研修やワークショップに参加することが多いけれど、
学びに集中できるときと、コンテンツに集中できず
ざらざらした気持ちになるときがある。
それは研修に限らず、人と接しているときにも、起こる。
心の中で何が起こっているのか?考えてみた。
「この人はなにを気付かせたいのだろう?」
「この場はなにを学ばせたいのだろう?」
「何の目的でこの研修はつくられたのだろう?」
こんな風に、不信感や疑いを持ってしまったときに
そんな気持ちになる気がする。
「これに気付かせたい」
「こう感じさせたい」
「この回答にもっていきたい」
という操作性を感じてしまった瞬間に、講師や相手への不信感が起こる。
自分は自分の感じ方があるし、自由にさせてくれとおもっちゃう。
ああ、わがままである。
そんなことを気にせずに素直に学び、すなおに受け容れたいたいものだと思う。
とはいえ、感じてしまうものは仕方ないのだ。
自分でも研修を企画することがあって、
もちろん「意図」をもって企画するわけだけども、
参加者にたいして操作的に関わってはいないか。問いたいと思う。
安心して、自由に、素直に、思考の枠をはずして、勇気を持って
学べる場をつくりたい。
最近の願いです。
学びに集中できるときと、コンテンツに集中できず
ざらざらした気持ちになるときがある。
それは研修に限らず、人と接しているときにも、起こる。
心の中で何が起こっているのか?考えてみた。
「この人はなにを気付かせたいのだろう?」
「この場はなにを学ばせたいのだろう?」
「何の目的でこの研修はつくられたのだろう?」
こんな風に、不信感や疑いを持ってしまったときに
そんな気持ちになる気がする。
「これに気付かせたい」
「こう感じさせたい」
「この回答にもっていきたい」
という操作性を感じてしまった瞬間に、講師や相手への不信感が起こる。
自分は自分の感じ方があるし、自由にさせてくれとおもっちゃう。
ああ、わがままである。
そんなことを気にせずに素直に学び、すなおに受け容れたいたいものだと思う。
とはいえ、感じてしまうものは仕方ないのだ。
自分でも研修を企画することがあって、
もちろん「意図」をもって企画するわけだけども、
参加者にたいして操作的に関わってはいないか。問いたいと思う。
安心して、自由に、素直に、思考の枠をはずして、勇気を持って
学べる場をつくりたい。
最近の願いです。