僕の中学の友達に、統一教会の被害者がいました。
その話はつとに知っていたものの、原因が統一教会だったことはわりと最近知ったのです。
被害イベントは短期間だったので、この友人を2世信者と言っていいのかどうか微妙なところですが、元2世信者という表現ならば当てはまるでしょう。
僕らが中学生だった頃に、この友人のお母さんが、学校や近所を騒がせる事件に巻きこまれました。テレビはわかりませんが新聞の地域欄には載ったはずです。新聞を読まずとも近隣のひとたちは全員知っていました。知らずに過ごすことは不可能でした。事件の跡の光景は今も覚えています。
学校などからは、その事件の原因は、この友人のお母さんのノイローゼやらストレスやらだと説明を受けていたのですが、大人になってから友人から直接聞くには、どうやら話はその一件だけではなく、なかなかファンキーなお母さんで、「お前よく生存できたな」という話のオンパレード。
友人は幼少のときから家庭から逃げながら暮らし、中学の時には、近くのビルの陰(要するにほとんど外)の仮住まいで過ごした日々もあったそうです。
現在この友人はカルトの被害は受けていません。僕もこの話は中途半端に採取してから10年ほど忘れていました。子供のときの苦労話は、旧友間では武勇伝の棚に収められるネタです。今でこそほとんど笑い話ですが、それでも友人にとってはお母さんとの関係が一般的なものではないということは現役の事情にちがいなく、また単体だと凄惨な話に転がりかねないことには違いなく、今もそういう問題がふりかかる子供らがどこかにいるはずなので、一種のブラックな笑いになります。とはいいながらも、一転して仲間の武勇伝の背景となると、その主役がくぐりぬけたトラブルが大きいほどに引き立つものです。武勇伝は何度聞いても面白い話という類のひとつです。
たまたま先日、この友人と会った時に、何かの流れから、そういや昔色々あったみたいだけど、統一教会は大丈夫だったの? と聞いたわけです。
統一教会は「抜けられない」という印象ですから、これは字義通りの質問ではありません。代名詞として、その手のカルトとかにはハマらなかったの? というような意味です。
引っかからなかったのか、勧誘が来なかったのか、他のカルトにハマっていなかったのか、まあ話が広がれば、と船を出したわけです。
ところが帰って来た答えが、
「いやいや、統一教会。まさに統一教会にハマってた時」
というのでおどろきました。
事件の前には、冷蔵庫にメッコールや高麗人参が増えはじめていたといいます。
この友人のほうは猛者ですから、その章はほかの章に比べれば大したことない、という感じで話していました。
聞くと、お母さんは数々の新興宗教にハマっていたのです。友人は物心つかぬころから変なダンスをする会などに……。
こういう人はときどきいて、今読んでいるドイツ語の復習用の推理もの(現地の友人が書いたもの)にも、何でも信じやすい人物が、トラブルの渦中の人として出てきています。実在のモデルがいて、話に「占いの結果によると」と添えられるだけで、自分の運命の人はこの人、宿命の地はここだ、奇跡のめぐりあわせ、などと信じて、それで行動力を得て突っ走ってしまうのです。
で、怪しい連中というのはこの手の人びとを、どこにいようと的確に嗅ぎつけるのです。また、この手の人びとは、わざわざ一番怪しい連中を的確に選び抜いて、近づいてしまうのです。
向こうの話はたまたま月の女神の宗教でしたが、統一教会のムーン(文鮮明の ”文ムン” から)とは関係なく、天体の月のパワーや意思にすべての原因を求めるオカルトです。こうした類型の人々が一定数いることに洋の東西はありません。人間とはこういうものなのでしょう。
ですがこの件はぶっとんでいました。一段上を行っていて、怪しい連中すら去っていくために、入れ替わりで次々とイベントです。統一教会のときの事件については、それ自体は秘密でもなんでもないのですが、そこから調べると誰のことかわかってしまいかねない程度には派手なので、詳しく書けないのです。
