昨日、作曲を偽っていた音楽家の番組を放送したことについて、
NHKが問題を検証した番組を放送したらしい。
その要旨をネットで読むことができ、
そして問題のNHKスペシャルも見ることができた。
以前もこれについて書いたときは、この番組がNHKスペシャルとしての企画提案で始まっていると思っていたが、そうではなく、ディレクターは同局の別番組の契約ディレクターであり、そこでたまたま氏について取り上げた際に多くの反響があり、
Nスペ企画に発展したらしい。
まあそれでも、数々の提案会議にかけられることはもちろん、
NHKとしての真偽検証にも様々な外部の取材を行った上でこの提案に問題はないという決断を下したという。
Nスペ自体はうまくまとめられていたという印象と、
著名な音楽家の音楽分析やインタビュー、そしてもちろんプロの演奏家による
すばらしい演奏、一流雑誌の記事を取り上げるなどして、がっちり固めており、
きっと問題が発覚する以前にみていたら、
自分も含め多くの人が信じてしまうのも無理のない作りになっていたと思う。
ただ、佐村河内氏が出て来ている部分と、震災被害に遭った少女、
右手に障害を持つバイオリン少女が出て来る部分のシーンは、
明らかに映像の質感が違う気がした。
映像は嘘をつかない。
氏の出て来るシーンには、あまり生活臭というか生きている臭いがせず、
作曲をする部屋に大量の薬が置いてあったり、
作曲のための資料として書籍が置いてあるのだけれど、展示品みたいなのだ。
例えるなら、
あまり料理をしない人のキッチンみたいな感じ。
一応、道具や調味料は置いてあるのだけど、決して使われていない感じ。
一方、震災で母親を亡くした少女が、
育ててくれている祖母と暮らす家で眠る前の短いシーンなのだが、
着物に使う腰紐に、自分と祖母の名前が書かれていて、
それをいつも手に結ばないと今も眠れない、というだけのくだり。
これは、すごく良いシーンだし、胸が締め付けられるようなリアルさを持っている。
肝心の氏の作曲シーンについて、
ディレクターは再三撮影をお願いしたが、
作曲は神聖な行為なので、という理由で断れたと伝えられている。
そしてそれは芸術家や作家などの取材では”良くあること”なのでよしとしたという、
NHKの判断もあったと。
以前私があるジャーナリストの取材をした時のこと。
およそ3~4か月の取材の終盤、
その人は私に「編集した素材を番組放送前に見せて欲しい」
と言って来た。
これは、ややエキセントリックに言えば、
「私をどう描くかは私が決める=制作者を信じていない」という意味だ。
その人は当初から表面的な部分しか見せたがらない、話したがらないところがあり、
やや確信犯的にインタビューをしたり、相手が見せたいと思わない部分をも、
番組上必要と思われる部分は撮らせて欲しいと交渉をしたり、
いくつかのかけひきはしてきた。
でも数ヶ月間の付き合いの中で、本音でいくつか話してくれたこともあり、
最後は良いものをつくりたいと思えて来ていた頃だった。
でもその一言がきっかけで、
自分が一番大切にしてきたつもりの信頼関係を裏切られた気がし、
一気に醒めてしまったことがある。
「醒めてしまう」というのは、
その人を描きたいと思う気持ちが失せてしまうことだ。
それ程、私は自分を取材者として信じてもらうというのは有り難いことだと思っていた。
逆に言うと、自分に信頼が得られない被取材者とは、
その人がどれだけ素晴らしい評価を受けている人であっても描きたいと思わないし、
結果的に描くことが出来ないので、ドキュメンタリーにはならない。
テレビ制作者が取材対象者を選ぶだけでなく、
取材される側ももちろん、相手を選んでいるということ。
何を言いたいかと言うと、
Nスペの制作者と佐村河内氏の関係は、
やはりその信頼のところではつながっていなかったのではないかということ。
そういう虚しさを、やはりいくつかのシーンから感じてしまった。
そして番組の中で一流雑誌や一流音楽家が太鼓判を押したものは、
本質がどうであれ取りあえず信じてしまえ!というところ。
日本人のブランド信仰を利用するのは
いいこともあるけど、今回は痛手が大きかった。
この問題が明らかになったことによって、
氏を信じて番組に協力した方(被害に遭われた方)には、
とても申し訳ない気持ちだけれど、
テレビ番組が構造的に持っている普遍的問題を考える
きっかけになったのは確かだと思う。
