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『 花びらの積もる道 』

 

第九章 京橋

 

 約束の日、順子は昼前の列車で岡山へ向かった。

 

 車内は空いていた。

 

 向かいの座席には、買い物袋を膝へ置いた女性が座っている。眠りかけては首を上げ、そのたびに窓の外を確かめた。

 

 順子は眠れなかった。

 

 四十数年ぶりに亨と会う。

 

 その言葉を頭へ浮かべると、二十二歳の亨が出てくる。白いシャツを着て、鉛筆を耳に挟んでいる。

 

 今日会うのは、六十八歳の亨である。

 

 順子は鞄から小さな鏡を出した。

 

 口紅は薄く塗ってきた。

 

 鏡を閉じたあと、どうして塗ったのだろうと思った。

 

 岡山駅へ着くと、路面電車に乗った。表町を過ぎた辺りで降り、旭川の方へ歩いた。

 

 京橋へ近づくにつれ、川からの風が強くなった。

 

 約束の時刻まで、まだ十分ほどある。

 

 橋の西詰に立ち、旭川を眺めた。広い川面に午後の光が散り、風が吹くたび細かな波が立っている。

 

 少し離れた場所に、亨がいた。

 

 現在の写真を見たわけではない。

 

 それでも、すぐに分かった。

 

 身体が細くなり、髪には白いものが増えている。背中も、わずかに丸くなっていた。

 

 ベージュ色の上着は、少し大きく見えた。

 

 亨も順子に気づいた。

 

 二人は動かなかった。

 

 信号が変わり、何人かが二人の間を横切った。

 

 先に歩き出したのは亨だった。

 

「久しぶりです」

 

 言ってから、目を伏せた。

 

「ええ」

 

 順子も、それだけ答えた。

 

 亨は順子の顔を見た。

 

「お元気そうで」

 

「その話をするために来たんじゃありません」

 

「分かってます」

 

 二人は川沿いの道へ移った。

 

 ベンチがあった。

 

 どちらも座らなかった。

 

「千穂は、明日まで仕事を休んでいます」

 

「会場の人から聞きました」

 

「小さな間違いが続いたそうです。日付を間違えたり、手紙を入れ忘れたり」

 

「電話で話したとき、いつもの千穂さんと違うと思いました」

 

「いつものあの子を、どれだけ知ってるんですか」

 

 順子の声が強くなった。

 

「すみません」

 

「謝らないでください」

 

 亨は口を閉じた。

 

 順子は川へ顔を向けた。

 

 会ってまだ数分だった。

 

 それなのに、昔と同じだった。亨が何か言えば腹が立ち、黙れば、なお腹が立つ。

 

「千穂は、私たちが付き合っていたと知ってから、何があったのか考え続けていました」

 

「僕が何も話さへんかったから」

 

「私も話しませんでした」

 

「でも、順子には話さへん理由があった」

 

「あなたにもあったでしょう」

 

 亨は答えなかった。

 

「また黙るんですね」

 

「何を言うても、言い訳になると思うて」

 

「黙れば、言い訳にならないんですか」

 

「そうやありません」

 

「あなたは昔からそうです。違うと言うだけで、何も決めない」

 

 亨は顔を上げた。

 

「そうやったと思います」

 

 順子は次の言葉を失った。

 

 言い返されると思っていた。

 

 若かった、怖かった、順子にも責任があったと言われるかもしれない。そう思い、言い返す言葉まで用意してきた。

 

 亨は順子から目をそらさなかった。

 

「あのときも、少し考えさせてほしいと言いました」

 

「覚えています」

 

「順子の身体には、時間がなかったのに」

 

「いまさら説明しなくても、分かっています」

 

「説明やありません」

 

 亨は肩に掛けた鞄へ手を入れ、白い封筒を出した。

 

「何ですか」

 

「手紙です」

 

 封筒には、

 

〈松山順子様〉

 

と書かれている。

 

「小坂と書かなかったんですね」

 

「いまの順子に書いたつもりです」

 

「渡せば、読んでもらえると思ってるんですか」

 

「分かりません」

 

 亨は封筒を両手で持ったまま、差し出さなかった。

 

「受け取るかどうか、順子が決めてください」

 

「いらないと言ったら?」

 

「持って帰ります」

 

「二度と渡さない?」

 

「順子が欲しいと言わへんかぎりは」

 

「私から欲しいと言うと思いますか」

 

「思いません」

 

「それでも、持ってきたのね」

 

「はい」

 

 順子は封筒を見た。

 

 受け取れば、亨の言葉を聞くことになる。

 

 受け取らなければ、何が書いてあったのかを考えるかもしれない。

 

 そのどちらも、気に入らなかった。

 

「受け取ります」

 

 順子は手を出した。

 

「でも、読むかどうかは私が決めます」

 

「はい」

 

「返事もしないかもしれません」

 

「それも、順子が決めることです」

 

 封筒を受け取り、鞄へ入れた。

 

 亨の手が、わずかに震えていた。

 

「手紙に書いたことを、ここでも言うつもりですか」

 

「言わなあかんと思ってます」

 

「私は、聞きたいとは言ってません」

 

「分かってます」

 

「分かってるなら、なぜ言うんですか」

 

 亨は旭川へ顔を向けた。

 

 橋の下を、小さな船が通っていく。船尾から白い波が広がり、しばらくして消えた。

 