入信の経緯を聞くと、この友人宅のすぐ近所に統一教会の信者がいて、それが、お母さんがご近所向けやっていたある趣味の会にまぎれて、参加者として家に入りこんできて、勧誘してしまったというのです。
それからすぐ? 1年後くらいと言っていたかな? とにかく長い期間ではありません。しばらくして例の事件が起こり、そのままお母さんは入院。
ところがまだ心身ともに病院から出してはいけないのに、統一教会とは別のところで、保証人のようなインチキ臭い人が現われて、すぐに病院から出してしまったそうです。友人は法や規則の不備といったことをこぼしていました。僕は考えながらもあいづちをうちました。
となると、再び自由になったお母さんは、別の散財だったか暴走だったかをはじめてしまって、友人のほうは大変に困ったという話でした。で、その後もお母さんのこの性質ためにああなったこうなったという話が続くわけです。まだ僕らが中学のときの話ですから、統一教会の章は、せいぜい中盤あたりなのです。
「え……、統一教会はもう出てこないの?」
「すぐ逃げてったよ。ヤバいから。追ってくるわけないじゃん」
という感じで、病院にも来ず、音沙汰なかったそうです。友人の中では統一教会は雑魚扱いでした。前後の武勇伝のほうが刺激的だから、そっちの話を聞けやといった調子です。統一教会の事件の被害規模は大きかったのですが、家族が苦しめられた期間は短いのです。そして統一教会は、数ある怪しいグループのひとつにすぎなかったわけです。
僕は「幹部・信者」などと分けて書いていますが、この手の専制体制の団体は、上層部と一般構成員はまったく異なり、その隔たりが極めて大きいのです。もちろん上層部は打算的です。なるほど考えてみれば、さすがの統一教会も事件レベルになればスッといなくなるはずですよ。教団や信者や教団の資産に事件レベルの被害を再度出すことになったら、いくら統一教会でも割にあいません。
このケースでは、統一教会は悪魔的な洗脳をやりすぎて失敗、自爆したわけです。怖いというか、間抜けというか……。おかげでわが友は “助かった” と言えなくもありません。もし生かさず殺さずで来られたら、今も被害が続いていたかもしれず、友人のほうも精神的なダメージを今日まで受けていたかもしれません。親が子供の職場に押しかけて金をせびってくるとか、それだけでもたまらないですからね。
このお母さんは別のヤバい何かにハマったため、統一教の “原理” の永続的な信仰には至らなかったのです。統一教会より小規模で目立たなくとも、より強烈な質をそなえたカルト団体があるというわけです。つまり “幸い、統一教会にはハマらなかった” というわけではなかったのです。
友人の話の時間配分や温度からするに、統一教会は、怪しい連中から受けた総被害のうちの数パーセントといったところなのでしょう。
・統一教会が逃げ出していくようなケースもある。
・統一教会が雑魚に見えるほど怪しい集団すら山ほどある。
これらの点は、われわれがこの問題を乗り越えるために必要な認識です。
日本人らしい「個人として被害に遭わないため」ではなく、先進国のように、カルトと亡国の観点からです。
この問題を「個人として被害に遭わない」の総計で解決することはできません。これではカルトの手口を高度化させたり、被害者のイスを他人に押しつけるだけです。社会問題というのはすべてそうです。
第一に、みんな世の中を高く評価しすぎなのです。
現実を見れば、世の中には、「統一教会のほうがまし」というヤバいもんが普通に身のまわりにあるわけです。
それらはカルトからではなく、世の中一般から発生するのです。
過労死を出すような職場はそれです。被害者にとってのイジメのある環境もそれです。
人格、考えてきたこと、考える事、過去、独創性、個性、すべてを否定する単純労働に長時間拘束される人間疎外などもヤバいです。
