へべれけ!コンバット005
さーて、読者の皆さまお待ちかねの、連載再開ですよ。一昨日の午後、調布駅前の中華屋さんで紹興酒のボトルを3本空けながら、今後の「へべれけ!」の展開をいかにすべきかクオヒコとマサヒコが話し合った件については「新成人おめでとう」企画の中で述べた通りだが、その際のマサヒコの意見は「そりゃあ東北旅行だろう」というものだった。「えっ。北海道旅行が済んだばかりだぜ」と異を唱えるクオヒコに向かって、34年来の友人は教え諭すように語ったのだ。「まず第一に、この連載が好調なスタートを持続できるか否かは、現代を生きる若者たちにとって珍妙極まりない70年代後半の青春写真の不思議な魅力をどれだけ発揮できるかにかかっておる。そして第二に、これから約1年間もの長期にわたって連載を継続できるか否かは、今の青少年たちの目には嘘か奇跡としか思えないであろうわれらの青春劇をどれだけビビッドに活写できるかに、やはりかかっておるだろう。その意味でも、主要登場人物を早めに投入しておかなくてはならぬ」。バイ貝のクリーム煮を箸でつまみながら、なるほど、とクオヒコは長身痩躯の学友のメガネの奥の目を見つめて、頷いた。ただいま五十肩を患って右腕が思うように動かせず、回復するまではコンバットが踊れないので、あの「新成人おめでとう」企画では撮影者に甘んじたものの、さすがはマサヒコ、東証一部上場企業の役員だけあって頭が切れる(大学4年の10月からスタートした就活で30社も落っこちた人間とは思えない。まあ、われわれの時代も、不況で、ちょっとした就職氷河期ではあったが。)
彼の述べた「70年代後半の青春写真」は、事実、あまり枚数が存在しない。カメラ付きケータイはおろか、自分の下宿部屋に固定電話すら持たず、外からの連絡を受けるのはもっぱら大家さんちの電話。それをいちいち下宿生たちに取り次いでもらうのが往時の情報生活スタイルだった。だから、青春時代の写真の絶対数も少ないのだ。今の若い人たちみたいに、いつでもどこでも好きなときにパシャパシャ撮影などできなかったから、旅行などのビッグイベントを催すときくらいだったですね、アナログカメラを携行して写真を撮ったのは。
さらに「主要登場人物の早めの投入」も、まったく彼の言う通り、重要なことだ。連載の開始からここまで、ご紹介してきたのは、クオヒコにマサヒコ、カツヒコを加えた「3ピコ」と、「動」のユミコちゃん、「静」のケイコさんの「2人のマドンナ」、それと前回の北海道野宿旅行でその全貌を現したユズル。まだ、たったの6人である。このワセダの青春記には、ざっと数えただけでも20人以上のキャラが登場する予定であり、そのデビューのあり方はできるだけビジュアル的に鮮烈で、芳しき70年代後半のグラフィティを生き生きと描きだすものであることが望ましい。そこで、今回は、貴重な写真の中に収まっている主要メンバーの1人、ナオヒコに登場してもらうことにしました。
ナオヒコといえば、「3ピコになれなかった男」が、われわれの間では代名詞になっている。そう、せっかく名前に「ヒコ」がつくというのに、彼は「ワセダの3ピコ」に入れてもらえなかったのだ。
下宿で自炊を始めたいのだが食器が1つもないので学生食堂に行くたんびにお茶わんや箸の類をシャツの下に隠して持ち帰ったマサヒコのような、4年間を通した家庭教師のバイトで合計8人の園児や児童や生徒たちを教えるも教え方が不真面目すぎたため全員受験に失敗させたクオヒコのような、卒業してもなお自分自身の結婚式の行われる当日の朝まで広島市内の飲み屋街の路上で眠りこけていたカツヒコのような、それらのような破天荒が、残念ながらこのナオヒコには、なかったね。
下に並べた写真でお分かりのように、ナオヒコはナヨヒコと呼びたくなるような優男だ。あれから34年が経過した現在も、この容貌はいささかも衰えを見せず、こないだの暮れの同窓会の2次会のカラオケスナックのおねいちゃんたちに「52歳だよ」と実年齢を告げても、まったく信じてもらえず、困り果てておった。だが、3ピコに負けないくらい大学の講義には出席せず、教科書の代りに競馬新聞を愛読していた彼も、頭脳は明晰だった。興味本位で半年間だけ通った英会話スクールでの学習成果を、たちまち英検1級合格の形で具現化したくらいだからね。ただしその英語力を、あれから30有余年の間、「ハネムーンの旅先でネイティブのように話せた」ことくらいにしか活用したことがないのは、まさに「無欲の権化」の異名に恥じないナオヒコの真骨頂で、このような人柄を評価したわれわれは、3ピコに準ずる「ワセダの4ピコ」の名誉を彼に授けたのだ。(マサヒコ&クオヒコ&カツヒコ&ナオヒコ = 4ピコ)
おっと、前置きが長すぎたか。それでは、「風に吹かれて」8泊9日間の予算4万円弱(バイトもラクだった)全東北制覇野宿旅行を始めます。リュックと寝袋と国鉄の周遊券とユースホステルの会員証を頼りに、1976年9月2日木曜日午前9時41分、上野駅発「急行まつしま1号」自由席の、早くもへべれけ乗客と化したユズル、マサヒコ、クオヒコ、ナオヒコ(4人編成の理由はもはやお分かりですよね)は、午後2時48分に仙台駅に到着(昔はとにかく仙台まで遠かった)。市内観光を楽しんだのち、あらかじめ旅程に組み入れておいたクラスメートのリョウイチ宅での一宿一飯の恩義にあずかって、翌3日は松島へ。翌4日は、平泉~盛岡~田沢湖へ。若者たちの旅は、順調そのものだった。翌9月5日、初めての焚火野宿を敢行した秋田県の男鹿半島で、あの「目覚めたら、どひょひょーん事件」に遭遇するまでは……。(続く)
旅立ちの朝。大隈講堂にて、安全祈願。
右端がナオヒコ。優男じゃろ。
人生、雨も降るさ。
田沢湖畔で、ちゃかちゃちゃっかちゃん♪