人間は死を恐れるが、実はそれは恐るに足らぬものだと気付く時が来ると思っている。彼らはすでにそれを幾度も経験しているのだから。


誕生と死は進化のサイクルに過ぎず、彼らの魂の成長のごく自然な流れの一部であるのだ。肉体の死後にも生はある。そちら側の世界もこの物質世界のようにリアルであり、おそらくよりリアルに感じるだろう。

死とは未知、神秘、謎、迷信に包まれているがために人間に恐れられているが、皆が皆必ず経験しなくてはならないものである。彼らは体とは有限であり、いつかは期限切れが来ることを知っている。
未知だから恐れる


あの世に足を踏み入れたらもう自分ではなくなると思うものもいるが、個は個であり続ける。繰り返すが、もう何度も数えきれないほど辿った工程なのだ。死とは魂の祝福であり、悲観とは程遠いところに位置している。
確信し、ただ信じ切るしかない。

そして肉体の死により知恵を取り戻す。肉体を脱ぎ去ることにより、多次元知識が大きく目の前に広がる。魂それぞれの経験により当然理解する知識量は変わってくる。

 

 

通常魂が肉体から抜けると一瞬冷たさを感じ、そして自分が自分の体の横に立っていることに気が付く。恐怖というよりは爽快感に近いだろう。識るということ、平和、平静、満たされるということ。
全てはピュアでシンプル
より明確な真実
目隠しが外れた世界
地球では見えない真実

魂は浮上し地上を離れ光の中に入る、全てが完璧な世界。そしてまた地上に生まれ降りる。時間というものに意味はない、全ての時間は一つ、永遠だから。
魂は生まれ変わり続けサイクルを完了しなくてはいけない、その世界の学びの全てを克服し卒業する。

 

 

恐れとは人間の頭の中にだけにいる怪物であり、地球上でのみ影響力がある。肉体意識にだけ影響し、魂には触れられない。
彼ら自身で自分に恐れを植え付けている。(*このように地球上でコントロール・教育されているのだと解釈する)
思考はエネルギーである
思考は想像し現実化する

魂だけの側から見ると全てはとてもシンプルで把握している。恐れも理解しているし、恐れに支配はされないように感じる。しかし、人間というものになるとそれに巻き込まれてしまう。恐れが自分の一部になり恐れに立ち向かうことは困難になる。

 

肉体が体験する痛みは学びの道具であるにすぎない。
ある人間は痛みを自己防衛として利用する。痛みを言い訳にしたり人生の不参加の理由、同情欲しさや自己の戒めなどに使う。
痛みとは何か


痛みは人間を支配することはできない、支配させない限りは。痛みに力を明け渡してはいけない、痛みを感じる必要はない、魂と繋がるのです。

肉体の死にも、必要性を課さなければ痛みはない。ほとんどの場合、望まれなければそれはない。もし自己で望む場合や、自己の学びに必要だった場合には強烈な痛みを引き起こすこともある。
痛みは肉体からくるが魂は痛みを感じない、魂の痛みは後悔からくる。

 

 

魂たちがカルマの輪、別名地球に再誕生する前には計画が立てられる。彼らが次の人生で何を達成するのかを決め、そして他の魂たちとどこで出会って交流するのかを契約する。そこには退場計画も含まれる。全ての魂が、次の人生のどこで退場するのかを計画し、それ以外の場面では肉体は死ぬことはない。いわゆる”事故”というものはないのである。


人生の目的が達成されたら、魂たちは次の段階に進む。短期間の延長は可能だが彼らは肉体を離れることを選ぶ。
当然人間たちの殆どはこのことを覚えてはいない、地球に生まれたら魂サイドの計画は忘れる仕組みになっている。

個人のカルマ同様に、集団のカルマというものもある。
魂が集団である使命を達成したり、変化を確立したり、集団としての人生を経験するための集団死というものが長い年月を通してあった。それであっても個の死と変わりはない、学びのための適切な退場が計画されたのだ。

そして魂が一旦光の中に入ると、元の肉体に戻ることはできない。シルバーコード(魂と肉体を繋ぐもの)が切れてしまうからだ。