孤独のまま死んでいくのが見えている人生。
同調圧力、監視と炎上、メディア、教育が枠組みをつくる自己規定。
ルッキズムや知能主義といった価値観の一次元性より、嘲笑されることが永続することがだいたい見えてしまっている人生。
どんどんこんなものが増えている。
これらのヤバいもんには狂気か死しかありません。人間はパンのみでは生きられません。
だから「死ぬな。狂え」というわけです。
これらの絶望のイスは、数が用意されています。合言葉はなんの進歩もなく「がんばれ」「努力しろ」ですが、誰かがイジメや貧困を個人的に克服しても、別の人間がそのイスに据えられるだけです。そしてそれを直そうとする人は稀有で、みなはますます努力を注入して闘争を激化させていき、ますます狂っていく。絶望は増加する一方です。絶望は増加中なのです。
みんな、自分がそういう絶望の環境に置かれたり、他の人間たちにそこに放り込まれる危機を感じれば、救いを求めるわけです。価値観を根底的に変えてくれそうだっり、立場や役目や生き甲斐をくれたり、永続的で親しいコミュニケーションの機会をくれそうな声がかかれば、振り向くでしょう。カルトに入ったり、犯罪に一か八かをかけるほうがましだと、追い込まれていくという条件が、日本社会にはごっつごっつに備わっているのです。
そして、そんな世の中に暮らす人生一億のうちには、現代人がメディアに植えつけられているよりもはるかに多様な、色々な人生があるのです。
極端な話、“ふつうの社会” に暮らしながら死を選ぶ人は、カルトに入ったほうがましでしょう。
「刑務所のほうがシャバより待遇がいい」ならば、犯罪は増えるでしょう。
カルトを選ぶ未来像 > カルト以外を選ぶ未来像 をもつ人の数だけ、カルトは栄えます。
ある若者がいるとします。大人は、「彼が反社を選ぶよりも充実した人生を、われわれは用意できているか?」と自問自答する必要があります。若者は、「親ガチャを外したら、ずっと底辺として、人間でなくてもできるような単純労働を毎日やって、嘲笑されつづけるだけだ。すべて自己責任とされ、誰も自分のことは見てくれない」と知っているから、危険な賭けに出るのです。ナチスのように、このエネルギーを外国やマイノリティーへの憎悪にそらすとか、国民同士で分断して戦うように煽動するとかはもってのほかです。
ガチャを当てても世の中に疑問を持つ人は大勢います。すこし考えれば一般的日本社会がヤバいことはわかります。オウムは彼らを吸収して、その能力でサリンまで製造したわけです。
90年代、大学では原理研究会が猛威を奮っていました。
それに対して大人、たとえばメディアや大学側は
「カルトに注意!」
の警句は山ほど出しました。
ですが、
「学生がカルトに入らないように、カルトじゃない大学生活を有意義なものにしよう!」
という話は一度も聞いたことがありませんでした。
この30年、カルトが栄えつづけてきた理由の一つはこれなんです。
犯罪に関しても、日本人は
「厳罰を! 刑務所は甘すぎる!」
というばかりです。
「刑務所の外の生活をよくしよう」
という人は、わりとまじで自分以外には見たことがありません。
もうなんというか、この発想が全てダメなんですよ。
統一教会の解散は僕も賛成です。エバ国家論者と日本人の共存は不可能です。
ですがそれは、
「世の中一般よりカルトを選んだ信者を、より厳しく追いつめ、痛めつける」
ではなく
「カルトに入信しないほうの人生を有意義に送れるように、舞台を用意する」
が本道です。
解散というならば、元信者の救済も、少なくとも同時に語られねばなりません。
そうすれば、彼らが帰ってくる可能性も生まれるのです。
僕からいわせれば、日本人による謎の攻撃精神で解散攻撃が先行しているから日本でカルトが流行るんですよ。
この攻撃精神、また他罰か自罰かの2択で発狂してるんですかね?
