舞子は本当はたばこを吸わないのだが、
昼休みの終わりには、
「ちょっと、一服してきます」と
周りにことわって喫煙室へ行く。同僚たちは
みなノンスモーカーなので、そこへ行けば1人に
なれるのがありがたかった。煙草くさい部屋で、
缶コーヒーをすするのは、舞子にとって
ささやかな楽しみだった。
そして、工場長の大原も、この時間になると、
必ずたばこを、1本ふかしにここに来る。工場長とは
いってもまだ、28歳で、舞子より2つ年下だ。
みんなの前では「大原さん」と呼んでいるが、
大原の部屋に2人でいるときは、
「和樹」と呼ぶ。大原が、2年前に別の営業所からやって
来たとき、歳が近く 古株の舞子は工場の
人間関係などをあれこれ教えてやった。
その時からの仲だった...。
「ここ、辞めることにした...」
舞子が1人でいるのを確認すると、
大原はそばまで来て耳元でささやいた。
軽い痛みが胸をじわっと包む。
卓哉に対しては母親というより父親のように厳しく接し、
職場でもいつも気を張っている。
そんな毎日の中で、
大原と過ごす時間だけは温泉に浸って
いるときのように手足をゆったり
伸ばすことができた。
夫がいなくなってからの舞子は、声を出し
て笑うのをしばらく忘れていたが、
大原と2人でいると、自分の頬が自然にゆるむのを感じた。
とはいっても、大原との仲がずっと、
続くとは思っていなかった。今は、うまくいっていても、
人の気持ちはいつ変わってしまうか
わからない。夫が、蒸発して以来、舞子はそんな考えから
どうしても逃れられない。だから今も、
理由を問いただすでもなく、表情を変えもせずに
「いつ?」
と聞いただけだった。
「今月いっぱい、かな? 知り合いが
大阪でここと同じような会社やっててさ。手伝ってほしい
ってずっと言われていたんだ。関西も
悪くないかなと思って...」
「そう...
大阪か、いいな」
寂しくなる、とは言えなかった。
今まで大原は、どちらかといえば、その場しのぎのような
軽さで付き合ってきたと思う。なのに、
急に追い詰められるようなことを 口にしてあわてさせたくない。
ただ、この町を出られて
うらやましいのも本音だった。
すると、大原は、舞子が思っても
みなかったことを言い出した...。
「いっしょに、来てもいいよ」
驚いて大原の顔を覗き込む。
気まぐれなおか、まじめなのか?
煙をおいしそうに吐くその
表情からは、わからない。
「簡単に言わないで。卓哉がいるんだし...」
「だから、卓哉くんも。俺、子供
けっこう好きだしさ...」
大原と卓哉と3人で大阪へ。
高校の修学旅行で行ったきりの大きな街。大原に卓哉を
合わせたこともないのに。うまく想像の翼を
広げることができなくて、舞子は缶コーヒーを
握りしめたまま、しばらく ぼうっと、壁にもたれていた...
春は日が落ちるのが以外に早い。
スーパーに寄ってアパートに着くころには、もう辺りは
薄暗くなっていた。自転車置き場で荷物を
おろしていると、隣のコインパーキングに白いクーペが
停車してあるのが見えた、美里が来ているのだ。
1日のスケジュールをどんどん
消化していこうと せいてた気持ちが、しゅうと音を
立ててしぼんでいく。美里の周りでは時間が
ゆったりと流れていて、いつも、何かに追い立てられて
焦っている自分がバカらしくなってしまう。
だから舞子は、ときどきアパートへやってくる
2つ年下の妹に、できるだけ会いたくなかった...。
備考:この内容は、
2009-5-2
発行:泰文堂
編著:リンダブックス編集部
原案:水森野露
小説:梅原満知子
「99のなみだ・風・
涙がこころを癒す短編小説集」
より紹介しました。