<あらすじ>

子供の頃に、事情により兄妹のように育った黒木聡志と白井優奈。二人は十三年の時を経て、優奈が就職のために上京した東京で再会する。密かに惹かれあいつつも、過去の出来事に縛られる二人。また、黒木の恋人・美和子も優奈の存在に気づき、ある計画を企てる。そんな中、黒木は過去との決別のために、長い間音信不通であった母との再会を果たすため金沢へと向かい、母の友人・坂井志乃宅を訪れる。志乃から聞く、過去の出来事とは……。



夜明けのひかり 第二部 二十六話



あれは、太陽が照りつけていて、本当に暑い日だったげん……志乃は遠い記憶を手繰り寄せるように、言葉を紡ぎだした。



軒先で、金魚が描かれた風鈴がちりん、と微かな音を立てた。茶屋の女将、坂井志乃は頬を撫でる微風にふと顔を上げた。窓の外、真っ青に広がる空には真夏の太陽が力強く輝いている。志乃は眩しそうに眼を細め、また黒檀の鏡台に向き直った。しっとりと汗ばんだ額をガーゼで押さえつつ、唇に念入りに紅を引く。傍らの着物掛けには、先日新調したばかりの鶯色の友禅が掛けてあった。白っぽい花が流れるような優雅な柄が大変気に入っていた。志乃は手早く、けれど慎重に着物を着こむと、窓を閉めようと手を伸ばす。古い窓枠に手をかけた瞬間、ざあっと音を立てて強い風が舞い込み、軒先にかけてあった風鈴が小さな音を立てて室内に転がり込んできた。志乃は思わず、あー、うっざくらしい、と小さく悪態をつきながら風鈴を拾った。途端、指先に鋭い痛みを感じ、小さく悲鳴を上げた。手元に視線を落とすと、落ちるときに窓枠に当たったせいだろうか、風鈴の端が欠けていた。志乃の人差し指の先から、うっすらと血が滲んでいる。

「なんや、縁起の悪い……」

思わず呟き、人差し指をぺろりと舐めた。欠片が落ちていないか注意しながら慎重に窓を閉めると、ひとまず鏡台の上に風鈴を置いた。カチャン、と小さな音を立てて鏡の前に置かれた欠けた風鈴は、これまで浴びていた陽光の熱を微かに放っているかのようで、それが却って室内の薄暗さを際立たせているような気がし、志乃は言いようのない不安を覚えるのだった。



階下に下り茶屋に向かおうとすると、呼び鈴が鳴った。この出掛けの気忙しい時に、とブツブツ言いながら玄関を開けると、逆光の中に、華奢な輪郭が浮かび上がった。

「女将さん!ごめんなさい、もう出るところだったのね」

ふわりとウェーブがかかった髪を揺らしながら、真夏の太陽を背に可愛らしい声が響く。

「詩織じゃないけ!なーん、そんなとこに突っ立っとらんで、入りまっし」

その女性――詩織は、ごめんなさい、忙しい時に、と申し訳なさそうな顔をすると、後ろを振り返り、小さく手招きをした。後ろで、大きな体格の若者がぺこり、と頭を下げていた。その腕には、小さな赤ん坊が抱かれていた。志乃は思わず歓声を上げる。

「あんれまぁ、こりゃ、うまそな子だわいね!」

太陽の日差しがいかにも似合う、と言った感じの精悍な若者は、人懐っこい笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。丸々と太った、桃のようなほっぺたをした赤ん坊は、父親の腕の中で安心しているのか、すやすやと眠っている。志乃は何度も、あれまあ、とか、おやまあ、とか言いながら、その幸福そうな寝顔を見つめた。自然と頬が緩み、まるで孫をあやすおばあちゃんのような笑顔になってしまう。

「先月、予定より少し早かったけど、無事に生まれました。生まれた途端にこの暑さで、なかなかご挨拶にも来れなかったのですけれど」

詩織は、にこにこと微笑みながら赤ん坊の頬を人差し指でそっと撫でた。ピンク色の頬がふにゃりと柔らかそうに揺れる。

「ほんま、めでたいじー。無事に生まれて何よりだわいね。はよ入りまっし、こんなあっつい所におったら、赤ん坊が可哀想ぞいや」

志乃は二人を室内へと促した。薄暗い室内は、空気が少し冷やりとした。

詩織は、志乃の茶屋に長く勤めていた芸妓だった。東京の出身というだけで、その出自は本人が詳しく語りたがらなかったが、母親の影響なのか、幼いころから様々な芸の稽古を付けられていたようで、志乃のところに来たときには既に一通りの芸事は習得していた。東京で出会った男性を追いかけるようにしてこの地域にやってきた、というのは聞いていたが――。志乃はちらり、とちゃぶ台の脇に狭そうに胡坐をかく若者を見た。それが、この若者のことだったのか。詩織とは長い付き合いではあったが、志乃は、彼女のいわば恋人、もしくは夫であろう人物に会うのはこれが初めてだった。