人生の有意義性を担保するには、とくに精神的生活のクオリティをカルトへの期待以上に上げていかねばなりません。
今は、経済内戦を60年も続けているから、いすとりゲームや、カネや地位のための嘘や、単純作業、マウント合戦などで、かなりの人が精神を削られまくってヘトヘトでしょう。
そんな中で「カルトには解散を」とわめいてばかりいるから、カルトが増えるのですよ。そんな攻撃的かつ短絡的な人たちと暮らしたいと、ふつうの人間は思わないから、帰ってくるわけがないんです。
小学生の僕は、国鉄民営化の前に「国鉄の労働組合がまたサボってる! おかげで会社に行けない!」と発狂しているサビ残サラリーマンたちを見て、「他人の待遇を悪くしろっていうんじゃなくて、自分の待遇をよくしろって詰め寄ればいいのに、なんで?」と思ったものです。もうほんと馬鹿じゃないかと。のちに知ったところでは、スパイト行動というそうですが。
その結果が今の日本経済の惨状ですよ。
サビ残とか年休未消化とか過労死とか、そこから出ようとするやつの足を引っ張るとか、カルトはどっちだよ。
そういう意味じゃ、日本人はほとんど全員が2世信者みたいなものです。
こうしたカルト的な思考回路は、あらゆる処理に当てられています。
ダメなほうを選んでしまうということを考えてみましょう。クスリでも痴漢でもなんでもいいです。
「ダメな選択」をしないようにするために、どうしよう?
となったときに考えられる解決方法として
「ダメな選択をするデメリット」を増やすこと
と
「ダメでない選択をするメリット」を増やすこと
は等価です。
これは宇宙の摂理です。
日本人がなぜ
「ダメな選択をするデメリット」を増やすことのほうだけに興奮しながら全力投球するかというと、その深層には、問題を他人ごとにして切り離し、自分を相対化させて、「こいつはクズ。自分は正しい方を選んだ立派な人間だ」と思おうとする心理があると思います。こうなると、悪人の悪事が巨悪であるほど自分は相対的に立派になります。「回転寿司を舐めるなんて親子ともども死に値する!」としておけば、しょーもないただの人でも、巨悪を罰する大正義になれます。色々抑圧されて、そう反応してしまうのでしょう。
もし彼がニュートラルならば、「ダメでない選択をするメリット」を増やすことが、同時に出てくるはずです。また自分(たち)の問題として考えるならば、「ダメでない選択をするメリット」を増やすことは先に思いつくはずです。
さて、寿司にいたずらをしない子が褒められている光景を、見たことがありますか? 実際、中高生ですでに広い視野をもって、社会性を見につけた子なんてめちゃめちゃ凄いですよね。次世代のリーダーとか、先の期待もできるでしょう。いろいろやらかしていた僕なんかは完敗です。ですが、そういう話を聞いたことはついぞありません。たぶん、自分より強い敵は邪魔なのでしょう。
匿名のネットは、勝者になれなかった多数の人たちの本音であふれかえっています。
やはり内戦中の日本人にとって、他の日本人は、闘争をしている敵なのです。
だからカルトを選んだ人々に捨てられたのだと思いますよ、一般的日本社会は。
いいことをしたら「あたりまえ。そのまま苦しんでもっと働け」
悪いことをしたら「一生刑務所に入ってろ」
という団体では、それに従いながらそこにいる価値はありません。
友人の件は、主に物損ですんだ一過性のものでした。この友人氏を見る限り、このお母さんを否定しようなどとは僕はまったく思いません。結果論ではありますが、われわれの友達付き合いがあるのはこれも含めた諸々の経緯があってのことです。
いっぽう、安倍さん暗殺のあと、元信者や2世信者の報告をたくさん見ることができますが、これらはずっとヘビーなわけです。カルトは人間ごと、人格ごとさらっていくのです。
