人が判断をするときには、なにか基準や根拠になるものが必要なはずです。それがハッキリしない場合に使うごまかしの言葉が「常識」だ、というものです。

判断の基準や根拠が明確な場合には、「~から考えて、こうしたほうがいい」とか「~だから、こうしなさい」と言えば簡単です。でもこの場合、話し手にとって、面倒な問題が生じてきます。
判断の基準や根拠について、その正しさを証明しなければならないからです。
相手から、自分の判断の基準や根拠を批判され、反論された場合、その批判や反論に対し、さらに反論し返さなければなりません。よほどしっかりした基準や根拠がないと、「水掛け論」になってしまいます。

結局、「常識」という言葉は、相手の批判や反論を封じ込めるための「魔法の呪文」だと考えると、とてもわかりやすいでしょう。
自分の判断に自信がない人にとって、うってつけの言葉なわけです。

先ほどの例を見てみましょう。
どれも、実際にそう言われた場合、反論しにくいのがよくわかります。特に、a、b、c、f、gの例のように、上の立場の人が、下の立場の人に対して発言する場合には、これほど便利な言葉はありません。判断の基準や根拠を、まったく考えなくていいのです。

 世の中には、誰もが使っていながら、実はよくわからない「言葉」というものがあります。
 その代表は、「常識」という言葉でしょう。
 「常識」というのは、ふつう、「誰もが知っていて当たり前のこと」という意味で使われています。専門的ではない、一般的な知識だといいかえてもいいでしょう。
 しかし、「常識」について考え出すと、不思議なことがたくさん出てきます。

 少し例をあげてみましょう。

 「おまえ、そんなことも知らないのか。なんて、常識のないやつだ」・・・ a
 「もっと、常識をわきまえなさい」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ b
 「そんなこと、あるわけがない。常識に反している」・・・・・・・・・・・・・・・ c
 「常識的に考えて、これが一番いいでしょう」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ d
 「常識からすれば、あなたの言う通りでしょう」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ e
 「アメリカでは違うかもしれないが、日本では常識だ」・・・・・・・・・・・・・・ f
 「この業界では、常識なのだ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ g
 「みなさんには違うかもしれませんが、私にとっては常識です」・・・・・・・ h
 「昔と違って、今では、もう、常識でしょう」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ i

 a、bは、やはり、誰もが持っている、または持っているべき知識であることがわかります。また、「常識」を持っていることが、社会人として、一人前と認められる条件であることもわかります。
 c、d、eは、共通の判断の基準として、用いられています。
 しかし、f以後は、その「常識」の通用する範囲が限定されています。
 hでは、「常識」とはいいながらも、個人にしか通用しません。
 iでは、「常識」が時間とともに変化することを示しています。
 これはいったい、どうしたことでしょう。

 もう少し、掘り下げてみましょう。
 「常識」とは、一般的であって、専門的ではないはずなのですが、その通用する範囲が限定されることもあります。つまり、専門的なこともあるわけです。
 とてもおかしなことだと思いませんか?
西欧に於ける常識の概念はアリストテレスの『霊魂論』に見える共通感覚(希:κοινή αἴσθησις コイネー・アイステーシス、羅:Sensus Communis センスス・コムニス)の概念に由来する。

アリストテレスは五感に共通的なもうひとつの感覚があって、これが、個別の感覚器官に限定されない知覚を可能にし、それを統合していると考え、これを共通感覚と呼んだ。具体的には、感覚の間の比較、関係づけ、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがその対象であると考えられた。

ついで、自然法思想の起源をなし、「自然の光」に照らされた理性的判断は「万人の合意 consensus omnium」をもたらすと説いたストア派から、Sensus Communis には現在に通じる、人々の間で共通する感覚・判断という意味合いが発生した。とくに、それをうけて、キケロに代表される修辞学の伝統においては、この意味における Sensus Communis が重視された。

13世紀のトマス・アクィナスはアリストテレスの意味での共通感覚の規定を受け継いで、彼自身の認識論をより詳細に展開させ、スコラ哲学はそれを受け継いだ。

17世紀のヴィーコやシャフツベリ伯によって、人々の共通の感覚という意味での常識は哲学的に主題化された。

イギリス経験論、およびスコットランド常識学派において、人々が共有する本能的で(健全な)判断能力という意味での常識の概念は重要な位置を占めた。トーマス・リードはその常識の観念を提示するに当たって、しばしばキケロの Sensus Communis を引用している。

カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。

歴史的には、トマス・ペインのパンフレットコモン・センスが共和主義的アジテーションにおいて常識の概念を中核に据えたことが有名である。