黒木の足音が次第に遠ざかり、優奈はただ一人、暗い通路に佇んでいた。しん、と静まり返ったアパートの通路には、小さな丸いライトが数個、弱い光を放っていた。

-入って待っていなさい。車を帰してくるから・・・・・・

 優奈はドアの鍵をぼんやりと開けたが、中には入らず、階段の方を向いてそのままドアに体をもたせかけた。黒木の声が、優奈の頭の中を柔らかくこだましていた。こつん、と頭をドアにつけると、そっと目を閉じる。黒木はまだ、戻ってこない。夜の、澄んだ空気の音がした。サラサラと耳元で髪が揺れる。どこか懐かしい、柔らかい風が優奈の頬を撫でた。ふと、目の前に、夏の青く茂った木々に囲まれた、大きな庭が見えた気がした。薄い月明かりの下で、白い砂利を敷き詰めた庭が、ほんのり白く光って見えた。サラサラと、耳元で髪が風に揺れる音がした。それに重なるように降ってくる、自分を気遣ったような、優しい声。

-優奈、ここで待っていて。僕、すぐに戻ってくるから・・・・・・

 優奈はハッと目を開けた。目の前に見えるのは、見慣れた、アパートのコンクリートの通路だけ。夏の木々も、仄かに白く光る大きな庭も、記憶の彼方に掻き消えた。その時、カツンカツン、と控えめな足音が響き、目の前に黒木が現れた。

 「何だ、優奈、入っていろと・・・・・・」

 黒木は驚いた顔で言いかけたが、最後まで言い終わることは出来なかった。黒木の言葉が、終わるより早く。優奈の細い腕がさっと伸び、黒木の胸の中に、細い体がしなやかに飛び込んできた。反射的に、黒木は優奈を抱きとめていた。その華奢な肢体は、いともたやすく、彼の両腕の中に収まっていた。

 「な・・・・・・」

 「・・・・・・いつも、そうだった」

 「え?」

 「私は、いつも、兄ちゃんに助けてもらってるんだね・・・・・・」

 言いながら、優奈は、黒木の胸元に顔をうずめた。いつかの、雨の夜のように、微かにいい香りがした。黒木の背中に回した両腕を、解くことが出来ない。黒木にどう思われても良かった。ただ、こうしていたかった。優奈が回した腕の下で、黒木の呼吸に合わせて、程よく筋肉が付いた胸が、ゆっくりと規則正しく上下していた。優奈は、頬を寄せ、黒木の鼓動を聞いていた。力強い、鼓動を。黒木は暫く動かなかったが、やがて遠慮がちに、優奈の背中にやんわりと回していた腕を外し、ドアに手を伸ばした。

 「・・・・・・とにかく、中に入ろう・・・・・・開いているな」

 黒木はゆっくりと取っ手に手をかけ、ドアが開くことを確かめると、優奈を片腕に抱いたまま、部屋に入った。ドアが閉まり、鍵をかける音が静かな通路に微かに聞こえた。その時、階下にまるで影のように、一人の人影が現れた。

 「・・・・・・いい写真が、撮れちゃった♪」

 黒っぽい服に全身を包んだ高井は、てへっと言いながら、カメラを胸ポケットにしまった。

 「今夜は大・収・穫~!美和子ちゃん、喜ぶカナー。って、喜ぶわけないかっ。さ、早く車に戻らなきゃ!予算難なのに、駐禁取られたら大変大変♪」

 高井はルンルンと鼻歌交じりに、物陰に停めてあった車に向かって歩き出した。



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