「筒井康隆氏の小説」の解説.... | Q太郎のブログ

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俺に関する噂 に対する画像結果

 

 

 

 筒井康隆氏の小説は、男性の一人称で

 

書かれることが多いが、その時の人称代名詞は、

 

ほとんどの場合、「おれ」もしくは「俺」である。

 

 

 

 「わたくし」もしくは、「私」が使われることは、大変少ない。

 

三人称の「彼」で、書かれることもあるが、その場合でも、

 

主人公の独白部分になると、必ず「おれ」に

 

なる。

 

 

 

 

 筒井ファンの私などは、筒井作品といえば、

 

まずさっきに、「おれ」という言葉が、条件反射

 

のようにパッと浮かび上がってくる。 ウインク キョロキョロ 爆笑

 

 

 

 

 快作「おれに関する噂」(1972年)にひっかけて言えば、

 

要するに、筒井氏の作品は、ことごとく

 

「おれに関する物語」。

 

あるいは、「おればかりに関する

 

物語」なのだ。

 

 

 

 

 その理由は、私たちが自分の心の中を、

 

ちょっと覗きこんでみれば、はっきりする。

 

私たち男性が、心の中で自分のことを考えるとき、

 

その主語は、たいてい「おれ」になっている。

 

 

 

 

 「そんなことはない。私の場合は、心のなかでも

 

「わたし」だ。「いや、ぼくだ」という反対の声も

 

あるかもしれないけれど、あまり信用できない。

 

 

 

 

 この世を生きぬいている1人前の男なら、

 

心の中の自分にまで、折り目正しい「わたし」とか、

 

カマトトめいた「ぼく」などと、いう言葉を使う

 

ことは、まずない。 デレデレ ラブラブ

 

 

 

 

良識とか、他人への配慮と

 

いった枠をひとまず取り外したとき、私たちの心の

 

底に、ぬっと立っているのは、いつも荒々しく、

 

本能的な「おれ」である...。

 

 

 

 

 だから、常にまぎれもない悪漢としての

 

「おれ」を通して展開する筒井氏の作品は、すさまじい

 

本音の世界であり、自己保存の欲望ばかりが、

 

まばゆく光輝きながら、メカニックに跳びはねる。 ロボット パック ハッ

 

 

 

 

 お行儀のいい建前と理想主義は崩れ落ち、

 

元気一杯の本能と欲望によって、見るも無残に

 

踏み砕かれる、ここでは、愛情とか人情といった、

 

いわゆる情の世界も、ほぼ完全な撤退を

 

強いられる...。

 

 

 

 

「真実の文学」と、題した筒井氏も宣言めいた

 

短い文章が、私は大変好きだ(別冊奇想天外

 

第3号・1977年)。これほど見事に、簡潔に、

 

しかも、攻撃的に、筒井氏が自分の世界を要約

 

したことも、珍しいと思うので、

 

あえて全文引用しよう。

 

 

 

 

 

<人類はみな平等。愛。「わたしは嘘を申しません」。

 

性善説。「戦争はゴメンだ」。まごころ。

 

先人を敬おう、不幸な人に愛の手を。/

 

こういうものはみんなUSOであり、それをUSOと認識した 

 

ところがドタバタ、スラブスティック、

 

ハチャメチャSFは始まる。/人間は差○が好きで、

 

○欲に生きている。

 

 

 

USOをつかねば生きられず、  UFO 地球

 

悪いことばかり考える。戦○は大好きである

 

(平和運動は戦争の第1段階だ)。

 

 

 

裏切りこそ、繁栄につながり、老人を馬鹿にしても、早く○ねと

 

思い、不幸なやつがいるために自らは幸福だと、

 

言って喜ぶのである。/この真実を、今やSF以外の

 

文学は、描こうとしない。

 

 

 

 否、描けない、

 

自らが、そうした虚構の中に取り込まれて

 

締まっているからだ。ただ1つ、下等にして下品に

 

して、半気ちが○で嘘つきと思われていて、

 

 

 

そして何者からも自由な、ドタバタ、スラブスティック、

 

ハチャメチャSFのみが、この真実を

 

描き得るのである。>

 

 

 

 

 

 この文章を読むたびに、私は、実に愉快な

 

開放された気分になるのだが、世の中には、こういう

 

毒のあるユーモアを、まるで受け付けないタイプの

 

人たちもいる。この点、筒井文学に関しては、

 

熱烈な支持派に言わせると、筒井氏の

 

描く人間は、あさましい限りで、実に身も蓋もない。

 

