「伊能忠敬が初の実測日本全図を作れた理由...」
(洋画家 伊能洋)
先祖の伊能忠敬は、1745(延亭2)年に、
上総国(かずさのくに)に生まれ、17歳の時、伊能家へ
婿養子に入ります。
伊能家は、佐原村の旧家で
造り酒屋でしたが、約5,000冊もの蔵書が
ありました。
元来、勉強好きだった忠敬には、恵まれた
環境でした。ただし、本を読みふけって
商売を、おろそかにしたわけでは、ありません。
熱心に商いをし、
名主としても村人の信頼を集めて
いました。伊能家には、代々伝わる家訓があり、
「村人や困っている人たちのためにつくせ」、
という教えを忠敬も、忠実に守ったのです...。
例えば、天明の大飢饉が起きたときのことです。
忠敬は、武士を雇って、村人の打ち壊しを防ぐ
のではなく、まず、蔵を開いて十分な炊き出しを
しました。結果、佐原では1人の餓●者も出ず、
その危機を、乗り越えたといいます...。
50歳で、隠居の身となった時、彼は自分
より19歳も年下だった幕府天文方の高橋至明に、
弟子入りを志願し、歴学を学びます。
そして、当時の日本では未知だった、地球の大きさを
知りたいという大望を抱き、緯度1度の距離を
求めて、深川の自宅から、浅草の司天台までの
歩側を、繰り返しましたが、至時から、
「そんな近距離では、誤差が大きすぎる。せめて蝦夷
くらいまで行かないと」と、幕府に願い出ます。
しかし、役人には、そんな主旨が通じるわけも
ありません。当時、ロシアの船が、蝦夷近辺に出没
していて、幕府は、国防上正確な地図を求めていた
ので、至時は、それを口実に、やっと幕府御用と
して、忠敬の蝦夷測量の許可を得ます...。
今の金額で1,500万円もかかった実費も、ほとんど忠敬の
私費でした。やがて、出来上がった地図を見た
幕府が、その精密さに驚いて改めて、忠敬を
見直し、日本地図の作成は国家事業へと発展
していったのでした...。
忠敬は、日本全国、豆粒のような
島々まで、隈なく測量しています。
しかし、「北海道」などの、地図には、
「不測量」...。
つまり、測量できていない、という書き入れが出て
きます。険しい崖などで、どうしても
測れない箇所があったのでしょう...。
普通であれば、
だいたいの見当で、線を繋いでしまいそうですが、
忠敬は、それを、絶対に、許しませんでした。
いわば、その「不測量の精神」を貫いた点に、
科学者としての矜持(きょうじ)が、伺えます...。
忠敬が、大事業を成し遂げた理由の1つに、
「夢の持続」が、挙げられると思います...。
忠敬は、50歳になってから、急に天文をやろうと
考えたわけではないはずです。
海辺で、育った彼は、
幼少期に満天の星空を眺めながら、天体に
対する興味を抱いたのでは、ないでしょうか?
そして、若い頃からずっと勉強を続けていた。
さらに、当時、名主として大勢の人間を動かして
いたことが、後に測量隊を指揮するのに、
役立った。
要するに、忠敬の前半生と、後半生は、
別のものではなく、1つに繋がっていると
いうことです。そして、経験したことのすべてを、
取り込んで、何1つ、無駄にしない生き方をした人、
だと思います。
私は、忠敬のことを、決して突出した才能を持つ
人だったとは、思いません。
けれども彼には、抜群の根気があった。
一歩一歩の歩みは、微々たるものでも、それを
17年間、繋いでいって、日本列島を一周するに
至ったのだと思うと、
改めて、感慨を覚えます...。
備考:この内容は、
令和4-3-25
発行:致知出版社
発行:監修:藤尾秀昭
「1日1話、読めば心が熱くなる
365人の生き方の教科書」
より紹介しました。
(筆者の感想)
まさに、地図も積もれば、
山となるということですね。