扉は重苦しい音を立てて開いた。中からは夜の闇のような空気がすさまじい勢いと重量を持って流れ出てくる。ロレンツォは思わず腕で口元を覆った。水を浴びたわけではないのに、冷水を被ったときよりも遥かに冷たいような気がした。凍りつく冷気が出口を求めて彼に突進してくる。だが、彼はそれでも、決して目を閉じようとはしなかった。この闇の中に、あの女が、いるのだ。ロレンツォはじり、と暗闇に足を踏み入れた。開かれた扉から流れ出ていく闇の向こう、漆黒の空間の中に浮かぶように、王妃が佇んでいた。
「は・・・・・・義母上・・・・・・」
王妃は黒い艶やかな髪を高く結い上げ、襟の高い漆黒のドレスを纏っていた。ビロードのドレスの裾は豊かに広がって闇の空間に溶け込み、まるでその空間に王妃の青白い顔だけがぽっかりと浮かんでいるようだった。王妃は、真っ赤に色づいた薄い唇をうっすらと上げ、微笑んだ。
「随分、遅かったですこと。ずっと、お待ちしておりましたのに」
王妃の漆黒のドレスの袖から、すっと白い腕が伸びた。それはやけに艶かしく、ロレンツォは不思議な既視感を覚えた。どこかで見た覚えのあるような、白く滑らかな腕だった。ロレンツォは頭をぶるり、と振るった。いけない、王妃の魔術にかかっては・・・・・・。彼は額に湧き出た冷たい汗を拭うと、静かに王妃を見つめ、剣を構えた。王妃は、艶然と微笑む。
「まあ、王子、何をなさるおつもりです?」
王妃はすっと笑いを収め、一歩、足を踏み出した。漆黒の闇がゆらり、と揺れる。一瞬、彼女の周りの空間が歪んだように見えた。ロレンツォは再度頭を振るった。王妃が一歩づつ、ゆったりと近づいてくる。じり、とロレンツォは一歩後退した。
「ねえ、王子。わたくしのこと、お嫌いですか?」
耳に遠く、王妃の声が聞こえる。いや、王妃の声なのか、これは?確かに自分は、どこかでこの声を聞いたことがある・・・・・・。ロレンツォの体が左右に僅かに揺れる。彼は自分の腕が別人のものになったような錯覚を覚えた。冷や汗が背中を幾筋も流れるのを朧げに感じる。ああ、自分は一体、ここに何をしにきたのだろうか?王妃のドレスの衣擦れの音が、すぐ近くに聞こえた。耳元に、柔らかい吐息がかかるのを感じる。
「ねえ・・・・・・ロレンツォ様。わたくしを、愛しているのでしょう?」
ロレンツォははっと顔を上げた。するとそこには、まるで真珠のように美しく、澄んだ湖のような瞳をした最愛の人、エリーゼの顔があるのだった。ロレンツォは目を見開いた。エリーゼは、桃色に上気した唇をふわりと動かして微笑んだ。
「ロレンツォ様・・・・・・。なぜ、わたくしを、お斬りになるのですか?どうかその剣を、お納め下さいませ」
「エリーゼ・・・・・・なぜ君が、ここに?」
ロレンツォは唇をわななかせながら、掠れた声を出した。エリーゼは哀れみのこもった青い瞳で彼を見ると、漆黒のドレスの袖をあげ、細い指先で彼の頬にそっと触れた。冷たい、指・・・・・・。あの塔にいたときと同じ、絹のように滑らかな指先だった。ロレンツォは頬を伝う指に、自分の手を重ねた。カシャン、と剣が床に落ちる硬い音が響く。エリーゼが微笑んだ。
「ねえ、ロレンツォ様。わたくしをお側において下さいませ。二人で、この国を守って参りましょう」
ロレンツォは、まるで水の向こうから聞こえてくるような遠い声を、ぼんやりと聞いていた。思考が、まとまらない。それで、良かったのだろうか。そうだ、自分はエリーゼと生涯を共にするはずだった。だが、何か忘れているような気がする。どうしても、思い出せない、何かが・・・・・・。
「さあ、では、わたくしと共に・・・・・・」