「来なくてええと言われたから行かへんかったと、長いこと自分に言うてました」

 

 順子の胸の奥が固くなった。

 

「それは本当でしょう。私は来なくていいと言いました」

 

「でも、行かへんかった理由は、それだけやありません」

 

 亨は一度、口を閉じた。

 

 順子は待った。

 

「怖かったんです」

 

 亨が言った。

 

「順子の顔を見るのも、その日に何がなくなるのかを見るのも。順子の言葉に従うたんやなくて、その言葉を、自分が逃げる理由にしました」

 

 川の上を、一羽の鳥が低く飛んだ。

 

 順子は、その影が水面を渡るのを見ていた。

 

「その言葉を、あのとき聞きたかった」

 

「はい」

 

「四十数年後に聞くために、私は待っていたんじゃありません」

 

「分かってます」

 

「分かってると言わないで」

 

 亨は黙った。

 

「あなたには分からない」

 

「そうやと思います」

 

「そこは、否定しないんですね」

 

「分かると言うたらあかんと思って」

 

 順子は亨の横顔を見た。

 

 若い頃の亨も、よく黙った。

 

 あの頃の沈黙は、答えを先へ延ばすためのものだった。

 

 いまの沈黙が何のためなのか、順子にはまだ分からなかった。

 

「謝って、何を変えたいんですか」

 

「変えられるとは思ってません」

 

「では、自分が楽になりたい?」

 

「そういう気持ちがないとは言えません」

 

 順子は亨を見た。

 

「正直に言えば、許されると思ってるんですか」

 

「いいえ」

 

「ずいぶん、用意してきた答えね」

 

「何度も考えましたから」

 

「私は、考える時間をもらえなかったのよ」

 

「はい」

 

「また、はいと言う」

 

「ほかに、何と言うたらええか分かりません」

 

「昔と同じね」

 

「そうですね」

 

 亨は頭を下げた。

 

「一人で行かせて、すみませんでした」

 

 順子は亨の白くなった髪を見た。

 

 許すという言葉は浮かばなかった。

 

 長く待っていた謝罪を、ようやく聞いたとも思わなかった。

 

 ただ、四十数年前には言わなかった言葉を、亨がいま口にした。

 

「謝っても、戻りません」

 

「はい」

 

「私は許しません」

 

「分かってます」

 

「でも、聞きました」

 

 亨が顔を上げた。

 

「それで十分です」

 

「十分かどうかを、あなたが決めないでください」

 

「すみません」

 

 順子は息を吐いた。

 

「すぐに謝るのも、昔と変わってませんね」

 

「謝らん方がええですか」

 

「そういうことではありません」

 

 亨の口元が、わずかに動いた。

 

 順子も、鞄の持ち手を握る力を緩めた。

 

 許したわけではなかった。

 

 ただ、立ち続けていることに少し疲れた。

 

「座りませんか」

 

 順子が言った。

 

「はい」

 

 二人は、少し間を空けてベンチへ座った。

 

近くの欄干に、鳥人幸吉について書かれた案内があった。

 

 順子が目を向けると、亨も気づいた。

 

「ここから空を飛んだ人がいるそうですね」

 

「洋子さんから聞きました」

 

 名前を口にしてから、順子は亨の顔を見た。

 

「知っているんですか」

 

「花屋の洋子でしょう」

 

「ええ」

 

「鶴山公園で話したと言うてました」

 

 亨の言い方には、説明が一つ足りなかった。

 

「洋子さんと、お知り合いなんですか」

 

 亨は答えるまでに、少し間を置いた。

 

「妻です」

 

 順子は亨を見た。

 

「何ですって?」

 

「洋子は、僕の妻です」

 

 旭川から風が吹いた。

 

 順子は膝の上の鞄を押さえた。

 

「どうして、いままで言わなかったんですか」

 

「言う機会が」

 

「ありました。いま、ありました」

 

「順子が知ってるとは思わへんかったから」

 

「私が洋子さんの名前を出さなければ、言わなかったんですね」

 

 亨は返事をしなかった。

 

「また黙るんですか」

 

「すみません」

 

「洋子さんは知ってるんですか」

 

「何を?」

 

「私が誰なのか」

 

「知りません」

 

「鶴山公園へ行くと聞いても?」

 

「名字を聞いたかとは尋ねました」

 

「どうして、そのとき止めなかったんですか」

 

「止めようとはしました」

 

「何と言って?」

 

「石段が多いとか、人が多いとか」

 

 順子は亨を見た。

 

「そんなことで止まる人ですか、洋子さんが」

 

「止まりませんでした」

 

「でしょうね」

 

 順子は立ち上がった。

 

「帰ります」

 

「待ってください」

 

「千穂の話をするために来たのに、あなたはまた肝心なことを黙っていた」

 

「洋子のことと、千穂さんのことは」

 

「別だと言うんですか」

 

 順子は亨を見下ろした。

 

「私が洋子さんと花屋で話して、鶴山公園を歩いたことを、あなたは知っていたんでしょう」

 

「はい」

 

「洋子さんは、何も知らずに私へご主人の話をした。私は、その人があなただと知らずに聞いていた」

 

「申し訳ないと思ってます」

 

「思っていただけ?」

 

 亨は立ち上がった。

 

「言えば、洋子と順子が知り合うたことまで、壊してしまうと思いました」

 

