<あらすじ>
子供の頃に、事情により兄妹のように育った黒木聡志と白井優奈。二人は十三年の時を経て、優奈が就職のために上京した東京で再会する。密かに惹かれあいつつも、過去の出来事に縛られる二人。また、黒木の恋人・美和子も優奈の存在に気づき、ある計画を企てる。そんな中、黒木は過去との決別のために、長い間音信不通であった母との再会を果たすため、金沢へと向かい、母の友人・坂井志乃から十四年前の出来事を聞く。志乃から聞く過去の事件とは?
夜明けのひかり 第二部 二十七話
それから数日経ち、数か月経っても、詩織が訪れてくることはなかった。志乃もまた、時代の流れで衰退していく花街文化の中で、歴史あるこの茶屋の経営を続けるために日々奔走しており、詩織達のことは自然、日常生活の中に埋没していってしまっていた。
そんな折、もう間もなくで年も暮れようというある寒い日の午後、志乃の家の電話が鳴った。
「はぁい、坂井です」
冷たい受話器に耳を押しつけつつ、外の天気を見やった。空は淡い水色に晴れわたっているが、冷たい風が強く窓に吹き付けていた。立てつけの悪い窓が、ガタガタと鳴る。
「……もしもし?志乃?」
受話器の向こうから、知った声が聞こえた。上品でいて、少し憂いを含んだ声が。
「靖子やないけ!」
思わず、大きな声を上げてしまう。電話の主は、友人の黒木靖子だった。
「突然、こんな忙しい時期にごめんなさいね。今、お時間あるかしら?」
靖子はゆったりと静かな声で問いかける。彼女はいつもこうだった。その柔らかい、おっとりとした声は、彼女が日常の喧騒からは程遠い生活を送っていることを物語るかのようだった。
「今日は店が休みやさけ、ゆっくりしとるんやわ」
今日は、年末年始の休業前に、厨房の定期点検を行う日だった。志乃はガタガタと鳴る窓に手を伸ばし、もっと閉まらないものかと力任せに窓を引いた。指先に触れる冷たい隙間風に思わず身震いをする。この分だと、夕方までには雪がちらつくだろう。そんなことを思っていると、受話機の向こうで、靖子がしばし逡巡する様子が感じられた。
「靖子?」
「……良かったら、志乃、これからこちらにいらっしゃらない?せっかくのお休みの日に申し訳ないけれど……こんな寒い日だし、車をやりますから」
何か、あったのだろうか。数か月ぶりに聞く友人の声が、気怠く沈んでいるような気がして、志乃は何も考えずに返事をしていた、車の件だけは辞退して。まだそこまで老いぼれてはいない、と冗談めかして靖子に伝えると、彼女は力なく笑った。受話器を置き空を眺めやると、いつの間にか、淡い水色の空に灰色のすじのような雪雲が漂いだしていた。
バス停に着いた頃には、やはりちらほらと雪が舞い始めていた。志乃は頭に巻いたスカーフを少し額の方へずらした。それほどの大雪でないのがせめてもの幸いだ。年の暮れも押し迫った平日の午後、それもこんな雪の日に辺りには人気もなく、志乃の長靴の踵がコンクリートを打つ音だけが辺りに響いていた。
黒木邸は、金沢の市外からは離れた北の郊外に立地していた。志乃は詳しくは知らないが、噂によれば黒木家は旧加賀藩重臣に縁のある者だとかで、この辺りでは有名な大地主だった。千坪はありそうな広大な敷地に、瓦葺の母屋と、洋風建築の二階建て家屋、数個の蔵が点在し、母屋の奥には日本風の庭園が配されている。その周囲は手入れされた土塀で覆われ、中の様子を垣間見ることは出来なかった。
志乃は立派な構えの木造りの門の前に立った。最寄りのバス停から早足で歩いて十分ほどかかっただろうか、長靴の中で、足の指先がちりちりとした。吐く息が白い。夕方にかけて本降りにならないといいけど、と心の中で思いながら、開いている大きな門をくぐり、玄関へと向かった。志乃の長靴の下で、白い玉砂利がこすれる音を立てた。
「志乃、寒かったでしょう、こんな雪の中を来させてしまって……」
志乃が玄関で頭のスカーフを外し、肩に軽く積もった雪を払っていると、靖子がすぐに玄関口に出てきた。女中が差し出してくれたタオルで遠慮なく頭や肩を拭う。思いのほか、雪が降ってきていたようだ。
「なーん、大したことないげんて。こんなちょっこしの雪、なぁーんともないわいね」
志乃が大口を開けて笑うと、靖子も少し微笑み、おっとりした所作で中へと促した。
「また、そんなことを言って……さあ、早くお入りになって。お部屋は暖まっているし、ゆっくりお茶でもお飲みになって下さいな」
靖子は先に立って中へと案内してくれた。黒光りした床をスリッパで歩く。玄関に大きなストーブが置いてあったが、この広さではそれも気休めにしかならなかった。しんしんと、寒さが身に染みてくるようだった。
靖子の言った通り、客間はとても暖かく、居心地がよかった。襖を締め切って暖房をかけているためだろうか、廊下の寒さが嘘のようだった。靖子は、中央に置かれたかなり大きな掘りごたつに志乃を座らせ、自身も向かいに腰を下ろした。と、ほぼ同時に女中が入ってきて、お茶とお茶請けのお菓子を一式、二人の間に並べて出て行った。予め時間を見越して用意していたのだろうか、お茶は淹れたてで、とても良い香りがした。
「さあ、どうぞ召し上がって。大したものでなくて申し訳ないけれど」
靖子はそう言ったものの、勧められるままに口にすると、お菓子は上等の生菓子で、志乃はその滑らかな柚子風味の餡にうっとりとしてしまう。あとで、どこのなんというお菓子か聞いておこう、そんなことを思いながらちら、と靖子の様子を伺った。彼女はおっとりと、木の楊枝でお菓子を一口大に切っていた。彼女が身に着けている藤色の着物がまたよく似合っていて、こうして見ていると、まるで一枚の日本画のようだ。靖子の周りの空気だけが、日常から隔絶され、色もなく透明に漂っている。
お茶を飲みながら世間話をしつつ、志乃が今日の本来の目的を聞き出す機会をうかがっていると、女中が失礼します、と言って襖から顔をのぞかせた。
「奥様、旦那様がお戻りです」
その瞬間、靖子の顔がさっと青ざめるのを、志乃は見逃さなかった。靖子は平静を装いながら立ち上がり、志乃に、少しお待ちになっていて、と言い置くと女中と共に廊下に消えて行った。ひとりぽつんと残った志乃は、うーん、と伸びをして立派な梁のある天井を仰いだ。黒木宗一郎、か。地元の有力者、黒木家の家長、靖子の夫。志乃はもう一度うーん、と唸ると、すっかり冷めてしまったお茶を一口すすった。妻が夫で悩むことと言えば、浮気問題やら家庭内暴力やらギャンブル癖やら、思いつくことは数あれど。いずれにしても厄介な問題であることには間違いなさそうで、志乃はまたも、うーん、と一人唸ってしまうのだった。
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