壮一郎の意識は、翌朝に戻った。
千賀子の姿を認めると、壮一郎はパチパチと
瞬きをして、何かを思い出すような表情に
なった。千賀子は、飛び上がって、叫びだしたかったけれど、
夫をびっくりさせてはいけないと、必●に
笑顔をつくった。ナースコールボタンを
押して看護師を呼ぶと、枕元に顔を近付けて
囁いた...。
「あなた、昨日はごめんね。1人にして...」
すると、夫は少し目を細めて、笑うような仕草を
確かに見せた。千賀子の願いは、
叶えられたのだ。
「また、山歩きに行きましょ。今度は、私も、
頑張って歩くから、ね?」
夫は、少し疲れたのか、目尻を下げたまま、
軽くまぶたを閉じる。ちょうどそのとき、雲が
切れて、柔らかい朝日が、病室に差し込んできた。
自分のせいで、夫に大変な思いをさせてしまった。
その事実は変えようがない。でも、ずっと
一緒にいれば、償って行くことが出来る。
これから、たっぷり時間をかけて...。
昨日から、緊張がほぐれて、千賀子も
不意に軽い眠気を感じた。ふわぁ、と小さいあくびが
思わずもれる。ぼんやりした意識の中で、
夫がくすっと笑うのが聞こえた...。
辛抱強いリハビリのおかげで、王一郎は、
順調な回復ぶりをみせた。思うようにならない自分の
体にやけを起こすこともあったが、千賀子が
静かに夫を励まし続けたのだった。
そうして1年経つころには、
壮一郎は、左腕に軽いしびれを
残すぐらいになり、言語障害もほとんど
なくなった...。
そして、風が急に冷たさを増した10月の
ある日曜日、2人は、思い出の場所へ出かけた
のだった...。
「急がないでいいわよ。きついところは、
私の肩につかまってね」
去年参加したトレッキングでは、一行は、
少し上りのきつい中級向けのコースを選んで
歩いた。でも、2人で歩く今日は、千賀子が
事前に調べておいた緩やかなルートに決めた。道中には
休憩所もいくつかあり、のんびり歩くには、
うってつけだ。
千賀子が先を歩き、足元が危なくないかを
確かめる。そのすぐ後ろに、壮一郎は続く。
スローペースの2人を、途中で何組かの若いカップルが、
追い抜いていった。それでも、千賀子と、壮一郎は、
急がずに土の道を踏みしめながら、
ゆっくりと進む。
先へ行くことが目的ではなく、2人で
歩くことが大切なのだと、わかっているからだ。
色づき始めた木々や、野鳥の鳴き声を
楽しみながら...。
そうして30分ほど歩いたころ、千賀子の
歩みは、さらに遅くなっていった。
「なにかあったときは、夫を守らなければ、」という緊張のせいで、
疲れを急速に、ためてしまったのかもしれない。
呼吸が乱れ、膝がガクガクして、足をうまく上げられなく
なってきた。壮一郎の方は、若い頃に、
山歩きのコツをつかんでいるせいか、上手に
一定のペースを守っている。そして、ブナの木陰に
ベンチを見つけると、こう言ってくれた。
「少し、休もうか?」
自分が、夫を引率してきたつもりだったのに、
気がついたら、立場が逆になっている。そのことは
情けないけれど、夫の申し出が、千賀子には
ありがたかった。2人、並んでベンチに腰を下ろすと、
夫がザックから板チョコを取り出し、
大きな欠片をポキンと折って、手渡してくれた。
「ああ、おいしい・
甘いチョコレートを口に含むと、疲れが
飛んでいくような気がする。千賀子は、思わず、顔をほころ
ばせた。そのようすを見ていた夫が静かに口を開く。
「お前も...」
千賀子は、思えわず笑顔になった...。
聞き覚えのあるセリフだったからだ。
「...老けた?」
「いや、その...
雪絵に、似てきたな」
夫は、倒れてからしばらくの間、言葉が、
うまく出てこないことも多かった。言語リハビリを、
欠かさなかったおかげで、今では、だいぶ
なめらかにはなってきた。
でも、耳に心地よい
言葉1つ できない性格は変わらない、
たぶん、壮一郎は、自分にとっては、今の一言が妻に
対する最大限の、ほめ言葉なのだろう...。
「違うわよ。雪絵が、私に似てきたの、あ、
わかった、お前も雪絵に負けて無いぐらい若いな。
って、言いたいんでしょ?」
「そういう意味じゃない...」
お世辞なんか言ってもらわなくてもいい。
こうして2人でいられれば、目線やしぐさや
いろいろな方法で、気持ちを伝え合うことは
出来るのだから。でも、不器用な夫の言葉が、今は
チョコレートのように、千賀子の体中に染み込んだ」
「あなたも、若いわよ、十分ね」
「何を、言っているんだ」
軽口を叩いているうちに千賀子は、だいぶ
元気を取り戻すことができた。一足先にベンチを
離れた壮一郎が、「ほら」と、手を差し伸べてきてくれた。
夫の手を取り わざと、「よいしょ」と、
掛け声を上げながら立ち上がる。しばらくは平坦な道が
続くのを幸いに、千賀子は、そのまま夫の手を離さず
手をつないで歩くことにした。
壮一郎は、
ちょっと照れくさそうに顔をしかめたが、
それでも、千賀子の手を、そっと握り返してきた。
「いい気持ち。秋もいいけど、春も
キレイでしょうね?」
「今度は、雪絵たちも、呼ぼうか?」
楓もつれて、親子3代か...。5人でにぎやかに
お弁当を広げる情景が、一瞬浮かんだが、すぐに
千賀子は、思い直した。
やはり、ここにへは、2人で来よう。雪絵たち夫婦は
自分たちの場所を見つければいい。そして
幼い楓も、いつか誰かと歩くことになり、
2人で年を重ねていく...。
ぼんやりそんなことを思いめぐらしていた
千賀子は、うっかり木の根に足を取られて、転び
そうになった。壮一郎があわてて支えてくれようと
したが、しびれる左腕に、力が入らな
かったようで、2人は、もつれるようにして地面に
倒れてしまった。
「大丈夫か?」
「...まあね」
転んだと言っても平らな道だし、土の地面だから
痛くはない。夫に覆いかぶさるように倒れて
しまった自分の格好がおかしくて、こんな
ときだというのに、千賀子は、少し笑ってしまった。
壮一郎の方も、口では「重たいぞ」と言いながら、
笑みを浮かべている、
2人は、もう一度、どちらからともなく、
くすっと笑った...。
おわり...
備考:この内容は
2022-1-9
発行:泰文社
著者:原案:水森野露
小説:田中夏代
「99のなみだ・空」
より紹介しました。