【 2 】
しかし、会社がどんなに考え直すように
言ってくれても、今度こそ裕希子は、辞めるつもり
だった。
花は、惜しまれるうちに、人の目から
姿を消したほうがよい。無残にしぼんで、どこへも
行く場所がなくなってから、会社の片隅に男の
出て行けがしの目に逆らいながら、しがみついている
くらいなら
自○したほうが、ましである...。
裕希子は、この3年間、OLとして働いたおかげで、
企業というものの、体質的な非情性を
肌で感じとっていた。
それは、決して自分に対しても
例外ではない。会社は、自分を慰留しようと
したが、それは会社の温情ではなく、まだ自分に
月給に相当するだけの、価値が残されているから
ある...。
このまま、その”疑似温情”に甘えて、
一寸延ばしに退社を引き伸ばしていたところで、
いずれは、辞めなければならない時期が来る。むしろ、
今までいたのが、長すぎるくらいである。
彼女が、予定の2年を、1年超過したのは、
恋をしたからであった。彼女は、その恋に、この
3年間を燃焼した。後には、燃えあがらないくらい
激しく燃えた...。
そして、恋の正体を見届けた時、彼女は事実、
燃え殻のようになってしまった...。
その時の、男の正体の見せた卑劣な態度は、自分の
心に印された屈辱として、生涯消えることがない
だろう....
「すまない」と、彼は、わびた...。
わびて、償われるべき性質のものではなかった。
だが、どちらを選ぶかの択一の岐路に
立たされて、彼は、裕希子を捨てたのだ。
「きみのことを愛している。世界中の誰よりも。
いまでもこの気持は変わらない。きみを愛する
気持ちは、一生変わらないよ。誓ってもいい。しかし、
これは、恋愛とは、別の要素なんだ。許して
くれ。僕のことは、あきらめてくれ」
彼は、裕希子の前に、ひざまづいていった。
「誓う? 私にあきらめろと言っておきながら、
何を誓うのよ?」
裕希子は、むしろ呆然として言った。
「きみに対する愛だ。たとえ別れても、きみを
一生涯、愛することを誓う。そうだ。僕と、別れ
ないでくれ。ぼくたちは、分かれる必要はないんだ。
これからも、会ってくれるね?」
「何をおっしゃるの? あなたは、奥様と、
新しい家庭を営んで行く傍らで、私との
関係を続けるつもりなの...?」
「だから、それは別の要素だと、言ったろう。
ぼくが愛する女性は きみだけなんだ。あとのことは、
すべて世の中と、協調するための形式にすぎないんだよ」
「べつの要素でも、形式でも、あなたは別に
家庭をつくりながら、私との関係を持続しようと
しているんだわ。私はいやよ。あなたのおもちゃに
されるのは、まっぴらだわ」
裕希子は、男の身勝手さに、怒るよりも、
呆れ果てていた。家庭は破壊したくない。さり
とて、裕希子の、ようやく熟れてまろやかな味を、
醸し出してきた○も手放したくない。
こうして ”べつの要素” などと、いう 手前勝手な
理屈をつけて、裕希子を手元に引きとめて
おこうとしているのだ。彼女の苦悩や悲哀などは
まったく考えていない、男の欲望本位のエゴ
むき出しの姿勢であった。
...
こんな男に、私は、自分の青春の、最も
貴重なものを賭けたのだろうか...?