「壊れるかどうかを、あなたが決めたんですね」

 

 亨は口を閉じた。

 

「四十数年前と同じです」

 

 順子は鞄を持ち直した。

 

「人のために黙ったような顔をして、決めるのはいつも自分なのね」

 

「そうです」

 

 亨が言った。

 

 順子は足を止めた。

 

「そうです、で済ませるんですか」

 

「済むとは思ってません。でも、そのとおりです」

 

「洋子さんに話すつもりは?」

 

「分かりません」

 

「まだ考えるんですね」

 

「私一人のことやありませんから」

 

「今度は、洋子さんのため?」

 

 亨は答えなかった。

 

 順子はベンチへ戻らず、欄干の前へ立った。

 

 鳥人幸吉の案内には、飛び立った場所と、空を飛ぼうとしたことが記されている。

 

 降りたあとのことは、わずかしか書かれていない。

 

「飛ぶところは、たくさんの人が見たんでしょうね」

 

 順子が言った。

 

「騒ぎになったそうですから」

 

「降りたあとのことは?」

 

「詳しくは分かりません」

 

「人は、飛び立つところは見ても、そのあとどこへ歩いていったかまでは見ないんですね」

 

 亨は何も言わなかった。

 

 順子は川を見た。

 

 風に押された水が、橋脚のところで二つに分かれている。

 

「千穂の話へ戻ります」

 

「はい」

 

「あの子は、私たちのことを知って、自分が生まれたときのことまで疑っています」

 

「自分が、ですか」

 

「失った子どもの代わりではなかったのかと」

 

 亨の顔がこわばった。

 

「違うんでしょう」

 

「違います」

 

 順子は、はっきり答えた。

 

「千穂は、夫との間に生まれた私の娘です。あの子が生まれたとき、あの子としてうれしかった」

 

「それを、千穂さんに言うたんですか」

 

「言いました。でも、あの子のことを思い出したこともあると言ったから、信じられなくなっている」

 

「嘘をつかへんかったんですね」

 

「嘘をつけばよかったと言うんですか」

 

「いいえ」

 

 亨は首を振った。

 

「僕からも話します」

 

「何を?」

 

「あのとき、順子が一人で決めるしかない場所から、僕が逃げたことを」

 

「それを聞けば、千穂が元に戻ると思うんですか」

 

「分かりません」

 

「では、なぜ話すの?」

 

「千穂さんが、順子の代わりに僕を責める必要はないから」

 

「責められるのが嫌なんですか」

 

「責められても仕方ありません」

 

 亨は川へ目を向けた。

 

「でも、それで千穂さんが仕事まで失うたら、また誰かに僕のしたことを持たせることになります」

 

 順子は亨の横顔を見た。

 

 若い頃の亨には、言えなかった言葉だろう。

 

 いまの亨だから言えるのだとしても、遅すぎることに変わりはない。

 

「三人で話しましょう」

 

 順子が言った。

 

「千穂さんが嫌がったら?」

 

「嫌かどうかは、あの子に聞きます」

 

 亨はうなずいた。

 

「僕らが決めることやありませんね」

 

「そういうことです」

 

「場所は?」

 

「千穂に聞きます」

 

「分かりました」

 

 二人は、再びベンチへ座った。

 

 先ほどより、間が少し広くなっていた。

 

「洋子さんには」

 

 順子が言った。

 

 亨の肩が動いた。

 

「私からは話しません」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼を言われることではありません」

 

「はい」

 

「でも、洋子さんに嘘をつくつもりもありません。聞かれたら、私は答えます」

 

「分かりました」

 

「あなたから話せとも、話すなとも言いません」

 

「はい」

 

「自分で決めてください」

 

 亨は苦い顔をした。

 

「それが、いちばん難しいですね」

 

「四十数年、考えたんでしょう」

 

「考えてただけでした」

 

「今度は、決めてください」

 

 順子は立ち上がった。

 

 亨も立った。

 

「駅まで送ります」

 

「結構です」

 

「路面電車の停留所まで」

 

「一人で行けます」

 

 昔なら、亨がついてくるか確かめるために、少しゆっくり歩いたかもしれない。

 

 順子は振り返らず、京橋を離れた。

 

 しばらく歩いてから、鞄の中の封筒へ手を触れた。

 

 受け取ったのは自分だった。

 

 読むかどうかは、まだ決めていない。

 

 その封筒のそばには、口紅と小さな鏡が入っていた。

 

 順子は鏡を出さなかった。

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『 花びらの積もる道 』

 

第八章 短い電話

 

 休暇の一日目、千穂は目覚まし時計を止めたあとも、布団の中にいた。

 

 眠っていたわけではない。

 

 仕事へ行く時間が過ぎ、いつもなら西川沿いを歩いている頃になっても、身体を起こせなかった。

 

 枕元の携帯電話には、職場からの連絡は入っていない。

 

 二日間は仕事のメールも見ないようにと、上司から言われていた。

 

 見てはいけないと思うと、見たいものだった。

 

 千穂は携帯電話を取り、職場のメールを開こうとした。暗証番号を入れるところで閉じた。

 

 展示会場で何か起きていないだろうか。

 

 亨の絵は無事に返されるだろうか。

 

 礼状は正しい宛先へ届くだろうか。

 

