断し、危機を煽り外国へのヘイトを扇動し、格差をつくり、愚民化政策をとって「貧すれば鈍する」を実現して、そのためにますます強大化していった安倍政権。安倍カルト。その所業は、数百年間消えることはないでしょう

 

 それでも、「安倍カルトや安倍御用タレント、安倍政権支持者に罰を与えよう」という行動のみに走れば、それはジャップ(大日本帝国臣民)です。


 前回に挙げた御用タレントのMさんに不正の疑惑が上がって、右も左も叩いています。

 ファシストですし、僕は叩きましたよ。彼女が威張ってでたらめを撒き散らしてるときに。もともとアンチである人々が、Mさんがバラマキっぱなしのまま退場したデマなど、無清算の問題点を指摘するといった行動ならば、今もその清算を続けるのは当然です。

 ですが、昨日まで黙っていたり、Mさんを支持していたのに、今になって攻撃している連中は……。敵が弱ってから、手のひらを返したような今のリンチは、言葉は悪いですが、ある意味ファシストと変わらないですよ。

 

 安倍カルトの幹部・信者に対しても、これはまあそのものが統一教会とかぶっているわけですが、対処の形式も同じです。

 選択の誘導の摂理は同じですから、叩くだけではだめです。
 「安倍カルトを選択した場合に落ちる地獄の釜の温度を上げる

 と同時に、または先行して 

 「安倍カルトや安倍御用タレント、安倍政権支持者をやめたらこんなにいいことがあるぞ

 が出てくるべきなのです。

 

 安倍カルトや御用タレントの人たちは、闘争に放り込まれて育って、こういう姿勢で社会に当たってもらったことがないから、自己を肥大させてカルトに堕ちているんじゃないでしょうかね。

 カルトの色々な問題に気づいた人たちは、せっかく気づいたわけです。これは特権のようなもので、大衆の一部ではなく一市民であるということです。一種の階層ともいえるわけで、責任階級といえる立場にあるわけです――有権者なので、当たり前といえばそうなのですが。でも現実には少数派で、薄い階層になっているのが現状です。思考も時間も求められるでしょうから、これに当たれるのはこの人々以外にはいません。

 経済内戦に乗った攻撃的感情がぶちまけられた結果の文言ばかりが目に入る現況ではなく、「カルトを応援しない選択」や「騙されないように学ぶ選択」、「頭を使ってよく考える選択」の先にあるメリットが、世の人々に提示されれば、もうすこしメディアの除染もできるのではないかと思います。

 

 やはり、搾取される側の信者であれ、御用タレントであれ、カルトに堕ちた人々を切り離しては失敗するでしょう。それは理論上、自分を上にして敵を下にして攻撃しようという欲のもととなる分別になるはずです。カルトの所業に気づいた責任を持ちうる人々だって、何のきっかけで安倍カルトやら、統一教会やら、他の愛国カルトやらに堕ちていたかわかりません。たまたま勧誘が来なかったり、高い自己肯定感をもてたり、いい人に出会えていたり、環境がよかったり、目の前に餌がぶら下がっていなかったり、なんらかのことがあって、くじを当てたからたまたまカルトに堕ちずにすんだのです。堕ちた人だって、子どものときから安倍カルトみたいなあんなもんに堕ちたいと思って堕ちたわけじゃないでしょう。どんな超人だってカルトに堕ちます。くじが外れただけです。

 人間なんて脆いものです。環境や、己の欲求や愚かさに支配され、自分で選べることなどほとんどありません。ほんとうに自由に一つの選択をする、ということはめっちゃくちゃ大変です。

 なので、切り離しは事実に反する以上、理解や解決に失敗するでしょう。同情や感情だけでなく、理屈や構造という現実が寛容を求めるのです。これは道徳ではなくて倫理です。

 

 それに、カルトに一度堕ちたからといって、その後はすべてがダメだということでは全くありません。個人でも社会でもそうです。むしろ件の友人の例からは、カルトを経ることが、色々なほうに転がって色々な現象が派生することを示しています。時間は必要でも、みんな経験値にしてしまえばいいのです。復帰の場の必須です。できれば先行されるべきです。 

 

 今回はうちのカルトの布教になってしまいましたが、寛容で大きな心を持とうと企んでも、悪いことはそうそうないでしょう。