前回は日本人の移民の歴史についてでしたがが本日もその続きを語らさせていただきます。
明治になってから急増する人口問題と貧困問題を解決する方法として政府が海外殖民を模索し続けます。
(ちなみには現在の日本は全く逆に人口不足と移民受入国ですが…)
最初の移民が明治元年のハワイ移民、そしてハワイからアメリカ西海岸に多くの日本人が渡るのですが白人による排日運動の嵐で移民先を南米に目を向けていきます。
まずはアメリカの代替国としてメキシコが選ばれます。
1897年、当時明治政府の外務大臣も務めた榎本武揚による榎本殖民団がメキシコ チアパス州のコーヒー農園の殖民地開拓で渡りましたが失敗に終わります。その後、鉄道開発、鉱山開発の労働者として多くの日本人がメキシコに移民してきますが、彼らの多くはメキシコを経由して条件の良い米国に渡る人が後を絶たなかったため、1907年に米国はメキシコからの入国を禁止します。メキシコ移住はその後激減しますが約10年間、メキシコへの移民数は1万人以上と言われています。
ちなみに現在のメキシコに住んでいる日系人は1万2千人と言われていますので彼らの祖先の大部分はこの時期に来ているのかもしれません。
話は少しそれますが、今でも中南米の貧しい国からメキシコを経由して多くの人たちが米国へ違法侵入しようとしています。
米国でより多く稼げ断然リッチな生活が送れる、あるいは残された家族に送金するのを夢見て危険を犯して入国しようとします。
上手く米国に入れた人もいますが大部分はその間、暑さと水分食料不足で死んでしまうか、移民局、警察に捕まえられるか、あるいはマフィアによって騙されたり殺されたりするケースが後を経ちません。国境付近には麻薬組織によって作られたトンネルもよく発覚しています。
ベン・スティーラーのThe heartbreak kidsという映画をご覧になられましたか?
主人公のベン・スティーラーがハネムーンでメキシコのロスカボスに行くのですが現地で本当に愛する人に出会い、新婦と別れるのですが彼女にパスポートを引き裂かれてしまいます。
そこでメキシコ人たちと一緒に違法的に米国に侵入するシーンがあるのですがまさに現在でもある様子です。
https://www.youtube.com/watch?v=ON1-SohDqDg
https://www.youtube.com/watch?v=jCHXHzoRQ_Q
当時の我々祖先の日本人たちも同じようだったのだと想像できます。
実際何度も米国に渡ろうとトライしながら結局行けずメキシコに残った人たちの日本人の町が国境付近メヒカリという場所に存在するという話を前回させていただきました。
話をまた歴史に戻します。
次に移民社会はペルーに目を向けます。
当時のペルーは貧富の格差がある階級社会でしたが奴隷制度廃止や中国人移民の禁止で代替労働者を求めていました。1899年、第一回の日本人移民790人が農業労働者としてペルーに渡り次々に集団移住が始まります。その後、ペルーには1923年まで出稼ぎ移民として約2万1,000人が渡りましたが、奴隷寸前の過酷労働のため、ペルー移民の中には隣国のブラジル、ボリビア、チリ、アルゼンチンへ転住する者も後を絶たなかったようです。
(来月久しぶりにペルーにいってきますのでもう少し詳しい歴史を知ることが出来ればと思っています。)
以上、ここまで前回触れさせていただきましたがここからはブラジル移民についてです。
私が初めてブラジルを訪れた時の印象はここは本当の意味の人種のるつぼだなということです。ヨーロッパ人、アジア人、黒人が完全に差別なく交じり合って出来た移民の国といった感じです。アメリカをみますと各人種同士が独立のコミュニティーを形成し、そこにはお互いに差別があったりするのですが(特に白人による差別)此の国はそれがなく平等に存在しているなと思いました。もちろん、貧富の差と階級による差別は他の途上国同様すさまじいのですが人種同士の偏見と差別は少ないように感じました。
話をまた戻します。
日本人の米国への移民制限である日米紳士協定を結んだ翌年1908年、笠戸丸による第1回ブラジル移住が始まり、約800名がサンパウロ州コーヒー農園に入植しました。