 引き継ぎに書き忘れたことはなかったか。

 

 仕事のことをやめようとすると、今度は母の部屋で見た封筒が浮かんだ。

 

〈費用の半分です〉

 

 半分とは、何の半分だったのだろう。

 

 金額を二つに分ければ、責任も二つに分かれるのか。

 

 母はその金を使わなかった。返しもせず、捨てもせず、千穂が生まれたあとまで持っていた。

 

 千穂は寝返りを打った。

 

 自分が生まれたとき、母は失った子どもを思い出した。

 

 そう聞いた瞬間から、昔の記憶まで違って見えた。

 

 熱を出した夜、母が朝までそばにいたこと。

 

 小学校の入学式で、父より先に泣いたこと。

 

 店へ連れていかれ、何枚も服を着替えさせられたこと。

 

「その色は、千穂には暗いわ」

 

 母はそう言って、次の服を出した。

 

 千穂は着替えるのが嫌で泣いた。

 

 あのとき母が見ていたのは、自分だったのだろうか。

 

 午前十時を過ぎた頃、順子から電話がかかってきた。

 

 千穂は画面を見たまま、すぐには出なかった。

 

 呼出音が切れた。

 

 しばらくして、もう一度鳴った。

 

「もしもし」

 

「今日は仕事でしょう」

 

 順子は挨拶より先に言った。

 

「休み」

 

「平日に?」

 

「休暇を取ったの」

 

「自分で?」

 

 千穂は答えなかった。

 

「仕事で何かあったのね」

 

「少し間違いが続いただけ」

 

「どんな間違い?」

 

「日付を一日間違えたり、礼状を入れ忘れたり」

 

「それで休まされたの?」

 

「休むように言われただけ。三日後には戻る」

 

 順子は黙った。

 

「私と亨のことを知ってから?」

 

「お母さんのせいだとは言ってない」

 

「でも、前にはなかったことでしょう」

 

「分からない」

 

「千穂」

 

「ほんまに分からんの。仕事をしてても、急に考えるから。お母さんは、どうして一人で病院へ行ったんだろうって。澤口さんは、そのあと普通に就職して、結婚したのかなって。お父さんは、何も知らずにお母さんと暮らしたのかなって」

 

 順子は何も言わなかった。

 

「知らん方がよかったのかもしれない」

 

 千穂が言った。

 

「でも、もう知ってしもうたから」

 

「そうね」

 

「どうしたら、知らなかったときみたいに戻れるの」

 

「戻れないわ」

 

 順子は静かに答えた。

 

 千穂は目を閉じた。

 

 大丈夫よ、と言ってもらいたかったのかもしれない。

 

 何が大丈夫なのかは分からなかった。

 

「でも、あなたが背負うことではないの」

 

「そう言われても、頭から出ていかない」

 

「分かってる」

 

「お母さんには分からんよ。お母さんは、ずっと知ってたんだから」

 

 順子は返事をしなかった。

 

「ごめん。もう少し寝る」

 

「何か食べなさい」

 

「あとで」

 

「冷蔵庫に何かあるの?」

 

「ある」

 

「何が?」

 

「知らない」

 

「それでは、ないのと同じでしょう」

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「電話、切るよ」

 

「そう」

 

 千穂は電話を切った。

 

 順子は津山の部屋で、消えた画面を見ていた。

 

 娘に話さなかったのは、守るためだと思っていた。

 

 自分の過去は自分の中に置いておけばよい。夫にも、娘にも、持たせる必要はない。

 

 だが、偶然知った千穂は、事実だけを渡され、その置き場所を持っていなかった。

 

 順子は寝室へ入り、段ボール箱の前へ座った。

 

 底をテープで留めた箱には、古い封筒と手帳が戻してある。

 

 亨から送られた金も、そのままだった。

 

 箱の蓋を開けた。

 

 封筒を取り出しかけ、戻した。

 

 亨に会いたいとは思わない。

 

 許すつもりもなかった。

 

 順子は箱を閉めた。

 

 立ち上がると、膝にテープの切れ端がついていた。指で取り、屑籠へ捨てた。

 

 岡山では、その日の午後、展示の撤去が行われた。

 

 亨は指定された時刻に表町の会場へ出向いた。

 

 自宅へ届けてもらう予定だったが、朝になってから、自分で取りに行くと連絡した。

 

 会場では、千穂の後輩が作品を包んでいた。

 

「お世話になりました」

 

 亨が声をかけると、後輩は手を止めた。

 

「こちらこそ、ありがとうございました。アンケートでも、澤口さんの絵がよかったという声が多かったです」

 

「松山さんは?」

 

 尋ねてから、仕事を外れた質問だと思った。

 

「昨日からお休みです」

 

「体調を崩しはったんですか」

 

「少し疲れてるみたいで。展示が始まる前から、ずっと忙しかったですから」

 

 後輩は、それ以上話さなかった。

 

 亨も聞けなかった。

 

 包まれた絵を抱え、表町商店街を歩いた。

 

 少し先に、洋子の働く花屋がある。

 

 店先で、洋子が若い店員と花の器を動かしていた。

 

 亨に気づくと、手を上げた。

 

「絵、取りに来たの?」

 

「うん」

 

「もう終わったんやね」

 

「今日で」

 

「あとで、ゆっくり見せて」

 

 洋子は店員に呼ばれ、奥へ戻った。

 

