【昭和50年当時の筑豊地方の鉄道地図】
北海道と並んで、「国鉄再建法」により多くの
国鉄(JR)ローカル線が廃止に、追い込まれた
のが九州。
その中でも特に、北九州・筑豊地方の鉄道地図は
さんざんなものになった...。
上の2つの地図を、見比べていただきたい。
左は、昭和50年(1975年)当時、
下は、平成21年のものだ。
上の地図を見ると、まるで糸が切れたような状態で、
筑豊地方に国鉄線が、密集していたことが
よくわかる。まさに、迷路のように入り組んで
いるといえよう...。
東京の地下鉄路線図に
匹敵するほどの複雑さだ。
さらに、本線から分岐して、ヒゲのように
延びる支線も目立つ...。
当時の筑豊地方には、現在の東京並みに人口が
集中していたのだろうか? まさか、そんなことは
考えられない。では、いったいこの迷路は、
何のために、建設されたのだろうか?
筑豊といえばボタ山、つまり炭鉱を連想する
人も多いはず。そう、これらの国鉄線は、運炭路線
として建設されたものなのである。
山から産出された石炭を、いかに効率よく運ぶかが
第一義であり、旅客にとって便利な鉄道
路線網を作ろうなどとは、みじんも考えていなかったろう。
結果、この複雑怪奇な路線網が完成
してしまったというわけ...。
最盛期には、ベテランの国鉄職員ですら、
筑豊地方の路線の全容を把握している人は少な
かったという。
まして、一般の利用客など、何がなんだか、
サッパリわからないといった状態で、
まさに迷路地獄である。
不便なのは、その複雑な路線網だけでは
なかった...。
これらの路線の中には、旅客列車の本数が、
極端に少ないものも存在していた。
石炭の効率的輸送が、建設目的であるがゆえに、
人の流動など、一切、無視して敷かれた路線も
多く、当然、乗客も少なく、旅客列車の本数は、
必然的に少なかった...。
一時、「国鉄全線完乗」が、ブームになったものだが、
その挑戦者たちを泣かせたのは、
やはり、ここ筑豊の路線郡であった...。
なにしろ、複雑な路線網を効率よく乗りつぶす
こと自体、至難のワザと言えるうえに、
思うように都合よく列車が来ない
路線も多かった...。
一例を、あげるならば漆生線。現存する後藤寺線の
下鴨生から漆生を経由して、上山田線の
下山田とを結ぶ、わずか7.9kmの、短い路線なのだが、
昭和52年当時の時刻表で、下り列車の時刻を
見ると、途中の漆生止まりの列車が、ほとんどで、
漆生~下山田間を走る列車は朝2本、
夕方1本の1日、たった3本とう閑散ぶりである。
また、筑豊は、「青春の門・筑豊編」
の舞台でもあって、
相当に荒っぽかった地域。列車の
待ち時間に、町中を探索などすれば、
何が起こるか
わかったものではない。
当時、「国鉄全線完乗」を達成された方々の、
ご苦労が偲ばれる...。
このような状態の路線網だから、石炭産業の
衰退により、主たる使命であった石炭の輸送が
なくなると、何のために走っているのか、
わからない路線ばかりとなったのは、
言うまでもない...。
結果、この地域の多くのローカル線が、
「国鉄再建法」の
●食となり、現在(2009年)の簡素な
路線網に変化したという次第。
現在の鉄道地図ならば、「JR全線完乗」を
目指す人にとって、赤●の手をひ●るような、
ちょろいものだろう...。
備考:この内容は、
2009-11-30
発行:KKベストセラーズ
発行者:栗原幹夫
著者:所澤秀樹
「つい誰かに教えたくなる鉄道雑学」
より紹介しました。
(筆者の感想)
まあ、その~、
日本列島改造と言う問題に置きまして、
我がニッポンは、その~、
所得倍増計画という点に置きまして...
きゃは!
「●中▲栄」さんか!
言うじゃん、
おっさん!