エリーゼはそう言って、頬を両手で優しく包み、その手を下へと下ろしていった。そして、その冷たい両手がロレンツォの首にかかった時・・・・・・。
「あっ!」
ロレンツォとエリーゼは同時に叫んだ。ロレンツォは体に走った衝撃に、そして、エリーゼは・・・・・・その美しい白い手に、大きな火傷を負っていた。
「くっ・・・・・・忌々しい!あの女め・・・・・・」
エリーゼの顔はもはやエリーゼではなかった。ロレンツォは、彼の頭を覆っていた霧が晴れるのを瞬時に感じた。急いで胸元を見下ろすと、そこには水晶のペンダントが・・・・・・彼の愛する少女、エリーゼの思いのこもった大切な水晶が、火花を散らしながら強く輝いていた。ロレンツォは隙を与えないよう、足元に転がっている細い剣を素早く掴むと、王妃に一直線に斬り込んだ。
「ああっ・・・・・・!」
・・・・・・吸い込まれる!王妃の悲鳴が聞こえた刹那、彼女が纏っていた闇が、激しい勢いで消滅してゆき、ロレンツォは体ごと吸い込まれる感覚に襲われた。ゴォォォという風の轟音と共に、王妃の体を中心に、あらゆるものが吸い込まれていくようだった。ロレンツォは腕を顔の前で交差し、必死に足を踏ん張って耐えた。轟音が次第に収まり、部屋に、静寂が戻ってくる。ロレンツォは恐る恐る目を開けた。窓からは、ちゅんちゅんと、小さな鳥のさえずりが聞こえてくる。朝陽が、窓から柔らかく差し込んでいた。
部屋を見渡すと、玉座の前にぽつんと、一人の女性が・・・・・・王妃が横たわっていた。王妃は微動だにしなかった。ロレンツォは剣を構えなおし、ゆっくりと近づいた。横向けに倒れた王妃はゆっくりと目を開け、ふっと微かに笑った。
「幸運な王子・・・・・・そんな剣で、わたしを消せるとでも・・・・・・?わたしは、いくらでも再生する・・・・・・」
ロレンツォは一瞬躊躇したが、剣を高く振り上げた。
「・・・・・・お前は、一体、なんだったのだ?父上を、狙っていたのか」
「お前の父を・・・・・・?ふふ、それは逆だね・・・・・・わたしを呼んだのはお前の父・・・・・・」
「なに?それは、どういう意味だ。・・・・・・お前は、一体、なんだったのだ?」
王妃はゆっくりと目を閉じた。
「わたし?わたしは・・・・・・お前達の・・・・・・欲望・・・・・・」
王妃の体は、さらさらと砂が散るように空気に溶けてなくなり、その場にはロレンツォだけが残されていた。
* * *
数日後、国は盛大な祝賀ムードに沸いていた。王子ロレンツォと隣国の王女エリーゼの結婚式が執り行われたのだった。民衆は、あの悪夢のような日々があったことすら記憶になく、この慶事を心から喜び、美しい花嫁を一目見ようと、王城に集まっていた。
「ロレンツォ様・・・・・・わたくし、緊張してしまいますわ・・・・・・」
「緊張することなんか一つもないよ、可愛いエリーゼ。僕は本当は、君をみんなに見せたくないくらいなんだけどね」
ロレンツォは、傍らで頬を染めている可愛い妻にウィンクした。エリーゼの呪いはすっかりとけ、この陽光の中にあっても、その美しい姿に変わりはなかった。白金の長い髪が、純白の長いヴェールの中できらきらと輝いていた。
「・・・・・・いくらでも再生する欲望、か。だけど、僕は今本当に幸せで、他には何もいらないんだから」
ロレンツォはぽつり、と呟いた。エリーゼが、彼の顔を不思議そうに見上げる。
「・・・・・・え?ロレンツォ様、何か仰いました?」
「ううん、何も。さあ、行こうエリーゼ。みんなが待っているよ」
「はい」
ロレンツォはエリーゼの肩を優しく抱き、バルコニーのドアを開けた。歓声が響く。ロレンツォは青い空を見上げながら、麗しい妻と共に新しい一歩を踏み出した。
Fin