 店先の花は、白と薄い桃色だった。

 

 少し離れたところに、黄色い花が一鉢置かれている。

 

 順子が動かしたのだろうか。

 

 洋子が自分で動かしたのだろうか。

 

 亨には分からなかった。

 

 亨は絵を抱え直し、その場を離れた。

 

 家へ帰ると、絵を二階へ運んだ。

 

 机には、宛名だけを書いた便箋が伏せてある。

 

〈松山順子様〉

 

 亨は便箋を裏返した。

 

 手紙を書くことばかり考えていた。

 

 書けば、自分の言いたいことを相手へ送れる。

 

 順子が読みたいかどうかは、書き終えてから考えるつもりでいた。

 

 それでは、四十数年前と変わらない。

 

 自分の時間で考え、順子の時間を待たせる。

 

 亨は便箋を引き出しへ戻した。

 

 その頃、順子は岡山市役所の代表番号へ電話をかけていた。

 

「移住された方の展示について、お尋ねしたいのですが」

 

「どのようなことでしょうか」

 

「出展されていた澤口亨さんへ、伝言をお願いできますか」

 

「個人の連絡先はお伝えできませんが、こちらからご本人へ確認することはできます」

 

「それで結構です」

 

「お名前を伺ってもよろしいですか」

 

 順子は一度、息を吸った。

 

「松山順子です」

 

 小坂ではなく、いまの姓を名乗った。

 

「澤口さんに、千穂のことで話があります、と伝えてください。私の電話番号を渡していただいて構いません」

 

 職員が番号を復唱した。

 

 順子は一つずつ聞いた。

 

 最後の数字だけ、職員が間違えた。

 

「そこは、七です」

 

「失礼いたしました。七ですね」

 

「はい」

 

 電話を切ると、順子はダイニングテーブルの前へ座った。

 

 自分の電話番号なのに、紙へ書いて確かめた。

 

 間違っていなかった。

 

夕方近く、市役所から亨へ連絡が入った。

 

「松山順子さんから、伝言をお預かりしています」

 

 亨は椅子から立ち上がった。

 

「千穂さんのことで、お話があるそうです」

 

 職員が電話番号を読み上げた。

 

 亨は机にあった紙へ書いた。

 

 最後の数字は七だった。

 

「もう一度、お願いします」

 

 数字を一つずつ復唱した。

 

「以上で間違いありません」

 

「ありがとうございます」

 

 電話を切った。

 

 紙を机へ置いた。

 

 四十数年前、順子の実家の番号は暗記していた。公衆電話から何度もかけた番号だった。

 

 手帳を見なくても、指が勝手に動いた。

 

 いま目の前にあるのは、松山順子の番号である。

 

 亨は受話器を取った。

 

 一度置いた。

 

 もう一度取った。

 

 数字を押すと、呼出音が鳴った。

 

 一度目。

 

 二度目。

 

 三度目で、順子が出た。

 

「もしもし」

 

 四十数年ぶりに聞く声だった。

 

 若い頃より低く、落ち着いていた。

 

 それでも、順子の声だと分かった。

 

「澤口です」

 

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

 

「連絡をいただいたと聞きました」

 

「千穂が、仕事を休まされました」

 

「今日、会場で聞きました」

 

「私たちのことを知ってから、間違いが続いているそうです」

 

「そうですか」

 

「そうですか、だけ?」

 

 亨は受話器を握り直した。

 

「すみません」

 

「私に謝るんですか」

 

「いや」

 

「では、誰に?」

 

 亨は答えられなかった。

 

「このままにはできません」

 

「はい」

 

 順子は黙った。

 

 亨が次に何を言うか、待っている。

 

 昔も、順子は待った。

 

 亨は考えると言った。

 

 考えている間にも、時間は過ぎていた。

 

「会うて、話せませんか」

 

 亨が言った。

 

 電話の向こうで、順子が息をした。

 

「千穂のためです」

 

「分かってます」

 

「岡山で会います。あの子を呼ぶ前に、二人で話しましょう」

 

「どこにしますか」

 

「旭川の京橋の近くで」

 

「分かりました」

 

「明後日の午後二時」

 

「行きます」

 

 用件は、それだけだった。

 

 元気だったかとは聞かなかった。

 

 結婚したことも、夫を亡くしたことも、洋子と暮らしていることも、互いに知っていた。

 

 知っているだけで、何も尋ねなかった。

 

「では、明後日に」

 

 順子が言った。

 

「はい」

 

 亨は受話器を置かなかった。

 

 順子も切らなかった。

 

 電話の向こうから、ごく小さな音が聞こえた。

 

 時計か、冷蔵庫か、順子が指で何かを触っている音かもしれない。

 

「何か?」

 

 順子が言った。

 

「いや」

 

「では、切ります」

 

「はい」

 

 電話が切れた。

 

 通話時間は、二分四十七秒だった。

 

 亨は受話器を置いた。

 

 四十数年前、順子の母に長電話を叱られた夜、二人は一時間近く話していた。

 

 何を話したのかは、ほとんど覚えていない。

 

 母親の声が途中へ入ったことだけは、二人とも覚えていた。

 

 順子は津山の部屋で、携帯電話をテーブルへ置いた。

 

 画面には、登録していない番号が残っている。

 

 澤口亨。

 

