私がある種の記憶力に興味を抱いたのはきっかけは平成生れの私から見て、昭和初期までの、現代人には忘れ去られた日本人の優秀さと格別した倫理を意識してからである。
この世にまだ文字というものがなかった頃、人々は今日のように自分が書き残したものに頼ることがないために、途方もないほど物覚えが卓越していた。今の人から考えてみればそれはさぞ不便で苦労したかと思われるが、文字なき世には文字なき世の情があり、事実は寧ろ過度に制限された今日の時代を生きる人には想像することも難しい。
何世紀にもわたって守るべき書物、例えば聖典、哲学書また国家の法律や他の民族には漏らしてはいけない秘術は口頭によって代々途絶えることなく伝えられてきた。
精神という普遍の力の一部が記憶であり、それを呼び起こすための想像力が記憶力の本体である。そこにはその場限りの記憶術というテクニックは存在する余地もなかった。
このような時代には託するものがないがゆえに皆精神を働かせ、それが知識とは正反対の知恵の創造に繋がった。何となれば
創造にこそ神が宿るからである。
しかし印刷技術の始まりとともに同じ本が何万部も印刷可能となったために口伝の必要性はなくなり、またその真義を見失った。
デジタルネイティブの世代を生きる今日の人からすれば、文字にかかわらずネットやTVあらゆる媒体を頼ることが出来るために態々精神を働かせることはなくなりその力はただ鈍磨するばかりである。
また知恵とは正反対の知識を所有することが非常に容易になり、
断絶した事実を沢山所有するものが賢いと見做されるようである。
余談であるが、
【先の大戦、日本国は軍人のみならず、学生までも戦争に参加しなければならなかった。勿論、各帝国大学の学生も例外ではなく、
文系の者は敵国の言語に非常に精通している場合、理系出身者であれば軍事に関する開発に携わることが出来る者を除いて多くが容赦なく動員された。
ここで表側の優等生とは対照的に、言ってみれば超能力とも表現される能力を駆使する、一定のまとまった集団を養成する裏側の機関があった。本質的に優秀な者を育てるためであり
同盟国側は、亜米利加や英国よりも強力な国、というより不利な戦況を変えることが出来る人達、との接触が勝利するためにはどうしても必要であったからである。文字通りの総力戦でそこでは様々な訓練やESP開発、戦局を左右する盤外戦が行われていたが、その数多くある1つに、一般的な本ではないがページを文字のみならず、挿絵まで目に焼付けそれを白紙に0から手書きで再生させるということが行われた。
ただこうした秘境的なことは日本よりドイツの方が恐らく先進的で日本のホツマツタヱやヘシオドスが書いた神統記
旧約聖書や解説書であるタルムード、また純粋エッセンスとしてのカバラ哲学に対する深度の差かもしれぬがそれは国の危急存亡を背とした狂気の体現と表現されるべきかもしれない。】
日本には世界にも通用する南方熊楠という至高の天才がいる。
彼は幼いころから図書館や書店で書物を記憶して自宅に帰った後それを隅々までゼロから再現させることが出来たらしい。これは上記にも共通しているが、割合、一部の人が出来る特別なことではなかった。普通に大正時代、昭和初期の市井の人々も同じ事を行っており、こうした人達の存在がきっかけで、私もよく文章の
密度にもよるが白紙に本の、上から下、左から右にと書く。それには集中力より観察力が要求される。精度は発展途上で純粋長期記憶には1000文字20分かかるといったところだが黙読はその特有の欠点のためにあまりしない。
確かに今の時代には今の時代の良さがあるだろうまた、テストの点数を取ることに関しては平成の者が優るであろうが、本質的な能力の部分を加味すればそうした時代を生きた人達(今の80、90代以上)に軍配が上がると私は考えている。
一条の光が夜の闇を貫いて煌煌と輝く美しさの中に生きた畏敬の念を抱かせる先人達を経験することは、今という時を通じている。だけど時空間の幻想さえ克服すれば当時でもいいのである。