その後、米国の排日移民政策の強化と共に、日本人移民は北米から南米へと向かい、国民の海外移住熱も高まりブラジル移住はこの後20年間急増していきます。
1924年には米国で排日移民法成立が成立し、日本人による米国への移民が完全禁止されたことにより、政府は初めて国策としてブラジル移民事業をスタートさせます。
(ちなみにこの排日移民法が反米感情を生じ、太平洋戦争につながったという人もいます。
1928年には大型・新鋭の南米移民船「さんとす丸」を就航させ日本政府、移民会社、船会社の連携によるブラジル移民事業が本格化していきます。1929年にはブラジル拓殖組合が設立され、ブラジルに自営開拓移民のための移住地が次々に建設され、1930年代にはブラジル移住は全盛期を迎えます。
サントスは首都サンパウロの港の名前です。 以前訪れた時、港に最初に到着した日本人の記念碑がありました。 今でも現地の日系人の間で最初の移民団の歴史には敬意を払っているとのことです。
1933年~1934年、ブラジルへの日本人移住者は年間2万人を超え、ヨーロッパ人の年間移住者より多くなり、日本人移住を制限する動きが活発化していきます。急増する日本人移民に対してブラジルは1934年「移民二分制限法」を成立させ、事実上日本人移民に門戸を閉ざしました。国策移住が確立してわずか10年。ブラジル国策移住も北米と同じように排日の嵐の中でその幕を閉じます。
その後、政府はパラグアイへの移民も始めようとしますが満州事変、第2次世界対戦となり移民の歴史が途絶えます。
南米のどの国も親日派ですが其の中でもブラジルは特別です。
そこには確実に日本人が認められ、日本文化が認められ、高い地位が確立されています。
当初は農業移住した移民、さらにまったくの原野に開拓移民として入植した移民はたいへんな苦労をしましたが、二世や三世が農地拡大、医療、技術、法曹、政界など多方面に進出するようになり、日系人の地位は高まりました。
もちろん、150万人日系人の間では勝ち組負け組が存在するのは事実ですが基本的に日本人は尊敬の目で見られています。
人口比に比例して社会的成功者が多いのが理由だと思います。。近年は混血がすすみ、純粋な日系人というより、三世以降はブラジルへの完全同化が進んでいます。
さて1941年の太平洋戦争開始により、アメリカ大陸(北米、南米)への移住は中止されました。ラテンアメリカ各国はアメリカ合衆国に同調し、対日国交断絶や宣戦布告をし、強制収容所に送還されたり、日本人財産の没収、日本語学校の閉鎖等の処置がなされ日系人の方々は大変な苦労をされてようです。
日本の戦後移住は日本が国際社会に復帰した翌年の1952年に民間主導で再開されました。この移住再開は、祖国日本の荒廃と飢餓状態を憂えたブラジル、アルゼンチン、パラグアイ等の南米日系社会が現地政府に日本人移住者枠を要請し、日本政府の渡航費の貸し付けで実現したものです。 その後日本政府は中南米各国(ラテンアメリカ)と移住協定を結び、海外移住を促進しました。移住協定を結んだ国はボリビア(1956年)、ドミニカ共和国(1956年)、パラグアイ(1956年)、ブラジル(1960年)、アルゼンチン(1961年)の5カ国ですがこれらの国には、日本政府により大規模な日本人集団移住地が建設されました。
1950~60年は移民ブームで、農業移民として最盛期は年間7,000人弱が渡航しましたが、日本の高度成長による国内労働力不足で移住ブームは終焉を迎えます。
戦後移住再開から1993年までの移住協定締結5カ国への移住者総数は、ブラジル5万人、パラグアイ7千人、アルゼンチン3千人、ボリビア2千人、ドミニカ共和国1千人と言われています。
戦前・戦後まもなく、海外移住した一世たちは当初「出稼ぎ」意識が強かったと思います。「成功して故郷に錦を飾る」ことを夢みて海を渡ったが、戦争や現地の事情などで帰国できず、多くのものはそのまま現地に定住しました。
中米、南米のどこの国に行きましても我々日本人に優しく尊敬の目で見てくれているのはそういう人たちの頑張りのおかげだといえるのではないでしょうか?
日本は完全に豊かな国になりましたが貧しかった時代我々の祖先が大変な思いをして家族を国を守ろうとした歴史を知るのは大切なことだと思っています。
次回は歴史から離れて建築の話に戻りたいと思いますのでどうぞお楽しみに!