 名前を登録する必要はなかった。

 

 明後日に会えば、そのあと電話をすることはない。

 

 順子はそう思った。

 

 番号を消そうとして、指を止めた。

 

 消すのは、会ってからでよい。

 

 台所へ行き、湯を沸かした。

 

 茶葉を入れすぎ、濃い茶になった。

 

 一口飲んだが、淹れ直さなかった。

 

 岡山では、亨が二階から下りてきた。

 

 洋子は居間で、新聞を畳んでいた。

 

「電話、長かった?」

 

「いや」

 

「誰から?」

 

 亨は少し間を置いた。

 

「市役所から」

 

「絵のこと?」

 

「うん」

 

 嘘ではなかった。

 

 市役所から電話はあった。

 

 そのあと、誰へ電話したかを言わなかっただけである。

 

「お茶、飲む?」

 

「いや、ええ」

 

「今日は、いらん日なんやね」

 

 洋子は立ち上がり、自分の湯呑みだけを台所へ運んだ。

 

「洋子」

 

「何?」

 

「明後日の午後、出かけるから」

 

「どこへ?」

 

「京橋の方」

 

「絵を描きに?」

 

 亨は洋子の背中を見た。

 

「人に会う」

 

 洋子が振り返った。

 

「市役所の人?」

 

「そうや」

 

 今度は、嘘だった。

 

「分かりました」

 

 洋子は台所へ入った。

 

 流しへ置いた湯呑みを、すぐには洗わなかった。

 

 亨は食卓へ座った。

 

 自分の前には、空の湯呑みさえなかった。

 

 明後日、四十数年ぶりに順子と会う。

 

 そのことを考えると、若い頃の顔ばかりが浮かんだ。

 

 いま会うのは、小坂順子ではない。

 

 夫を亡くし、娘を心配して、自分へ連絡してきた松山順子だった。

 

 亨は机に残した電話番号を思い出した。

 

 最後の数字は七である。

 

 忘れないようにと何度も復唱したため、ほかの数字より強く残っていた。

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『 花びらの積もる道 』

 

第七章 知ったあと

 

 千穂がマンションへ戻ったのは、一時間ほどたってからだった。

 

 順子は夕食の支度をせず、ダイニングテーブルの前に座っていた。

 

 床に散らばったものは箱へ戻した。亨から届いた封筒だけが、テーブルの端にある。

 

 玄関の扉が開いた。

 

「お帰り」

 

 順子が言った。

 

 千穂は返事をせず、上着を脱いだ。

 

「夕食は?」

 

「いらない」

 

「お昼も、あまり食べてないんでしょう」

 

「食べたくない」

 

「何か少しだけでも」

 

「いらないと言ってるでしょう」

 

 千穂は寝室へ行こうとしたが、テーブルの封筒を見て足を止めた。

 

「どうして、あのお金を持ってたの」

 

 順子は封筒へ目を向けた。

 

「使えなかったから」

 

「返さなかったの?」

 

「返せば、また亨と話さなければならなかった」

 

「捨てることもできたでしょう」

 

「できなかった」

 

「ずっと持ってたんだ」

 

「そうね」

 

 千穂は椅子を引き、順子の向かいへ座った。

 

「お母さんは、澤口さんをいまも憎んでるの?」

 

「憎んでると言えば、分かりやすい?」

 

「分からんから聞いてるの」

 

「許してはいない」

 

「同じことでしょう」

 

「同じではないわ」

 

「どう違うの」

 

 順子は答えなかった。

 

 封筒の表には、小坂順子と書いてある。

 

 夫と暮らした年月より前の名前だった。

 

「亨のことを考えながら生きてきたわけじゃないの」

 

「でも、名前を聞いただけで、あんなふうになったでしょう」

 

「忘れていたわけではないから」

 

「お父さんと一緒にいたときも?」

 

「あなたのお父さんと暮らしたことと、亨とのことは別よ」

 

「お父さんは知らなかった」

 

「ええ」

 

「それで、本当に別と言えるの?」

 

「言えるわ」

 

 順子は娘から目をそらさなかった。

 

「あなたのお父さんとの暮らしは、代わりではなかった。あなたも、あの子の代わりではない」

 

「あの子って言うんだ」

 

 千穂の声が震えた。

 

 順子は口を閉じた。

 

 性別も知らなかった。

 

 顔も、声も知らない。

 

 名前もつけなかった。

 

 それでも、心の中では長い間、あの子と呼んでいた。

 

「名前はなかったの?」

 

「なかった」

 

「考えたことは?」

 

「ないわ」

 

「一度も?」

 

「ない」

 

「どうして?」

 

「考えたら、名前ができるでしょう」

 

「そうでしょうね」

 

「名前をつける前に、いなくなったの」

 

「いなくしたんでしょう」

 

 順子の手が、膝の上で動いた。

 

 千穂も、自分の言葉に気づいたらしい。だが、言い直さなかった。

 

「そうね」

 

 順子が言った。

 

「そういう言い方もできるわね」

 

「お母さん」

 

「あなたが間違っているとは言ってないのよ」

 

 順子は立ち上がった。

 

「何か食べるものを作るわ」

 

「いらない」

 

「私が食べるの」

 

「さっきまで何もしてなかったのに?」

 

「あなたが帰ってくるかもしれないと思ったから」

 

「帰ってこなかったら?」

 

