精神と脳髄の運動は並行しているか?
前世紀の初頭精神と脳髄は並行していると考えられていた。
科学というのは実はある意味最近始まった風潮みたいなもので例えば経験科学に就いては人は誰でも昔からやっていたものでところが今日の科学的経験、勿論それは科学的方法を伴うが、全く同じものを指示してはいない。前者の経験は様々な創造的、道徳的また非合理的経験を含むものである。今日、科学が扱うことができる範囲は合理的で計量可能な経験に明らかに絞っている。そのために人間が体験する広大な領地が満足に探求されてはいない。
しかし科学は勘定できる目に見える計算可能な道に絞ったことでより速く発達することが出来たという側面もある。このために天文学、力学それが物理学になり生物学そして化学と変遷してきた。これらに流れる共通の哲理ははっきり計算できることが法則であり、それは2対のコンスタントな恒常的な関係の支配下にある。
ところが心理学などに代表されるよう精神の領域は同じ方法を用いることはできない。なぜなら計測することはできない、つまり悲しみや喜びを0から10で客観的に表現することなんて当時は出来なかった今もそうだろう。(なるほど確かにそれを脳に求めれば可能かもしれないがそれは脳科学として別にあるし、抽象度如何によっても変わるだろう。)そこで科学は一旦中枢としてまた代用として脳に置き換えた。仮説として分化される脳の分子としての運動を精密に数学的に表現できれば最終的に精神という牙城にあたることが出来るということだ。
この仮説が本当であれば無駄という表現に尽きるだろう。なぜなら1つのことを表現するのに精神と脳の2つを必要とし一方では脳内の運動に翻訳され、もう一方では意識としての言葉に二重に翻訳されるからである。推し進めれば人類の脳の進化を辿れば精神自体淘汰されてもおかしくはない。しかしそうはなっていない。なぜか?例えばすでに特定されている脳内の言葉を発する局所さえ破壊されてしまえば人は容易く失語症になるし母国語さえも簡単に失う。人は物事を「忘れる」という表現するがこれは誤りである。若し並行しているならばその記憶は永遠に戻ってこないし思い出すということはできない。厳密には記憶それ自体が破壊されるのではなく、思い出そうとする中枢のメカニズムの損傷によるものである。
脳と精神はある意味監督と俳優のようだ。一見俳優が舞台上で現実に向かい何か科白を吐いている。しかしそれは監督が現実に向けられたものである。だから俳優なんてのは現実には見えない監督の指揮下にあり現実世界と意識をつなぐ役割を果たす物理的な存在でしかない。
あなたは走馬燈なるものを見たことがあるだろうか?まず見るとすれば非常な緊張状態だろう。例えば高い崖から落ちる時、その最中、銃を向けられた時等々そうした時、連続的に現実世界との関係を失い、精神は時間を圧縮しその人が経験した事柄を連続的且つ高速で映す。【時間を圧縮するとは個々人の能力に従うもので皆、同じ24時間というのは嘘っぱちである。だから同じ教室で一斉に講義を受講し理解に差があるのはIQの差或いは脳波に依存する1秒あたりの思考時間の差であり、ある人は1秒であるしまた別の人は15秒それ以上と悲しいほどの差があるものである。話を戻そう。】これはそうした時緊急事態によるもので常時できるわけでもまた意識したからと言ってできる芸当ではない。脳髄とは人が必要な時に必要な事柄を引き出すために重要な注意を現実世界に向ける器官と表現されるだろう。上記の如く忘れるは誤りと書いたのはそれを意味している。その気になれば、例えば、5年前の朝食は何であったか、幼稚園で3番目に会話した人とその内容、中学時代の社会科の歴史の授業の板書の全部など…実は悉く記憶している。
あなたは覚えていないと謂うのだろう。それは当たり前で忘れる、つまり思い出せないというのは実は恩寵ともいえることで、万が一出来るつまり並行関係の逸脱、といのなら社会生活を困難にさせるに違いない。アンフォゲッタブルな人もいるがそれが活かされるは意外かもしれないがほとんどないものだ。考えればわかるが、忘れることが出来ないというのは本当に拷問でしかない。自己の歴史が細部にわたってそれが何であれ所謂フラッシュバックされるからである。アンフォゲッタブルには及ばないが、異常ともいえる記憶力は通常思考力が犠牲になっており、先天的に優れているクラスに何人かいる(いた)暗記一辺倒さんは遅かれ早かれ、受験までの人かもしれない。まあ使い方によっては長者にでもなるのだが私はあまり見たことがない。
さて、前置きが長くなったがここからが本題である。確かに共通認識としての忘れるということは人間にとって重要でその存在を嘆いてばかりはいられない。然しながら受験するに当たって記憶力、想起する力というのは改めて主張される必要がないほどに重要である。後天的にでも異様ともいえる記憶力を、思考力を維持しながら手に入れることは出来るだろうか?記憶力といったところでどの程度を想定するだろうか?それは当然小説を全文暗記するとか円周率万桁を可能ならしめるレベルである。
例えば、福音書という世界中で読まれているものは確か翻訳にもよるが、たった205,010文字以上205,700文字以下しかないで。本一冊取って見ても1頁1行40文字約20行として原稿用紙2枚分である。因みに科挙はこの倍以上暗記しなければならないが。一字一句正確に暗記するにはなるほど確かに最初こそ労力を伴うがなれれば後は加速度的であり楽になるのである。
ここでなぜ日本人の記憶力はここまで衰えたかそれを説明しなければならない。