カルト勢力の最大のものは、大日本帝国です。安倍カルトであり、自民党の一部であり、統一教会(韓国と日本を置き換え、文鮮明・韓鶴子を天皇に置き換えた大日本帝国カルト)や神道系などの諸カルトです。国家神道や大本教から派生したりして戦後に勢力を伸ばしてきました。どれも一般信徒はカネや死をもって権威に奉仕するわけです。上の内戦の実現や、その敗者の憎悪を外国やさらなる弱者に向ける煽動もつづけられています。丸山真男の論旨は、ファシズムは革命の方向性をずらしたものだというものでした。
『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』 鈴木エイトによると、22年6月、統一教会のイベントにウン十人という自民党議員が参加。
それについて自民党は、関与に組織性はなく、個々の議員が勝手にやっているものと主張したとあります。これは統一教会の霊感商法の言い逃れと同じで、あれもいつも信者が個人で勝手にやっているものです。
大日本帝国の兵士の特攻も “自主的” でしたね。これで、組織的大量殺人をやったかなりの権力者が不問にされました。
信者の間でシック(信者)とされている国会議員がいますが、『汚染』では、政治家、自民党自体が統一教会のマインドコントロール下にあり、 “統一教会は問題ない団体である” と、本気で考えていたこともありうるというのです。
この疑惑はそれなりに濃いです。
自民党と統一教会はともに祭政一致です。
祭祀=まつりごと=政治
というわけです。
両団体は、大日本帝国の家庭支配ファシズムの復古を狙う同志ですから、お互いにとって祭政一致は大正義です。
そこで、自民党としては統一教会のことを
「霊感商法で-1点。だが正義の反共思想で+1点。すばらしい家族国家思想で+1点。だから統一教会は+1点。いいところの方が多い団体だ」
くらいに思っているのは妥当だと思われます。
まあ、統一教会と自民党には、思うとか思う以前の、既存の権力構造としての一体性があるわけですが。安倍さんの発言やスローガンなんかにも統一教会がよく表れています。
“保守”を名のる国家主義者の政治家がたびたび挙げるものにバークがあります。
実際には、右翼政治家の大半はゴロツキみたいなもので、古典などには縁がなく主著を読んですらいないでしょう。バークは昔のイギリスのそれっぽい権威なので、その名前をつかって情報弱者を騙して自分をリスペクトさせている手口です。
とはいえ、上のほうの人々は秘書や官僚に読ませて説明を受けるとか、もしくは流し読みくらいはしているはずです。または要約を読んだり聞いたりはしているでしょうから、バークの思想が自民党の考えにかなり近いのは事実でしょう。
実際に読んでみると、バークはわりととんでもないことを書いています。
バークにとって、下層の国民は、黙らせるべき「豚」です。
「よくこんなものがモデルだとか公言できるな」
というのが僕の感想です。
統一教会との一体性にも、このバークの思想が一役買っている可能性があります。
バークは国家と宗教についてどう考えていたでしょうか。
『フランス革命の省察』に、『国家の聖化』という章があります。
国家宗教制度による国家の聖化は、自由な市民たちに、健全な畏怖をあたえてはたらきかけるためにも、必要である。なぜなら、かれらの自由を確保するために、かれらは、権力のある確固とした部分をもたなければならないからである。だから、かれらにとっては、国家にむすびつき、国家へのかれらの義務にむすびついた宗教は、人民がかれらの服従の条件によって、私的感情と家事の運営とにとじこめられているような諸社会におけるよりも、いっそう重要になる。権力のなんらかの部分をもつすべての人びとは、かれらが、信託をうけて行為するものだという考えを、そして、自分たちはその信託における行動について、社会の、ひとりの偉大な主人・創造者・創設者にたいして、責任があるのだという考えを、つよく、おそろしく刻印されるべきである。
この原理は、集団的主権を行使する人びとの心には、単独の君主たちの心によりも、つよく刻印づけられるべきでさえある。これらの君主は、道具なしには、なにもすることができない。
