落し物を届けてくれた異性に
「会ってお礼がしたい」と言えるだろうか。
でもって、ちょっと小洒落た喫茶店でお茶しながら
肩の力を抜いた話ができるだろうか。

そんなこと、今の僕にできる自信がないかもしれない
だからこんなことを書いてしまっている。

「下心があるんじゃないかって思われたらどうしよう」
その心の乱れは態度に表れ伝染する。
純粋な感謝のはずでも、心に迷いが生じた時点で純粋ではなくなる。

そんな照れとか迷いとかを寄せ付けず、淀みなく躊躇いなくストレートに
「会ってお礼がしたい」
そう言えるのが大人なのではないか、そう思った。



迷いが生まれているときって、自分のことを気にしているときなんだって。
相手のことを気にしているときには、勇気が生まれるんだって。
たしかにそうかも。
コミュニケーションってのはうまく伝わらないのが基本で、

伝わらないのををどうにかして伝わるように、

互いの持ってる常識やら考え方を公開して、摺り寄せて、

共有していくことが必要なんじゃないの?



共有を疎かにしてる人ってメチャクチャ多い気がするけど、

特に大きな問題になってないところを見ると、

どうやらそんなステップなくても世の中回るらしい。



常識や考え方の共有をあまり必要としない相手っつーのが

いわゆる「気の合う人」なんだろう。

その一方でちょっと理解に苦しむところがあっただけで

「こいつとは合わないな」

って、さっさと共有をあきらめてしまう人ってかなり多いと思う。

そんなんコミュニケーション以前の問題よ。



そう考えてみると人間は普段付き合う相手を、

ものすごく目の細かいフィルターで選別してるんだなと。

もったいねーナアそれって。人間の目から見た世間はそんなに狭いモンなのかよ。



だから初対面の人に話しかけて、内容メチャクチャでもいいから

とにかく喋ろうとする人ってのは貴重ですよ。決して無碍に扱ってはいけません。

自分の価値観や常識を公開してくれてるんだから。

その他大勢よりも、コミュニケーションしようとする意識がちょっとだけ上回っているわけだから。



願わくば、これに加えて相手の価値観・常識を知ろうと、

相手の話を聞こうとする姿勢でいてくれればもっといいんですけどね!





・・・と人間がどうとか抽象的なこと書いてる割には

大体自分の個人的&どローカルな話題だと途中で気付く

何様ペタ様アゴなし様なのでした!
今までやって来たことの中でも、

素直な心とパッションがなければこんなことできなかったなー

と思うことはけっこうある。

「これが本当に俺なのかっ!?

って思うほどの無茶ができる。




とはいえ、その行動で周囲の人が喜んでくれたかどうかはわからない。

顔を見ても、話を聞いても、ありがとうと言ってもらっても、

本当のところはどうなのか、僕は知ることがない。

他人の気持ちのこととなると、一気に自信を失ってしまうようだ。




・・・あれこれ勘ぐっても仕方ないので、

たとえ押し付けがましいと思われようが

自分の内なるパッションを、素直に出すことにした。

みんなに喜んでもらえたらいいなと。