明治になってから急増する人口問題と貧困問題を解決する方法として政府が海外殖民を模索し続けます。
(ちなみには現在の日本は全く逆に人口不足と移民受入国ですが…)
最初の移民が明治元年のハワイ移民、そしてハワイからアメリカ西海岸に多くの日本人が渡るのですが白人による排日運動の嵐で移民先を南米に目を向けていきます。
まずはアメリカの代替国としてメキシコが選ばれます。
1897年、当時明治政府の外務大臣も務めた榎本武揚による榎本殖民団がメキシコ チアパス州のコーヒー農園の殖民地開拓で渡りましたが失敗に終わります。その後、鉄道開発、鉱山開発の労働者として多くの日本人がメキシコに移民してきますが、彼らの多くはメキシコを経由して条件の良い米国に渡る人が後を絶たなかったため、1907年に米国はメキシコからの入国を禁止します。メキシコ移住はその後激減しますが約10年間、メキシコへの移民数は1万人以上と言われています。
ちなみに現在のメキシコに住んでいる日系人は1万2千人と言われていますので彼らの祖先の大部分はこの時期に来ているのかもしれません。
話は少しそれますが、今でも中南米の貧しい国からメキシコを経由して多くの人たちが米国へ違法侵入しようとしています。
米国でより多く稼げ断然リッチな生活が送れる、あるいは残された家族に送金するのを夢見て危険を犯して入国しようとします。
上手く米国に入れた人もいますが大部分はその間、暑さと水分食料不足で死んでしまうか、移民局、警察に捕まえられるか、あるいはマフィアによって騙されたり殺されたりするケースが後を経ちません。国境付近には麻薬組織によって作られたトンネルもよく発覚しています。
ベン・スティーラーのThe heartbreak kidsという映画をご覧になられましたか?
主人公のベン・スティーラーがハネムーンでメキシコのロスカボスに行くのですが現地で本当に愛する人に出会い、新婦と別れるのですが彼女にパスポートを引き裂かれてしまいます。
そこでメキシコ人たちと一緒に違法的に米国に侵入するシーンがあるのですがまさに現在でもある様子です。
https://www.youtube.com/watch?v=ON1-SohDqDg
https://www.youtube.com/watch?v=jCHXHzoRQ_Q
当時の我々祖先の日本人たちも同じようだったのだと想像できます。
実際何度も米国に渡ろうとトライしながら結局行けずメキシコに残った人たちの日本人の町が国境付近メヒカリという場所に存在するという話を前回させていただきました。
話をまた歴史に戻します。
次に移民社会はペルーに目を向けます。
当時のペルーは貧富の格差がある階級社会でしたが奴隷制度廃止や中国人移民の禁止で代替労働者を求めていました。1899年、第一回の日本人移民790人が農業労働者としてペルーに渡り次々に集団移住が始まります。その後、ペルーには1923年まで出稼ぎ移民として約2万1,000人が渡りましたが、奴隷寸前の過酷労働のため、ペルー移民の中には隣国のブラジル、ボリビア、チリ、アルゼンチンへ転住する者も後を絶たなかったようです。
(来月久しぶりにペルーにいってきますのでもう少し詳しい歴史を知ることが出来ればと思っています。)
以上、ここまで前回触れさせていただきましたがここからはブラジル移民についてです。
私が初めてブラジルを訪れた時の印象はここは本当の意味の人種のるつぼだなということです。ヨーロッパ人、アジア人、黒人が完全に差別なく交じり合って出来た移民の国といった感じです。アメリカをみますと各人種同士が独立のコミュニティーを形成し、そこにはお互いに差別があったりするのですが(特に白人による差別)此の国はそれがなく平等に存在しているなと思いました。もちろん、貧富の差と階級による差別は他の途上国同様すさまじいのですが人種同士の偏見と差別は少ないように感じました。
話をまた戻します。
日本人の米国への移民制限である日米紳士協定を結んだ翌年1908年、笠戸丸による第1回ブラジル移住が始まり、約800名がサンパウロ州コーヒー農園に入植しました。
その後、米国の排日移民政策の強化と共に、日本人移民は北米から南米へと向かい、国民の海外移住熱も高まりブラジル移住はこの後20年間急増していきます。
