勇気とはこうはなりたくないを超えたこうなるかもしれないを避けた結果であるに過ぎない可能性が高い。
つまり逃避である。
勇気の肯定は新約の根幹である。新約の世界の構造は勇気の分解である。
つまり新約は勇気を一つの大黒柱にしてしまっている。これだけでも反現実的なのだ。論理的なのだ。
さらに利潤などあったならば。
夢というイマジネーション世界も、そちら側にたまりにたまった心的なエナジーの彼岸であるだけかもしれない。
新約には歴然とおかしな点がある。
少なくとも、言語圏の破壊の後ろ盾である。
イメージ?を伴わないものは通用しない。
これはやはり意志の非疎通などが必要な権力者の方便ではないだろうか。
ほとんどの人が特に何の役にも立たず夢を見ている世界。その肯定。
何を守っていくつもりなのか?
誰であれ人に酷く当たったら前に進めないことの認知?
嘘だろ?。
好きな言葉を言ってみたらどうかな?
そして自分の志向に勇気を持とう。
勇気は発揮するものかどうか?
発揮するものでないならばあなたのものは奪えないかもしれない。
発揮を肯定するものと好きな言葉を寛容しないもの、これがあなたの敵かもしれない。
そいつの顔をよくみろ!。
笑。