今度は引き続き、NHKの作った検証番組を見たいと思っている。
NHKが問題を検証した番組を放送したらしい。
その要旨をネットで読むことができ、
そして問題のNHKスペシャルも見ることができた。
以前もこれについて書いたときは、この番組がNHKスペシャルとしての企画提案で始まっていると思っていたが、そうではなく、ディレクターは同局の別番組の契約ディレクターであり、そこでたまたま氏について取り上げた際に多くの反響があり、
Nスペ企画に発展したらしい。
まあそれでも、数々の提案会議にかけられることはもちろん、
NHKとしての真偽検証にも様々な外部の取材を行った上でこの提案に問題はないという決断を下したという。
Nスペ自体はうまくまとめられていたという印象と、
著名な音楽家の音楽分析やインタビュー、そしてもちろんプロの演奏家による
すばらしい演奏、一流雑誌の記事を取り上げるなどして、がっちり固めており、
きっと問題が発覚する以前にみていたら、
自分も含め多くの人が信じてしまうのも無理のない作りになっていたと思う。
ただ、佐村河内氏が出て来ている部分と、震災被害に遭った少女、
右手に障害を持つバイオリン少女が出て来る部分のシーンは、
明らかに映像の質感が違う気がした。
映像は嘘をつかない。
氏の出て来るシーンには、あまり生活臭というか生きている臭いがせず、
作曲をする部屋に大量の薬が置いてあったり、
作曲のための資料として書籍が置いてあるのだけれど、展示品みたいなのだ。
例えるなら、
あまり料理をしない人のキッチンみたいな感じ。
一応、道具や調味料は置いてあるのだけど、決して使われていない感じ。
一方、震災で母親を亡くした少女が、
育ててくれている祖母と暮らす家で眠る前の短いシーンなのだが、
着物に使う腰紐に、自分と祖母の名前が書かれていて、
それをいつも手に結ばないと今も眠れない、というだけのくだり。
これは、すごく良いシーンだし、胸が締め付けられるようなリアルさを持っている。
肝心の氏の作曲シーンについて、
ディレクターは再三撮影をお願いしたが、
作曲は神聖な行為なので、という理由で断れたと伝えられている。
そしてそれは芸術家や作家などの取材では”良くあること”なのでよしとしたという、
NHKの判断もあったと。
以前私があるジャーナリストの取材をした時のこと。
およそ3~4か月の取材の終盤、
その人は私に「編集した素材を番組放送前に見せて欲しい」
と言って来た。
これは、ややエキセントリックに言えば、
「私をどう描くかは私が決める=制作者を信じていない」という意味だ。
その人は当初から表面的な部分しか見せたがらない、話したがらないところがあり、
やや確信犯的にインタビューをしたり、相手が見せたいと思わない部分をも、
番組上必要と思われる部分は撮らせて欲しいと交渉をしたり、
いくつかのかけひきはしてきた。
でも数ヶ月間の付き合いの中で、本音でいくつか話してくれたこともあり、
最後は良いものをつくりたいと思えて来ていた頃だった。
でもその一言がきっかけで、
自分が一番大切にしてきたつもりの信頼関係を裏切られた気がし、
一気に醒めてしまったことがある。
「醒めてしまう」というのは、
その人を描きたいと思う気持ちが失せてしまうことだ。
それ程、私は自分を取材者として信じてもらうというのは有り難いことだと思っていた。
逆に言うと、自分に信頼が得られない被取材者とは、
その人がどれだけ素晴らしい評価を受けている人であっても描きたいと思わないし、
結果的に描くことが出来ないので、ドキュメンタリーにはならない。
テレビ制作者が取材対象者を選ぶだけでなく、
取材される側ももちろん、相手を選んでいるということ。
何を言いたいかと言うと、
Nスペの制作者と佐村河内氏の関係は、
やはりその信頼のところではつながっていなかったのではないかということ。
そういう虚しさを、やはりいくつかのシーンから感じてしまった。
そして番組の中で一流雑誌や一流音楽家が太鼓判を押したものは、
本質がどうであれ取りあえず信じてしまえ!というところ。
日本人のブランド信仰を利用するのは
いいこともあるけど、今回は痛手が大きかった。
この問題が明らかになったことによって、
氏を信じて番組に協力した方(被害に遭われた方)には、
とても申し訳ない気持ちだけれど、
テレビ番組が構造的に持っている普遍的問題を考える
きっかけになったのは確かだと思う。
今度は引き続き、NHKの作った検証番組を見たいと思っている。