 

 

ということになる。だが、いうまでもないことだが、

 

あさましく身も蓋もない冷厳な現実から

 

出発しない限り、文学も指導も脆弱なものだし、

 

本当に奇想天外な飛躍もできはしない。

 

 

 

 この本におさめられた7編の短編には、

 

いずれも筒井氏「真実の文学」の典型といってもいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ことに「日本以外全部沈没」(1973年)は、

 

筒井氏らしい奇想と体質が如実に伺われる好編で、

 

小松左京氏の「日本沈没」のパロディでありながら、日本 ダウン

 

これはもう、筒井康隆の世界以外の

 

何者でもない。

 

 

 

 何よりも、世界中で日本以外はすべて沈没し

 

世界中の指導者、有名人が、

 

生きのびるために日本人の足もとに、ひれ伏すという ガックリ 

 

発想がすごい。

 

 

 

「筒井式弱い者」いじめのおかしさに

 

私たちは、笑い転げるが、同時に、これを

 

笑う私たち自身のうちに抜きがたくある欧米人

 

コンプレックスが、作者によって、痛烈に風刺されている

 

ことにも気付かされた。

 

 

 

 

 「村井長庵」(1973)は、筒井氏好みの、

 

悪漢の水際立った悪役ぶりが楽しめる。ほぼ同じ

 

時期に発表された、同じような悪漢を主人公にした

 

井上ひさし氏の戯曲「藪原検校」(1973年)

 

と読み比べることによって、同じ喜劇の作家でありながら、

 

この2人の世界の違いを

 

考えてみるのも、おもしろい...。 笑い泣き 笑

 

 

 

 

 表題作の「農協月へ行く」(1973年)も、秀作である。

 

 

 

 浅ましさの権化ともうべき成金の

 

農民たちが、滑稽にして痛快な悪漢として活躍し、

 

ついには月面で、人類初の異星人との最初の接触

 

(ファースト・コンタクト)に成功するという

 

奇想天外な物語で、

 

末尾の一行の落ちも、効いている...。

 

 

 

 

「進行性置遅感症」(1973年)は、カトリックの プレゼント

 

禁欲的な女性教師のうちで、「おれ」が爆発的に

 

目覚めるという、いかにも筒井氏好みの趣向だが、

 

これを冷感症ならぬ「遅感症」としたひねりが

 

卓抜である。

 

 

 

 

 ところで、こうした筒井氏「真実の美学」が、

 

人間と世界に関するすべての真実を包含しようと

 

するものではないことも、言い忘れては

 

ならないだろう。筒井氏の「真実」は、おそろしい

 

までの、抑制と、限定から生み出されている。

 

 

 

 

 たとえば、筒井氏の作品においては、愛や

 

豊饒さや聖性といった要素、悲劇につながる

 

あらゆるものは、いつもきわめて注意深く排除されている。

 

聖性、成長のベクトルが、とりはずされている。

 

 

 

 

人間と人間を結びつける絆は、意識的に切断され、 ハサミ 雷

 

すべての人間は、自己保存の本能だけを

 

ふんだんに抱えて孤独である。疎外は、ここでは、

 

永遠に癒やされることのない人間の冷厳な

 

常態である...。

 

 

 

 

 

 エリザベス・シューエルが、ノンセンス文学を

 

定義してのべた言葉、(ノンセンス詩人と

 

してのキャロルとエリオット)を援用するなら、

 

筒井氏の文学にとって、(総合を求める傾向は

 

不毛)の上に成立している、言い換えるなら、

 

「厳重なルール」を堅持することによって、

 

はじめて、筒井文学は成立する...。

 

 

 

 

 氏の「禁欲」ぶりを、うかがう例を1つ引こう。

 

「国境線は遠かった」(1969年)の終局に

 

近い一節である。

 

 

 

 

 

 

 

<これは、ドタバタだ、と、おれは思った。 自転車 ドンッ 車ハッ

 

この空虚なドタバタの行き着くはてに、何が待って

 

いるのか、いや、いや、そう考えてはいけない。

 

その考え方は、もっとも安易な理想主義だ。

 

 

 

 

急遽なドタバタの果てには、何もあるはずがないのだ。

 

そして、それが、事実なのだ。何もないからと

 

いって、ドタバタから目をそむけるべきか?

 

不愉快そうに顔をそらすべきか?否...