(中央公論社 『世界の名著』 p163)
かれら自身の是認は、かれらにとっては、自分たちに有利な公共の判断のようにみえるのである。だから、完全な民主政治は、この世でもっとも恥知らずなものである。
(p164上)
いちおう僕からも簡単に反論(トマス・ペインのごっつい反論書があります)しておきますと、第一に、これでは「自由な市民」ではありません。
それに、そもそも国家が聖化されるべきであるかは自由な市民が決めることで、貴族や富裕層が決めることではありません。社会契約論では主体は人間で、市民は各自が自主的に行動することと互いにそれを保障しあうことで政府=市民とします。樹立時に「自分のため」と「国家のため」を一致させるわけです。宗教の権威による王権神授的な国家論は、ドグマという人間がまとめたものが母体となるので人間そのものより怪しいです。神に投げてしまえば責任の所在もありません。単一の権威とすれば国家宗教が異端の弾圧をはじめ、さらなる誤謬に陥るわけです。
国家の権威は神の恐怖で脅迫するものではなく、市民がつくるものです。たとえばアメリカ合衆国は(バークの時代にはこの歴史はまだありませんが)、アメリカ国民に対して権威を持っています。市民は互いのために、FBIやロス市警といった合衆国の警察に適当な権威を持たせるわけです。もってもらわないと困るが、もたせすぎても困るから、権威の分量を調整するわけです。市民が国家の権威に納得して、市民が自分たちの産物 “アメリカ合衆国” に権威を形成させているから、NASAや大統領に適度な権威があるのです。
バークは現代ならばレッドカードを数枚受けています。
バークは「自分が自分を裁ける」という概念がおかしいという旨を指摘していますが、当然市民Aが市民Bを、BがAを裁くわけです。とりきめ(法律)があらかじめ合意されており、破ったら法が裁くのであって市民はそれを取り扱うだけです。国王や貴族が国民を裁けると思いこみ、それを実行するほうが「恥知らず」といえます。
引用外に、民主主義では全体としての人民を処罰できないともありますが、国王が、自分や、自分を含めた国民全体を処罰するのかといえば否です。また国王に可能なものが、なぜ大統領や市長では無理なのかは説明がありません。民選の国王と世襲の国王についても問題が残ります。要するに、フランス革命の暴力がイギリスの秩序や平和への脅威であったために、悲鳴を上げたようなものだったのです。
バークの宗教権威主義は、はっきりいえば彼の支配欲と優越感をむき出しにした公開自慰にすぎず、内容はありません。
それだけに、バークの思想は安倍カルトの直接の先祖のひとつと判定してよいと思います。
だとすると、『汚染』の疑惑のように、自民党などは統一教会を「少しいいものだ」と心から思っているという線がより現実的になります。
政治家も色々ですから個人差はあるでしょうが、統一教会のドグマはひとことも信じていなくても、理念として「自分は信じていないものでも、国家カルトならば進んで受け入れよう」という考えがシンパの平均的な感覚かもしれません。
これが、この点で悪い政治家かといえば、そう言い切れない面もあります。祭政一致の時点でとんでもない話ではあるのですが、選挙区のひとびとを見ていれば、有権者にカルトのニーズがあることは明らかですから、有権者の期待に応えてカルトと一体になることは、表面的には、ひとつの民意の反映ではあるのです。
彼らの問題は、崩れていく頽廃期の社会に出てきた現象であるカルトと一体となり、自分たち一味の利権のために、社会をますます崩してカルト化させようというところにあります。
ヴェブレンが書き残したように、嘘をつき、憲法を破り、統計を改竄し、歴史を書き換え、政権のために国家の公金を流し、マスコミを影響下に置き、デマを撒き散らし、研究費を軍事費に回し、国民を分断し、危機を煽り外国へのヘイトを扇動し、格差をつくり、愚民化政策をとって「貧すれば鈍する」を実現して、そのためにますます強大化していった安倍政権。安倍カルト。その所業は、数百年間消えることはないでしょう。
