
口から文句が飛び出る前に、
母さんが、穏やかに笑いかけてきた。
「覚えてる? あなた、お父さんの
後ろの席にいるの、好きだったわね。
だから、あなたが今、
座っているところが、私の指定席だったのよ」
私は、ちょっと意表をつかれて、
あらためて車内を見回す。
シートの皮や、ガソリンや、ほこりの
混ざった独特の匂いが漂う車内、丸みのあるフォルムの
せいで、ちょっと狭苦しい天井、フロント
ウィンドウ越しに広がるボンネット。
...ああ、そうだった。
私は、母さんに向き直って笑った。
「...ね、ちょっと、席をかわってくれない?」
うなずいた母さんは、外に出ると、
ゆくりビートルを半周して逆側のドアを開いた。
私は、
運転席側のシートへ身体をずらす。
狭くて、小さなビートルが、ギシギシと揺れた。

ようやく、2人の席を交換すると、
目の前に見慣れた景色があった。
「...うわ、懐かしい」
運転席のシートに手をかけて
体を前に乗り出した。
幼稚園に通っていたころ、
よく父さんが、おんぶしてくれた。
父さんの背中に乗ると、小さな私が
ぐんと大きくなる。

今まで見えていたものが、逆に小さく
見えて、遠くまでたくさんのものが
見えて、ぜんぜん違う世界が広がっていた。
そして、温かい。シャツ越しに
感じる父さんの体温は、何よりも安心できた。

父さんが座る運転席の後ろから見る
景色は、父さんがおぶってくれたときの
景色とどこか似ていた。
だから、私は、いつも父さんの
後ろに座りたかった。

黄色いボンネットが、フロントウィンドウ
越しに見えた。
ボンネットの一番上の部分に、
小さなへこみがある。
...あのへこみ。
父さんの愛車に傷をつけてしまったときの
ことを思い出して、つい頬が緩んだ...。

備考:この内容は、
2009-9-11
発行:泰文堂
編著:リンダブックス編集部
著者:田中孝博
「リンダブックス
99のなみだ・花
涙がこころを癒す短編小説集」
より紹介しました。