「そこでよゥ、あいつの芸はよゥ、
23年前から...」
カウンターでは、映画の話からプロ野球の
話にうつった。これは、バーテンも好きとみえて、
盛んに 客の議論に加わっていた。
それで、ボックスの2人の客には、
皆から、あまり注意が、払われなかった。女の子を寄せ
つけないで、いきなり密談にはいっているのも、
なんとなく女給たちの 気にくわなかった。女の子
たちは、まるきり相手にしてくれない客よりも、
常連の客と、むだ話をしている方が
よっぽど、おもしろかった...。
隅の客はまだ、話合っている。その様子は、
かなり親しそうだった。
それでも、商売意識から、女の子たちは、
チラチラとボックスの方を眺めた。つまり、
グラスの酒が空いたのではないか? という心配
からだったが、何度眺めても、
テーブルの上の黄色い液体は
半分残っていた。景気の悪い客なのである。
ボックスの手前に、トイレに行く入り口がある。
店の女給も客も、そのために、ときどき、
ボックスの脇を通った。
これは、すみ子が、その横を通るとき、
ちらりと耳にしたのだが、言葉の調子が やはり東北弁
だった。濁音の多いなまりが耳につく。
若い方は、そうでもないが、半白頭の人物の発音はひどかった。
2人の話の内容はわからない。ただ、
すみ子が、通りがかりに、ちらりと耳にしたのは
年下の男の、
「カメダは、今も、相変わらずでしょうか?」
という言葉だった...。
備考:この内容は、
昭和55-1-25
発行:新潮社
著者:松本清張
「砂の器・上巻」
より紹介しました。