(伊藤朱里:1986年、静岡県生まれ。)
「変わらざる喜び」「名前も呼べない」で
第31回太宰治賞を受賞した。
「きみはだれかのどうでもいい人」(小学館文庫)
「ピンク色なんかこわくない」(新潮社)
「内角のわたし」(双葉社)
「無視するのは、
反論出来ないからですか?」
みんなが一斉にこちらを向く。
いつも憐れっぽく
眉を下げている大園さんが、一瞬だけ
目を吊り上げてから、猫撫で声を出した。
「急にどうしたの、結ちゃん。嫌なことでも
あったのかしら?少し落ち着いて」
「介護は大変だと思います。でも、同じ
経験をしていない人が、劣っているように言う
権利は誰にもない。金銭的な理由はしかた
ないけれど、さもお金を払った家庭が悪い
ような表現で、嫉妬を正当化するのは卑劣です」
「なにを言っているの? べつに正当化なんか...」
「では、なぜいつも自分だけが不幸みたいな
態度なんですか? 悲劇の主人公を演じる
のは自由ですが、人を勝手に悪役にしないで
ください。私は茶道の稽古に来ているんです。
あなたの主演舞台を、見に来たんじゃない」
大園さんが次第に肩を震わせ、袖で顔を
覆って嗚咽しはじめる。その目から本当に
涙が流れているか、怪しいものだと思った。
「あと、私はもう30です。自分より格下
の存在かのように刷り込むために、わざと
『ちゃん』付けで、呼ぶのはやめてください。」
「木村さん!」
橘先生が立ち上がり、今日は帰りなさい。
と静かに言った。それ自体は予想できた。
場を乱したことを謝罪しようとしたとき、先生は、
まっすぐ私を見つめながらこう続けた。
「少しつつかれたからと言って、勝手な
正義の種をまいて、ここを荒らすのは許しません」
おばーちゃん、と抗議する未咲を目で制して、
私は衝撃で、ぐわんぐわんと揺れる頭を
どうにか落ち着かせ、その場で深く一礼した。
「大変、申し訳有りませんでした。いままで
お世話になり、ありがとうございました」
「ルイルイ・太川陽介」
私を「結!」と 引き止める未咲の声と、
その彼女を「未咲」と引き止める
先生の声を聞きながら、
私は振り返えらずに 茶室を出た。
帰路に着くあいだずっと、またやってしまった、
と心臓がきしみつづけていた。先生の
言うとおりだ。勝手な正義の種を振りまき。
私はいつもその場を 台無しにしてきた。
学校でも、職場でも、居場所のない私を迎えてくれた
習い事の教室でも、私の主張が正義なら
大園さんの主張だって、誰かの正義なのに、
彼女が苦手だという理由で、まともに取り合わな
かった。
徹底的な論破でやり込め、気に
食わない意見を封じようとした。理不尽に都合の
悪いものを黙らせてきた祖母のように。
たとえ祖母が●んでも、彼女の血は私の
中で生き続けている。一生、逃れられない。
「お帰り、結。ゼリーあるけど食べる?」
そんな私でも、娘という理由で戻ってきたら
受け入れないといけない母はかわいそうだ。
やっと祖母から逃れたのに、同じくらい厄介な
悪魔が残っている、受動的な彼女に苛立つ
ことも多いが、いまはその余裕もない。
「あなた、ぶどうゼリーが好きだったよね?」
突っ張って靴も脱ごうともしない私の顔を、
母が覗き込む、怪訝そうにしつつも、
「どうしたの?」とは、聞かれないことで、
私は、悟った。
いつもなら、私が茶道教室に行った日に、母が
甘いものを勧めてくることはない。稽古で
さんざんお菓子を食べるのに、家まで
食べられないと、一度伝えたことがあるせいだ。
考えれば普通わかるじゃん! とまで口走った。
「おかあさん」
「うん?」
「...また、ポンて しちゃった」
母は、一瞬沈黙した後、うつむいた私の顔を
正面から ふうわりと抱き込んだ。
「相変わらずホウセンカねぇ」
涼やかな柔軟剤の香りを吸い込むと、同時に
目の奥が、ぎゅっと、痛んだ。だけど、こんな
ときばかり、まるでずっとかわいい娘だった
かのように 甘えて泣くのは都合が良すぎる。
「先生と未咲に、謝らなきゃ。大園さんにも...」
「そのときには、私も一緒に行くから」
「いいよ、べつに。子供じゃあるまいし」
「私のために、怒ってくれたんでしょう?」
「未咲がどう説明したか、知らないけど
違うよ。単に、あの人が気に入らないから
難癖をつけただけ。ちっとも正しくない」
「いいの。たとえ人から見れば正しい
としても、私が、嬉しかった。アノ日、施設で
おばあちゃんに怒ってくれたことも」
「え...でも、お母さん」
「そうだね。結のこと、叩いちゃったよね」
優しく包んでくれていた母の腕が、ふいに
ぎゅうっと痛いくらいの力を帯びた。
「あの人が、綺麗になった爪を見て 子供
みたいに笑うから。あんな親でも、最後の見栄
くらい守ってあげなきゃと思ってしまったの。
娘が味方してくれて、私の代わりに立ち向かって
くれて、本当は嬉しかったくせに」
ポン。かたくなに張り詰めた実が、弾け飛ぶ
ように、とうとう涙と嗚咽があふれた。母の
手が、ゆっくりと私の震える背中をさする。
「お母さんこそ、ちっとも正しくも強くも
なれなくてごめんね。許してくれる?」
返事の代わりに、母の体に腕を回し、同じ
だけ強く力を込めた。少しも正しくなれない
私たちは母子は、この抱擁が解けたとたん、
すぐにまた新たな火種を撒くかもしれない。
でも、未来に向かうべつの種を撒くことだって
できるはずだと、いまは信じてみたかった...。
備考:この内容は、
2024-6-10
発行:PHP研究所
「PHPスペシャル」
より紹介しました。