夏休みに入ってすぐ、野球部の合宿が行われた。
合宿と言っても、遠出をするわけではない。
学校に泊まって、練習はグラウンドで
あるのだ。それは、4泊5日の日程で、行われた。
この合宿には、入院中の「夕紀」を除いて、
すべての部員が参加した。お陰で、みなみも、
そこでようやく、すべての部員と顔を合わす
ことができた...。
合宿初日、みなみは、部員たちに向かって
改めて自己紹介をした。しかし、このときは、
「野球部を甲子園に、連れて行く」という、自分の
目標には、あえて触れなかった。
それは、話しても、どうせ否定されるだけだろうと、
いうのもあったけれど、それ以前に、
もう少し野球部のことを知りたいと、
思ってたのだ...。
だから、この合宿期間は、野球部の観察に
充てようと考えていた。まずは、野球部の
ことを見て、知って、わかりたいと思った。
目標を言うのは、それからでも遅くないと
思ったのだ...。
そうして、みなみは、合宿初日から野球部を
観察し始めた。
するとそこで、すぐに、気づいた
ことがあった。それは、ある1人の部員に
ついてだった。その部員の醸し出す雰囲気が、
部全体に、大きな影響を与えていたからだ...。
その部員は「浅野慶一郎」という2年生だった。
ポジションは、ピッチャーで、それも1年生
のときから、背番号「1」をつけている。押しも
押されもしないエースであった。
この慶一郎が、ちっとも真面目に練習を
しないのである。グラウンドには、出てくる
ものの、親しい仲間と、いつもおしゃべりをしている。
そうかと思うと、ベンチに寝転んで、
何やら音楽を聞いている、あるいは、ふらりと、
どこかへ、いなくなったりする。
時々、キャッチボールを
することもあるけど、それは、いつでも
おざなりで、緊張感といったものが
まるでない。
ところが、そんな慶一郎に対して、誰も何も
言わないのである。部員が、何も言わないのは
もちろん、監督の「加地」までもが、
黙っているのだ...。
それだけではない、加地と慶一郎との間には、
見えない壁のようなものがあった。
一度、加地が、慶一郎に話しかけたことがあった。
それは、何かを注意したり、怒ったり、
しようとしたのではない。もっと、たわいもない、
連絡事項のようなことを伝えようと
しただけだ...。
ところが、それを慶一郎が、無視したのである。
聞こえなかった振りをして、そのまま
プイと、向こうへ行ってしまった。
しかし、それは、ちゃんと聞こえていたはずだった。
端で見ていた 「みなみ」にも、それは、
わかった。慶一郎は、あからさまに、加地のことを、
無視したのだ...。
それでも、加地は、慶一郎に、注意を
促したりすることはなかった。合宿期間中、
2人が接触したのは、このときだけで、後は、
お互いを避けるように、距離を縮める
ことはなかった。
それで、みなみは、1年生女子マネージャーの、
「北条文乃」をつかまえて聞いてみた。
「ね、浅野くんのことなんだけど...?」
「え? あ、はい」と文乃は、びっくり
したような顔で、みなみを見た。
何度となく顔を合わせているのに、彼女は、
いまだに、慣れるということがなかった。
「浅野くんて、なんか真面目に練習を
しないわけ?」
「え?」
「ていうか、なんで監督が、それを許してるの?
ううん。私には、監督が浅野くんを避けて
るように見えるんだけど...」
「え? あ、はい」
「あの2人、どういう関係なの? 浅野くんは、
なんで、いつもあんな態度を取っているのかな?」
「え? あ、はい」
え、あ、はい...
というのが、文乃の
口癖だった。何かを聞くと、いつもこれが
返ってきた。
そこでみなみは、「え、あ、はい」以外の
答えを引き出そうと、しばらく文乃を
黙って見つめた。
しかし、文乃は、それっきり
口をつぐんだまま、何も言わなくなって
しまった...。
それで、みなみは、とうとう堪えられなく
なってこう言った。
「...あの、質問したんだけど?」
「え?」
「私、今、あなたに質問したんだけど...?」
「え? あ、はい、す、すみません!」
と、文乃は、再び、びっくりしたような顔をして、
頭を下げて謝った。
ところが、そのときだった、不意に「あ!」と
声を上げた文乃が、みなみの後ろに目を
やった、それで、みなみも、つられて後ろを
振り向いた
のだが、その瞬間、文乃が、いきなり向こうへ
向かって駆け出した。
文乃は、そのまま、みなみのもとから、
逃げていった。それは、あっという間のできごと
だった。声をかける いとまもないくらいで、
みなみは、ただ呆然と、文乃の背中を見送る
のみだった...。
そのため、みなみは、仕方なく、キャプテンの
「星出純」に尋ねてみた。すると、彼も言い
にくそうにしていたが、しぶしぶという感じで、
教えてくれた。
それによると、ことの発端は、夏の
大会にあったそうだ。
夏の大会で、ピッチャーの慶一郎は、
監督の加地に、降板させられたのだそうである。
その交代のさせられ方に、納得が、
いかなかったらしい。
というのも、慶一郎は、確かに点を
取られはしたけれども、きっかけは、野手のエラー
だった。だから、慶一郎としては、交代
させられるいわれはないと、
考えていたのである。
ところが、そこであっさりと交代
させられてしまった。
それ以来、ずっと、くさっている
のだという。今の態度は、そこから
来ているのだろうと、言うことだった...。
備考:この内容は、
2011-1-26
発行:ダイヤモンド社
著者:岩崎夏海
”もし高校野球の女子マネージャーが
ドラッガーの『マネジメント』を読んだら”
より紹介しました。