 

 

(中略) 目をそむけてはいけない。

 

目をそむけてはいけない...」(得点=引用者)

 

 

 

 

 ここで、筒井氏は、明らかに、何事かを、

 

語り出そうとした。「空虚なドタバタの行き着く果てに

 

待つものについて」

 

内面から語りだそうとした。

 

 

 

 

だが、その瞬間に、氏の口を封じ、 キスマーク

 

たちまち「いや、いや、そう考えてはいけない」と

 

書かせたものは、氏の中にある「厳重なルール」

 

意識である。

 

 

 

 

もし、氏が、こうした問いに対して、

 

内面的な真実、いわば深層の真実で語り出した

 

とき、完璧なまでに、表層の真実でおおいつくす

 

ことによって、成り立っている筒井氏の文学は、

 

ルールが乱れた遊戯同様、たちまち崩壊してしまうに

 

違いないからである。

 

慧眼な筒井氏は、

 

それをあまりにもよく知っている...。

 

 

 

 

 

 しかし、だからといって、この限定つきの

 

「真実」のために、筒井氏も文学の狭さを、問題に

 

するのは当たっていない。

 

 

 

 それどころか、断固たる

 

「限定と不毛:の視点を選ぶことによって、

 

世界は奥様に鋭い驚異の姿で、私たちの眼前に

 

ひらけてくる。

 

筒井氏の奇想と、その攻撃的な小児性に

 

よって、世界は残酷に若返る。おじいちゃん お父さん 赤ちゃん 立ち上がる

 

 

 

G・K・チェスタトンのいう通り、「芸術は限定」そのものだ。

 

 

 

 だが、先きに引用した一節にたどるなら、

 

「そう考えてはいけない」と考えることは、それとは

 

逆の方向、つまり「そう考えてもいい」

 

方向の存在を暗示することでもある。

 

 

 

 

作品の中で厳密に「限定と不毛」を運ぶ筒井氏は、 走る人  美容院

 

あるいは、日常生活においては、逆に、もっともよく

 

「そう考えてもいい」世界に生きている人かも

 

しれない。少なくとも、エッセイ集「狂気の沙汰も

 

金次第」(1973年)などから、伺がわれる氏の、

 

もうひとつの顔は、氏自身の表現に従えば、「狂気に

 

あこがれている」「常識的な人間」のそれである...。

 

 

 

 

 

 だが、作品の内部に身を置く時、氏はすさまじい

 

までの苦行と、禁欲の人になる。多くの作家

 

たちと違って、氏は内部の真実に関する

 

すべてのことを抑圧し、ひたすらスラブスティックで

 

狂騒的な軽みを装う、いや、むしろ筒井氏の

 

作品のただならぬ狂騒ぶりは、深層の真実への

 

ただならぬ抑圧ぶり、その断固たる沈黙に

 

見合っているというべきかもしれない。

 

 

 

 その点において、

 

奇妙に聞こえるかもしれないが、私には、

 

筒井氏の作品は、むしろひどく厳粛な文学に

 

思われるのだ。決して語らない事によって、かえって、

 

語らぬものの、存在と重要さが、オボロゲに

 

察知される...。

 

 

 

 

 いや、正確にいえば、筒井氏は、そういう

 

世界を決して語らなかったわけではなかった。

 

 

 

 たとえば、「母子像」(1969年)では、氏のきびしい 歩く 指差し

 

抑圧の壁の中から、深層の世界が、まるで一筋の

 

光のように漏れてくる、主人公の歴史学者の

 

妻と赤ん坊は、ともに永遠に首をうしなったまま。

 

ひっそりと薄暗い茶の間で、抱き合いながら、

 

生き続けている、

 

 

 

そんな妻と子を、いとおしむ主人公は、

 

一度だけ、闇の中に、つかの間の幻のように浮かび上がる

 

妻子の顔を見る。

 

 

 

 

「妻は青ざめた目を閉じていた。そして、

 

おそらく、抱きしめているのだろう。

 

 

 

赤ん坊の頬に、頬を押し当てていた。赤ん坊は、眠っていた。

 

その寝顔は、可愛かった、まるで、名画の中の

 

母子像のように、それは美しかった。

 

私は、はげしく胸を打たれた」

 

 

 

簡潔で、さりげない筆至である。だが、このとき、

 

文中の、「名画」は、確実に聖画の

 

趣をおびて、私たちに迫っている...。 びっくり ビックリマーク

 

 

 

 

 

 

 

備考:この内容は、

昭和56-2-10

発行:角川書店

「筒井康隆著:農協月へ行く」

あとがき

扇田昭彦著:解説

より紹介しました。