今回は仲珍諸尾「昼餉だけをポケットにいれて」に就いて書こうと思います。
まず汝らが思うのは巫山戯たタイトルだ、もしくは、白痴じゃないかしらといった所であろう。なぜならば、汝らの脳中には以下のようなイメッジが浮かぶであろうから。
(昼休みに定食屋に入り、ずぼんの右ポケットに御飯と漬物を、左ポケットには鮭の塩焼きを、冬だったのでコートを着ているから右には味噌汁を流し込み左には鶏卵と海苔をいれる。この動作、極めて迅速であり五十秒で終わる。しかしながら、注目を集める。なぜというと珍妙・不可思議な行動であるから。お客人達は恐ろしくてふるふるする。もしくは面白くてぷるぷるする。どちらにしろ狂人扱いだ。店員は「他のお客様に迷惑ですから」なんて愚劣な事を言って追い出そうとする。彼は「俺だって客じゃないか。殺すぞ!」とラジカルな事を言って警察を呼ばれて尿検査される。)
まあ、大抵はこんなイメッジであろう。しかしながら、否、断じて否なのである。この小説はそんな月並みなものではない。なぜこのような誤解をするのか?まあ、それは、この本を読めば分かる事だろうと思うが、ちょっと説明したいと思う。なぜなら本の紹介コーナーですからね。汝らのおかしげなイメッジの生じ来たる所以の一つは「昼餉だけをポケットにいれて」というタイトルの「だけ」という点を見逃しているからだ。では、「だけ」にはどのような含みがあるのか研究しよう。
まず、わかるのは主人公は世捨て人であるという事だ。汝らはポケットには財布、スマホ、手帳、煙草、ライター、赤鉛筆、万年筆、Xスタンパー、MP3プレイヤー、イヤフォン、精神安定剤、睡眠薬、口臭除去剤などが入っていると思うが「だけ」が意味するのは、それらが含まれていないという事だ。つまり、全くの職なし宿なしということである。というのは、スマホが無ければ仕事にも就けないし、宿を借りることもできないからだ。それから財布が無いことからも明らかなように財布に収容せねばならぬほど多額のマニーを持ってないことが推して知れるだろう。それゆえ、その他の不分明なものも持っていないと推察できる。何も入っていないポケットに昼餉を押し込む悲しさ!これを汝らはタイトルから読みとらなければならない。
それから重要なのは朝餉でもなく夕餉でもなく昼餉であるという点だ。このことを研究するために、朝餉、夕餉について考察していく必要がある。なぜなら、「昼餉」というstatementが適切であると言うためには朝餉を否定し夕餉を否定するほうが簡単だと私が思うからである。これを称して人民は消去法と呼ぶ。
という事で朝餉 a. k. a. ブレイクファーストについて話す事にしましょう。朝餉とは何か?朝起きて最初に食べる食事の事である。少なくとも我が国日本では比較的、シンプル少量の物を摂る場合が多いようである。知人の栄養のオーソリチーによると「いやー、一日の活動エナジーを得るために重要なんだよ、君」という事らしい。まあ、このような学術的な事は問題ではないのだ。重要なのは「そんなこと、朝飯前さ」という慣用表現である。辞書、もしくは、インターネットで語源を調べるとわかるように、これは、江戸時代中期までは食事は二回しかなく(私の状況と同じであるが)朝飯前には力が入らなかった事から「朝飯前でも片付けられる単簡なジョブ」という事から言われるようになった表現である。ここまで来て、頭の良い汝らはお気付きのように「朝飯前さ」は仕事をもっている人間しか使えないワードなのである。つまり、無職業である「昼餉だけをポケットにいれて」の主人公は、この言葉を使う事を許されていないのだ。これで、朝餉は一点の曇りもなく否定された。次は夕餉について研究する。
夕餉とは日没の時間帯に食べる食事のことである。これも日本の話であるが朝餉、昼餉よりも夕餉が最も重要視され、質的、または、量的にも充実したものになる傾向であるようだ。まあ、ここでも夕餉の内容は特に重要ではない。重要なのは夕餉=一家団欒という図式である。意外に思うかもしれないが、この事から夕餉は否定される。なぜか?主人公は世捨て人であるからである。世捨て人であるから夕餉=一家団欒という図式が崩壊する。つまり、一家団欒を持たぬ者には夕餉を食べる資格がない。このように夕餉説も一点の曇りもなく否定された。
このように、昼餉statementが適切であることはクリアーになった。
ここで、述べたような事を考え合わせればはじめに述べたようなイメッジは大きく変更される事になるだろう。その内容については、仲珍諸尾「昼餉だけをポケットにいれて」を読んで味わってもらいたい。