詩織は、その志乃の視線に気づいたか気づかないか、額の汗を拭くと、言いにくそうに切り出した。

「女将さん。紹介が遅くなっちゃったけど……こちらは、白井徹也さん。私の……夫、みたいな方です」

夫、という言葉を発しながら、詩織は白井徹也というその若者と一瞬目くばせをした。白井はその視線に何も言わずに、頷いた。夫「みたい」であるということは、つまり二人は正式な結婚をしていないということである。志乃はあえて追及はせず、頷いた。人には様々な事情がある。

「ほおかあ、白井さん言うげんね。詩織が世話になっとるけ、あんやとーねぇ」

「いえっ、こちらこそ」

志乃が頭を下げると、白井はゴツゴツした大きな手で照れ臭そうに頭を掻いた。動いた拍子に赤ん坊を取り落しそうになり、慌てて両手で支える。詩織がくすくすと笑った。

「この人、体ばかり大きくて、子供みたいなところがあるんですよ」

言いながら、詩織は赤ん坊の額の汗をハンカチで拭ってやった。若い夫婦と、生まれたての赤ん坊の雰囲気は陽だまりのように温かく、志乃までその柔らかい空気に染まってしまいそうだった。ふと、階段の手前にかかった柱時計が、ボーンボーン、と鳴りだした。時計の針はちょうど五時を指していた。詩織が慌てて腰を上げる。

「女将さん、もう行かなきゃいけないでしょう。本当にごめんなさい、こんな時間に。今日は徹也さんと一緒にご挨拶に来ただけなの。また、ゆっくりお邪魔します」

「ほーんな、あせくらしい……」

とは言ったものの、実際、ゆっくりしてはいられない。早く店に向かわねばならなかった。徹也と詩織は既に腰を上げ、階下へ向かっていた。お茶も出せずに申し訳ない気持ちもするが、詩織の言う通り今日は仕方がないだろう。今度またゆっくり来てもらうことにして、ここは失礼することにした。

玄関先で別れ際、志乃は瑞々しい赤ん坊の頬をそっと撫でながら言った。

「ほんで、この子の名前はなんと言うんけ?」

詩織はにっこりと笑って、ゆっくりと言った。

「優奈、です。優しい女の子になるようにって、徹也さんが」

詩織は徹也と目を合わせ、またにっこりと笑った。

「そうけぇ、優奈ちゃんけ。いちゃきな名前やわ」

志乃は、指先に温かい生まれたての体温を感じて、この小さな命を愛しく感じた。きっとこれまで人には言えない苦労をしてきたのであろう詩織が、こうして母となれたことを、心から祝福したい気分であった。今晩の仕事は、とても幸福な気分でこなせそうだ。

「それじゃ、女将さん。またゆっくりお邪魔します」

「いつでもいいじー。また具合いい時にみんなで来まっし」

詩織は、はい、と言うと、再度突然の来訪について謝りつつ、志乃に頭を下げた。その刹那、ふと詩織の顔がやけに青白く見えた気がして、志乃は思わず声をかけていた。

「詩織?」

詩織が不思議そうに顔を上げた。その頬にはうっすらと朱がさしていて、ふと見えた青白さは消えていた。気のせいだったのだろうか。志乃は曖昧に微笑むと、二人ともそくさいで、と言ってゆったりと頭を下げ、二人の後姿を見送った。詩織の、夏らしい空色のワンピースが風に揺れている。その背中に、傾きかけた夏の日差しが、柔らかい光を投げかけ、詩織の足元の先に長い影を作り出していた。真昼の名残のような日差しがその影をひときわ薄暗く見せているようで、ふと先ほど鏡台の前に置いてきた欠けた風鈴の発する仄かな熱を思い起こし、志乃はまた何とも言えない不安を感じ、ぼんやりとその場に佇むのだった。



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