「食べなかったかもしれない」

 

「それで、私には食べろと言うの?」

 

「親は勝手なものよ」

 

 順子は冷蔵庫を開けた。

 

 豆腐と卵と、半分残った葱があった。

 

「お味噌汁でいい?」

 

「いらないと言ってるでしょう」

 

「二人分作るわ」

 

 返事はなかった。

 

 順子は鍋へ水を入れた。

 

 出汁を取っている間、背中に千穂の視線を感じた。

 

「今日は休みなさい」

 

「朝一番で帰る」

 

「仕事は?」

 

「休んでる場合じゃない」

 

「だからこそ、休んだ方がいいんじゃないの」

 

「お母さんに言われたくない」

 

 千穂は立ち上がり、寝室へ入った。

 

 扉は閉めなかった。

 

 味噌汁ができると、順子は二つの椀へよそった。

 

 一つを寝室の前へ置いた。

 

「ここへ置いておくわよ」

 

「いらない」

 

「冷めたら、おいしくなくなるから」

 

「いらないって」

 

「分かった」

 

 順子は椀を下げなかった。

 

 自分の分を食べ終え、食器を洗った。

 

 寝室の前を通ると、椀は空になっていた。

 

 順子は黙って台所へ運んだ。

 

 翌朝、千穂は始発に近い列車で岡山へ戻った。

 

 市役所へ着くと、誰もいない机で前日の書類を確かめた。日付、宛名、添付資料。一つずつ指で追った。

 

 確認に時間をかけたため、朝の打ち合わせに遅れそうになった。

 

「松山さん、昨日は休めましたか」

 

 上司に聞かれた。

 

「はい。ご迷惑をおかけしました」

 

「今日は大丈夫?」

 

「大丈夫です」

 

 その言葉を口にした途端、不安になった。

 

「たぶん」

 

 付け加えると、上司は何も言わず千穂を見た。

 

 午前中、展示会場から絵の返却について連絡が入った。

 

 展示は予定どおり週末に終わる。作品を持ち主へ直接返すか、市役所で預かるかを確認しなければならない。

 

 千穂は出展者の一覧を見た。

 

 澤口亨。

 

 電話番号の横に、〈自宅返却希望〉と書かれている。

 

 メールでも確認できた。

 

 千穂は受話器を取った。

 

 三度鳴って、亨が出た。

 

「澤口です」

 

「岡山市役所の松山です」

 

「ああ、千穂さん」

 

 名前で呼ばれたことに、胸の奥が反応した。

 

「展示作品の返却について、確認のお電話です。ご自宅へお持ちすることになっていますが、来週の火曜日でよろしいでしょうか」

 

「ええ。時間はいつでもかまいません」

 

「午後二時頃に伺います」

 

「お願いします」

 

 仕事の話は終わった。

 

 千穂は受話器を置かなかった。

 

「澤口さん」

 

「はい」

 

「母から聞きました」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「何を、ですか」

 

「分かってるでしょう」

 

 亨は答えなかった。

 

「母が妊娠したことも、一人で病院へ行ったことも」

 

「そうですか」

 

 それだけだった。

 

 千穂は受話器を握り直した。

 

「それだけですか」

 

「電話で話すことやないと思います」

 

「母にも、私から話すことではないと言いましたよね」

 

「はい」

 

「二人とも、話すことじゃないと言って、ずっと誰にも話さなかった」

 

「千穂さん」

 

「母に、来なくていいと言われたから、本当に行かなかったんですか」

 

 受話器の向こうで、亨が息をした。

 

「そうです」

 

「どうして?」

 

「あのときの僕は、順子の言葉に従うたつもりでした」

 

「いまは?」

 

 亨はしばらく答えなかった。

 

「行くのが怖かったんやと思います」

 

「思います、なんですね」

 

「四十数年前の自分が何を考えてたのか、いまとなっては、きれいには説明できません」

 

「母は、きれいに説明できないことを、ずっと一人で持ってたんですよ」

 

「分かってます」

 

「分かってたら」

 

 その先が出なかった。

 

 亨に何を言わせたいのか、自分でも分からなかった。

 

 謝ってほしいのか。

 

 母に会ってほしいのか。

 

 今の暮らしが壊れるほど、後悔してほしいのか。

 

「火曜日の二時に、絵をお持ちします」

 

 千穂は仕事の声へ戻した。

 

「分かりました」

 

 電話を切った。

 

 受話器を置いたあと、メモ用紙へ〈火曜日 二時〉と書いた。

 

 日付も書いた。

 

 その下にもう一度、〈火曜日 二時〉と書いた。

 

午後、千穂は出展者への礼状を印刷した。

 

 一枚ずつ宛名を確かめ、封筒へ入れた。三度見直してから、庁内の発送箱へ運んだ。

 

 席へ戻ると、机の上に亨宛ての礼状だけが残っていた。

 

 封筒の数を間違え、亨の分を入れていなかった。

 

 千穂は礼状を持ち、もう一度発送箱へ向かった。

 

 廊下の途中で、上司に呼び止められた。

 

「松山さん」

 

「何でしょう」

 

「昨日、帰ってもらった理由を覚えていますか」

 

「これは、入れ忘れただけです」

 

「それが続いているんでしょう」

 

「次から気をつけます」

 

「次が来る前に、休んでください」

 