それでも、「安倍カルトや安倍御用タレント、安倍政権支持者に罰を与えよう」という行動のみに走れば、それはジャップ(大日本帝国臣民)です。
前回に挙げた御用タレントのMさんに不正の疑惑が上がって、右も左も叩いています。
ファシストですし、僕は叩きましたよ。彼女が威張ってでたらめを撒き散らしてるときに。もともとアンチである人々が、Mさんがバラマキっぱなしのまま退場したデマなど、無清算の問題点を指摘するといった行動ならば、今もその清算を続けるのは当然です。
ですが、昨日まで黙っていたり、Mさんを支持していたのに、今になって攻撃している連中は……。敵が弱ってから、手のひらを返したような今のリンチは、言葉は悪いですが、ある意味ファシストと変わらないですよ。
安倍カルトの幹部・信者に対しても、これはまあそのものが統一教会とかぶっているわけですが、対処の形式も同じです。
選択の誘導の摂理は同じですから、叩くだけではだめです。
「安倍カルトを選択した場合に落ちる地獄の釜の温度を上げる」
と同時に、または先行して
「安倍カルトや安倍御用タレント、安倍政権支持者をやめたらこんなにいいことがあるぞ」
が出てくるべきなのです。
安倍カルトや御用タレントの人たちは、闘争に放り込まれて育って、こういう姿勢で社会に当たってもらったことがないから、自己を肥大させてカルトに堕ちているんじゃないでしょうかね。
カルトの色々な問題に気づいた人たちは、せっかく気づいたわけです。これは特権のようなもので、大衆の一部ではなく一市民であるということです。一種の階層ともいえるわけで、責任階級といえる立場にあるわけです――有権者なので、当たり前といえばそうなのですが。でも現実には少数派で、薄い階層になっているのが現状です。思考も時間も求められるでしょうから、これに当たれるのはこの人々以外にはいません。
経済内戦に乗った攻撃的感情がぶちまけられた結果の文言ばかりが目に入る現況ではなく、「カルトを応援しない選択」や「騙されないように学ぶ選択」、「頭を使ってよく考える選択」の先にあるメリットが、世の人々に提示されれば、もうすこしメディアの除染もできるのではないかと思います。
やはり、搾取される側の信者であれ、御用タレントであれ、カルトに堕ちた人々を切り離しては失敗するでしょう。それは理論上、自分を上にして敵を下にして攻撃しようという欲のもととなる分別になるはずです。カルトの所業に気づいた責任を持ちうる人々だって、何のきっかけで安倍カルトやら、統一教会やら、他の愛国カルトやらに堕ちていたかわかりません。たまたま勧誘が来なかったり、高い自己肯定感をもてたり、いい人に出会えていたり、環境がよかったり、目の前に餌がぶら下がっていなかったり、なんらかのことがあって、くじを当てたからたまたまカルトに堕ちずにすんだのです。堕ちた人だって、子どものときから安倍カルトみたいなあんなもんに堕ちたいと思って堕ちたわけじゃないでしょう。どんな超人だってカルトに堕ちます。くじが外れただけです。
人間なんて脆いものです。環境や、己の欲求や愚かさに支配され、自分で選べることなどほとんどありません。ほんとうに自由に一つの選択をする、ということはめっちゃくちゃ大変です。
なので、切り離しは事実に反する以上、理解や解決に失敗するでしょう。同情や感情だけでなく、理屈や構造という現実が寛容を求めるのです。これは道徳ではなくて倫理です。
それに、カルトに一度堕ちたからといって、その後はすべてがダメだということでは全くありません。個人でも社会でもそうです。むしろ件の友人の例からは、カルトを経ることが、色々なほうに転がって色々な現象が派生することを示しています。時間は必要でも、みんな経験値にしてしまえばいいのです。復帰の場の必須です。できれば先行されるべきです。
今回はうちのカルトの布教になってしまいましたが、寛容で大きな心を持とうと企んでも、悪いことはそうそうないでしょう。