おれは今では極道と成り果てたが若い頃は純粋だった。これを皆様に証明するために昔日の日記を紹介しようと思う。

 

今回は「昔は色々の自然を観察していた」がテエマでえす。

 

二〇〇一年一月十六日(火)(曇り〜晴れ)。おれが小学三年生の頃だ。

「きょうは、学校にいくときこおりがはっていてさわったらとってもつめたくてプールの水もこおっていてすごいさむいとおもった。学校からかえってきて××××と自転車にのってマンションの下をなんしゅうかしてうちゅうにいくというあそびをしてたのしかった。それからマンションの下のこうえんでじてんしゃをのろうとしたけれどへんな人がいたのでできなかった。ざんねんだった。」

 

なんて鋭敏な感覚を持った餓鬼であろうか。特に凄いのは

「きょうは、学校にいくときこおりがはっていてさわったらとってもつめたくてプールの水もこおっていてすごいさむいとおもった。」

という部分だ。なぜなら肌の感覚ではなく「プールの水が凍っていて」という視覚的情報から寒さを感じているからだ。大人だったら外に出た瞬間、動物的な皮膚感覚から「うっわー寒っ」と思う訳だ。餓鬼は身体感覚と言語の連携が未発達なので様々な感覚、例えば視覚、を通して初めて言語としての寒さを感じる。要するに馬鹿な訳なんだが、馬鹿であるが故に餓鬼の感覚にはポエジーがある。

 

時代の流れを感じる部分としては

「それからマンションの下のこうえんでじてんしゃをのろうとしたけれどへんな人がいたのでできなかった。」という文言がある。ここでいう「へんな人とは」端的に言って乞食である。二〇〇一年くらいは、乞食が公園のベンチで横臥している、なんて光景は良く見たものだったが、今はそれほど見ない。死んだのだろうか。おれの考えでは政府が抹殺したという事になっているが。

 

全ての過去は美しく感じられる。未来は地獄。あゝ、無情! 当世風に言えばレ・ミゼラブル!