「仕事はできます」

 

「できるかどうかを、いま自分で決めない方がいい」

 

 千穂は礼状を持ったまま立っていた。

 

「明日から三日、休暇を取ってください」

 

「展示が終わる前です」

 

「ほかの人に任せます」

 

「私の担当です」

 

「松山さんにしかできない仕事ではありません」

 

 千穂は礼状を見た。

 

〈澤口亨様〉

 

 宛名は間違っていなかった。

 

 日付も、文章も合っている。

 

 ただ、封筒へ入れ忘れただけだった。

 

「分かりました」

 

 礼状を上司へ渡した。

 

「これも、お願いできますか」

 

「預かります」

 

 上司は受け取った。

 

 席へ戻り、必要な引き継ぎを書き始めた。

 

 読み返すと、〈展示終了後〉と書くところを、〈展示終了語〉と変換していた。

 

 直した。

 

 次に読むと、別のところが気になった。

 

 何度見直しても、自分の文章が合っているのか分からない。

 

「松山さん」

 

 上司が席から声をかけた。

 

「もう、それで大丈夫です」

 

「まだ途中です」

 

「続きはこちらでします」

 

「でも」

 

「引き継ぎのために、帰れなくなっていますよ」

 

 千穂は手を止めた。

 

 鞄へ書類を入れようとして、これは持ち帰ってはいけないものだと気づいた。机へ戻し、代わりに空のファイルを鞄へ入れた。

 

 何のために入れたのか分からず、それも取り出した。

 

「お先に失礼します」

 

 周囲の人が顔を上げた。

 

「お疲れさまでした」

 

 いつもと同じ挨拶だった。

 

 千穂は、それがかえってつらかった。

 

 同じ日の夕方、亨は烏城公園のベンチに座っていた。

 

 朝から曇っていた空が、旭川の上でさらに暗くなっている。

 

 スケッチブックを開いたものの、何も描かなかった。

 

「母は、きれいに説明できないことを、ずっと一人で持ってたんですよ」

 

 千穂の声が残っていた。

 

 亨は順子が東京で結婚し、娘を産み、店を営んだことを、千穂から聞いて初めて知った。

 

 順子が幸せだったのなら、それでよかった。

 

 そう思いかけた。

 

 鉛筆を指の間で回し、止めた。

 

 順子が幸せなら、あの日の自分が少し軽くなる。順子が不幸なら、自分のしたことが重くなる。

 

 どちらにしても、順子の人生を自分の秤へ載せている。

 

 亨はスケッチブックを閉じた。

 

 橋の方から、仕事帰りの人たちが歩いてくる。

 

 千穂も毎日、この町で働いている。

 

 亨は、千穂が仕事で間違いを重ねていることを知らなかった。ただ、電話の声が、最初に市役所で会った人のものとは違っていた。

 

 立ち上がり、市役所の方角を見た。

 

 行って、何を言うのか。

 

 千穂に謝るのか。

 

 順子に会わせてほしいと頼むのか。

 

 また考えようとしている。

 

 四十数年前も、そうだった。

 

 病院へ来なくていいと言われたとき、順子は本当に来るなと言ったのではないかもしれない。

 

 そう思った。

 

 だが、行って拒まれるのが怖かった。

 

 行けば、自分がしたことを、病院の廊下や消毒薬の匂いの中で見なければならない。

 

 だから、順子の言葉に従った。

 

 従うという形で、逃げた。

 

 亨は家へ戻った。

 

 玄関を開けると、煮物の匂いがした。

 

「お帰り」

 

 台所から洋子の声がした。

 

「ただいま」

 

「今日は遅かったね」

 

「公園におった」

 

「絵は描けた?」

 

「いや」

 

「何しに行ったの」

 

「考えごと」

 

「家でもできます」

 

「家やと、時計が気になるから」

 

「外でも腕時計を見てるでしょう」

 

 洋子が台所から顔を出した。

 

「この頃、考えごとばかりやね」

 

「そうやな」

 

「考えて、何か決まりました?」

 

「まだ」

 

「考えるのが好きなんやね」

 

「そうやない」

 

「決めへんで済むから、考えてるんやないの?」

 

 亨は靴を脱ぐ手を止めた。

 

 洋子はもう台所へ戻っていた。

 

「ご飯、もうすぐできます」

 

「ああ」

 

「今日は肉じゃがです」

 

「そうか」

 

「嫌?」

 

「いや」

 

「返事が短いから」

 

 亨は居間へ入り、鞄を置いた。

 

 食卓には二人分の箸が並んでいる。

 

 自分の箸の先が、少しだけ洋子の方へ向いていた。

 

 亨はまっすぐに直した。

 

 台所から洋子が出てきた。

 

「何してるの?」

 

「箸が曲がってた」

 

「それくらいで、ご飯の味は変わりません」

 

 洋子は肉じゃがの鉢を食卓へ置いた。

 

 じゃがいもの一つが、煮崩れていた。

 

「それ、私が食べます」

 

「どうして?」

 

「崩れたから」

 

「僕でええよ」

 

「きれいな方がええでしょう」

 

「どっちでも同じや」

 

「ほな、崩れた方をどうぞ」

 

 洋子は煮崩れたじゃがいもを亨の小鉢へ入れた。

 

 亨は箸を取った。

 

 形は崩れていたが、味はよく染みていた。