【市販レーサーが育んで来た未来...】
1973年に、初代TZ250/350が登場して以来、今年で30年。
さらに、遡ると、1962年に登場したTD1以来、ヤマハは誰
でも購入可能な市販レーサーを、40年にわたり造りつづけて
きたことになる。
有名無名、多くのライダーがTZで
レースを知り、重要な一時期を過ごした。
また、世界を見ても、
TZが多くのライダーに活躍の契機を
与えてきた。そして、
今日のヤマハを築いた重要な
要素をも成しているのだ。
(文:辻司)
【TZが提供してくれた、泥臭く華やかな青春の一幕...】
ひょんなことから、「ヨシムラ」というレーシングショップの門をたたき、
ボクは、1971年から、ホンダのCB72でロードレースを始めた。
翌年は、CB250改だった。
しかし、4ストの市販車を改造してレースに
勝てる時代が、日本では終わろうとしていた。
1つには、2ストの性能向上。もうひとつは、
レギュレーションの変更で、MFJの
全日本選手権では禁止されていた、市販レーサー
での参加が'71年から可能になった。
その流れを見た「ヨシムラ」は、活路を求めて'73年から
アメリカへ出てしまった。。。
チームがなくなったのは、仕方ない、ボクは、
人づてに聞いた「滋野モータース」という
ショップへ行き、ヤマハの350cc市販レーサーを注文
した。
'73年はTZがデビューする年だったが、
入荷が開幕戦には間に合わないので、空冷の
TR-3にした。
「滋野靖穂氏」いわく、「おまえの
ウデじゃTZでも、TRでも、同じだ。」
ヨシムラのオヤジに、頑固さと口の悪さがまさるとも
劣らない、
メーカーに媚びを売らない突っ張り
精神も、同格のオヤジだ。それに、車両代金は
50万円なのだが、小僧が簡単にローンを組める
時代ではなく、もちろん、そんな現金も
ないので、信用分割払いにしてもらっていたから、
何を言われても、「グ~」の音も出ない。。。
50万円は、大金だった。ガソリンスタンドで、
早番と遅番の両方をやり、最大限に稼いでも、
月に5万円少々、大卒の普通の初任給は、
もっと、少なかったと思う...。
それだけ、稼いでも、
レースシーズン中は、サーキット通いを繰り返す
ので、出費が多く、あまり返済できない。
シーズンオフになってから、朝7時~夜9時まで
スタンドで働いて、そのまま雀荘で、夜中まで
働いて、なんとか丸1年で返済した。。。
高価ではあったが、それだけの価値は
あった。トップクラス「当時のセニア」の選手
たちと、基本的には同じ性能のマシンが、誰に
でも、手に入る。
マシンの性能とセッティング、
あとはテクニックだ。
莫大な費用を必要と
する改造が勝敗のかなりの要素になる4スト
とは違う。
走らせてみれば、今までのように
ストレートで簡単に、ブチ抜かれるようなことは
ない...。
ブレーキやコーナリングの性能も、同じ
はずである。同じでなかったのは「ボクの性能」
ということだ。
今までとは違う本物の
レーシングマシンの走りを感じつつ、テクニックを
磨くことに集中できた。
それに、新車が届いた時に驚いた、
大きな木箱をひとつ、マシンと一緒に手渡されたのだ。
「同梱パーツ」というもので、
中には、クランクが1本、シリンダーが1セット。
ピストンが2~3セットに、ピストンリングが
10セットくらい...。
それらの数の記憶は曖昧だが、
その他スプロケット類など、セッティング
パーツもたくさんあり、とにかくアマチュアが
1年間レースをやるのに、必要なパーツが付属していた
のである。これなら、少々高価でも仕方ない
と納得した...。
さて、TRだって、チューニングすれば、
ある面での性能がアップする。でもそれは、
わずかだし、扱いにくくなる面も、必ず出てくる。
重要なのは、正確なメンテナンス。
最初は、エンジンのオーバーホールはショップに依頼して
いたものの、車体まわりは自分で整備し、
セッティングするのは、当然のことだ。
仕事を終えて帰宅すると、家にあった崩壊寸前の物置に
こもって、作業するのが日常だった...。
特に苦労したのは、フロントブレーキの
調整である。両輪2リーディング式ドラム
だから、4つのブレーキシューを4個の
カムで作動させる。その、4つのシューの全面が、
完璧に同時に、ドラム面に当たるようにする。
そこには、特殊な技能はないけれど、ものすごく
根気のいる作業なので、夜が明けてしまう
こともたびたび。しかし、カウリングを外した
マシンと、向き合うのは好きだったが...。
備考:この内容は、
平成14-9-15
発行:八重洲出版
「MOTOR CICLIST」
より紹介しました。