【あそこは、さっさと辞めたほうがいいよ...】
いや。誰もいないというのは、
正確ではないかもしれない。
2、3度は、L字型の通路の折れ曲がった
向こうに、黒っぽい、すすけた
印象の人影が、
ス~ッ
と消えていくのを見た気がする。
けれども、その先には、常時、カギの
かかった非常口しかなく、実際に後を追って
みても、きまって何者もそこには いないのだ。
人などは、誰1人も...。
(何だったんだ、今のは...?)
が、桧山さんは、体力があるだけではなく、
また豪胆でもあった。
彼は、それらを気の迷いだと
思うことにした。
慣れない力仕事だ。今までやって
きた仕事とは、まったく性格が違う。
肩の筋肉もケイレンを起こして、叩かれたような
気がするのかもしれない。妙な人影も、
何しろ、このうす暗い場内だ。光の
加減に違いない...。
「あんた。よく続くねぇ。あの仕事」
だから。
仕事の行き帰りに気さくに挨拶を
かわすようになった。駐輪場の近くにある
宝くじ売り場の中年女性に、そう言われたときも、
桧山さんは、それが年齢からくる体力の
意味だと受けとったのだ。しかし...。
「何しろ、みんな、すぐに辞めてしまう
からねぇ。あそこの駐輪場。若いのも
年とったのも関係なしに、さ」
「...えっ?」
女性の言葉は、桧山さんの
好奇心を刺激した。
力仕事が含まれるといっても、
単純な作業の繰り返しだ。そのわりには、給金は
よかった。だからこそ桧山さんの目は、
求人募集の広告がとまったのだ。
それなのに、どうして人が続かないのか?
何か...
特別なわけでもある、
というのだろうか?
「みんな、辞めてしまうって?
すぐに? また、どうして?」
その問いに、相手はじーっと
桧山さんの顔を見つめて、今度はこんなことを
言うのだった。
女性は、年齢で言えば桧山さんよりも
年下だっただろうが、どこか苦労人の空気を
漂わせていた。
「...あんた、闇金か何かで借金が
かさんで...
それで、やむをえず、がむしゃらに
働いているのかい?」
「まさか!」
思わず否定する桧山さんに、
女性は言葉を重ねるのだった。
「じゃなかったら、他の仕事に就くか...
とにかく、あそこは、さっさと、辞めた
ほうがいいよ」
...それが、忠告だとすれば、「妙な」
としか言いようがない。桧山さんも
そう思った。そして問いただした。
「だから、いったいどうして? 心当たりでも
あるのかい? そうしたほうが
いいような?」
女性は、なにかを言いたげな顔をした。
「あそこがまだ、市場だったときもね。
いや、あの市場がさびれて、とうとう潰れて
しまったのはね。スーパーに競争で
敗けたからなんかじゃなくてね。あの...」
ちょうどそのとき、桧山さんは、後ろから
声をかけられた。
それは、別の知人で、飲みに行こうと
いう誘いであった。知人は、一方的に
しゃべり、桧山さんをその場から
引き離してしまった。
それで、女性との会話は、
とぎれてしまった...。
ふぇっ、ふぇっ、ふぇっ...
備考:この内容は、
2009-7-5
発行:KKベストセラーズ
著者:さたなきあ
「とてつもなく怖い話」
より紹介しました。