1924年には米国で排日移民法成立が成立し、日本人による米国への移民が完全禁止されたことにより、政府は初めて国策としてブラジル移民事業をスタートさせます。
(ちなみにこの排日移民法が反米感情を生じ、太平洋戦争につながったという人もいます。
1928年には大型・新鋭の南米移民船「さんとす丸」を就航させ日本政府、移民会社、船会社の連携によるブラジル移民事業が本格化していきます。1929年にはブラジル拓殖組合が設立され、ブラジルに自営開拓移民のための移住地が次々に建設され、1930年代にはブラジル移住は全盛期を迎えます。
サントスは首都サンパウロの港の名前です。 以前訪れた時、港に最初に到着した日本人の記念碑がありました。 今でも現地の日系人の間で最初の移民団の歴史には敬意を払っているとのことです。
1933年~1934年、ブラジルへの日本人移住者は年間2万人を超え、ヨーロッパ人の年間移住者より多くなり、日本人移住を制限する動きが活発化していきます。急増する日本人移民に対してブラジルは1934年「移民二分制限法」を成立させ、事実上日本人移民に門戸を閉ざしました。国策移住が確立してわずか10年。ブラジル国策移住も北米と同じように排日の嵐の中でその幕を閉じます。
その後、政府はパラグアイへの移民も始めようとしますが満州事変、第2次世界対戦となり移民の歴史が途絶えます。
南米のどの国も親日派ですが其の中でもブラジルは特別です。
そこには確実に日本人が認められ、日本文化が認められ、高い地位が確立されています。
当初は農業移住した移民、さらにまったくの原野に開拓移民として入植した移民はたいへんな苦労をしましたが、二世や三世が農地拡大、医療、技術、法曹、政界など多方面に進出するようになり、日系人の地位は高まりました。
もちろん、150万人日系人の間では勝ち組負け組が存在するのは事実ですが基本的に日本人は尊敬の目で見られています。
人口比に比例して社会的成功者が多いのが理由だと思います。。近年は混血がすすみ、純粋な日系人というより、三世以降はブラジルへの完全同化が進んでいます。
さて1941年の太平洋戦争開始により、アメリカ大陸(北米、南米)への移住は中止されました。ラテンアメリカ各国はアメリカ合衆国に同調し、対日国交断絶や宣戦布告をし、強制収容所に送還されたり、日本人財産の没収、日本語学校の閉鎖等の処置がなされ日系人の方々は大変な苦労をされてようです。
日本の戦後移住は日本が国際社会に復帰した翌年の1952年に民間主導で再開されました。この移住再開は、祖国日本の荒廃と飢餓状態を憂えたブラジル、アルゼンチン、パラグアイ等の南米日系社会が現地政府に日本人移住者枠を要請し、日本政府の渡航費の貸し付けで実現したものです。 その後日本政府は中南米各国(ラテンアメリカ)と移住協定を結び、海外移住を促進しました。移住協定を結んだ国はボリビア(1956年)、ドミニカ共和国(1956年)、パラグアイ(1956年)、ブラジル(1960年)、アルゼンチン(1961年)の5カ国ですがこれらの国には、日本政府により大規模な日本人集団移住地が建設されました。
1950~60年は移民ブームで、農業移民として最盛期は年間7,000人弱が渡航しましたが、日本の高度成長による国内労働力不足で移住ブームは終焉を迎えます。
戦後移住再開から1993年までの移住協定締結5カ国への移住者総数は、ブラジル5万人、パラグアイ7千人、アルゼンチン3千人、ボリビア2千人、ドミニカ共和国1千人と言われています。
戦前・戦後まもなく、海外移住した一世たちは当初「出稼ぎ」意識が強かったと思います。「成功して故郷に錦を飾る」ことを夢みて海を渡ったが、戦争や現地の事情などで帰国できず、多くのものはそのまま現地に定住しました。
中米、南米のどこの国に行きましても我々日本人に優しく尊敬の目で見てくれているのはそういう人たちの頑張りのおかげだといえるのではないでしょうか?
日本は完全に豊かな国になりましたが貧しかった時代我々の祖先が大変な思いをして家族を国を守ろうとした歴史を知るのは大切なことだと思っています。
次回は歴史から離れて建築の話に戻りたいと思いますのでどうぞお楽しみに!