裕希子は、夢から冷めたような気がした。
悪い夢を見たのだ。だが、悪夢にうなされた後のように...。
全身に虚脱感が残った。今まで自分の心を
充たしていたものが、偽物であることがわかったが、
真実と信じていただけに、完全に心と同化していた。
それを、取り除いた後は、大きな傷が
えぐられて、いちじるしく出血した、いまでも、
その血は、止まらない。
それに変わる力強い真実を探し
出して、心の空洞を充填しないかぎり、血は
いつまでも止まらないだろう...。
そんな真実が、他にあろうとは思われない。
裕希子は、彼を真実と信じたればこそ、青春の
3年間を賭けたのだ。女の初めての貴重なものを、
いくつ捧げても捧げ足りないくらいに、それを
1つしかもっていないことが、もどかしいような気持ちで、
男に捧げた...。
今にして思えば、行きずりの浮浪者に
投げ与えてやったほうが、ましなくらいのくだらない
男に、いとも無造作に寛大に、取り返しの
きかない貴重品を、洪水のように浴びせかけて
しまったのである...。
だが、それを、いまさら後悔したところで、
失われた3年間が、戻るわけではなかった。ただこの
たとえようもない虚しさが、たまらなかった。
偽物ではあっても、それが、ある間は、確実に
それだけに心の容積を占めていた。とりあえず、
空洞を満たしてくれるものがあれば、なんでも、
よいとすら、思った...。
旅へ出ようと思い立ったのは、虚しさを
少しでも、紛らすためである。
どこへ行こうか...? どうせ行くなら、
海外がよいと思った。裕希子は、これまで海外旅行を
した経験がない。女子社員には男とちがって、
海外出張もなかったし、休暇はすべてあの男と
会うために使っていた。
見知らぬ異邦への憧憬はあった。
それは、強すぎるくらいになった。
...
見よ、この入海に眠れる舟を、
その性や 漂白の旅路を好む
かけそき君が 望みをば
叶えんと 切に願えば
地の果しより 集い来たり
沈みいく陽は
野辺も入り江も
隈なくまちも ひた塗りぬ
黄金と紫、世はねむる
熱き光芒の 只中に
裕希子は、このボウドレエルの詩を愛誦した。
少女時代、いつかは自分を未知の美しい
とつくにへ 運ぶために、地の果てから白い船が、迎えに
来るような気がした。
あの夢は、いまだに胸の底に密かに生きている。
突然、彼女の心を恋の爪を持ってしっかりと、
従え、その真ん中にどっかり居座ってしまった。
あの男たちのために、ロマンチックな遠方への憧れは
抑圧され続けた...。
いまその抑圧を取り外されて、旧(ふる)い日の憧れが
よみがえってきたのだ。長い間、圧えつけられて、
以前の形はだいぶ歪められてしまったが、
憧れであることに、変わりはなかった...。
「この憧れが、私の傷を柔らかく救って
くれるかもしれない...」
男のために抑制していた未知の邦(くに)への憧れを
男と別れた後に果たすのも、一種の復讐に
似た感覚をもたせてくれる。
アテネ、イスタンブール、ローマ、ナポリ、
ベニス、フィレンツェ、チューリッヒ、ロンドン、
パリなどの、まだ見ぬ遠い異国の都会が、
彼女のまぶたに、彷彿した...。
いずれも、海外旅行のベストセラーともいうべき
都会ばかりだが、それらの町々は、彼女の想像の
中で、美化され、変形されて、それぞれ
メルヘンのような都邑(とゆう)を、
形作っていた...。
彼女は、退職すると同時に、海外旅行へ出かける
ことにした。それをもって、3年間のOL生活
と、あの男に対する決別のピリオドに
するつもりだった。
「旅から帰って来て、私はまた、新しいスタートを
するんだわ...」
その意味では、この旅行は、ピリオドであると
同時に、スタートマークである。
「きっと、何かを、見つけてくるわ!」
彼女は、せめてもの期待を、未知の旅に寄せた。
そうでもしなければ、やりきれなかったのだ。
恐ろしい●人事件に、巻き込まれる旅になるとも
知らず、裕希子は、自分を振るい立たせるように
して、少しずつ旅の支度を進めていた...。
備考:この内容は、
昭和57-1-30
発行:角川書店
著者:森村誠一
「虹への旅券(パスポート)」
より紹介しました。
(筆者の感想)
あの~、筆者は、いま、
裕希子は、「ゆっこ」でも、
全日本女子バレーの
「WADA ゆっこ」選手に夢中です。
「紹興酒」3拍子そろった、
彼女の今後の活躍が、
楽しみで、たまりません...。
きゃは!
ボケが多すぎよ!
ソ~スか!
うっ...!
たまりだけに、
しょうゆこと。
なんちって...。