「おいおい、シナトラが東海林太郎の
ナンバーを歌い出したぜ!」
オレと、並んでカウンターで
飲んでいる古賀が、そう言った。
そう言えば、たしかに、シナトラの声である。
オレは、首を伸ばして、フロアーの隅を眺めた。
ごった返している「クラブ・ミルト」の片隅の、
小さなステージに立ち、
ワイヤレス・マイク片手に、
覚えてきたばかりの、たどたどしさで、「赤城の子守唄」を
唄っているシナトラは、皺だらけの顔に
せいいっぱいの愛想笑いを浮かべていた。
「ヤマノ、カラスガ、ナイタトテ...」
「こわもてしなくなったシナトラに
魅力はないよ」
と、オレは言った。
「老後が不安なんだろう?」 古賀は、小気味
よさそうに言った。
「歌えなくなったら、日本を
追い出されるかも、しれないものな...?」
おそらく、追い出されるだろう。と、オレは
思った。あの歳では、日本語を覚え、日本の生活
様式を身に付けて日本人に同化するのは、まず
無理である。
だが、日本政府は、日本国内に入国を
許可された外国人たちのうち、3年経っても日本に
なじまなぬ者は、強制的に国外へ追放する方針だった。
「で、日本に馴染んだかどうかは、どうやって
テストするんだろう?」
「さあね?」古賀は、首をかしげた。
「都々逸でも歌わせるさ」
「箸で、冷奴が食えるかどうか、試してもいいな」
古賀は、ゲラゲラ笑った。「日本式便所で○○を
させてみる。あっ、もっといいことがあるぞ。
日本の早口言葉を、喋りながら、羽織と袴のヒモを
結ばせるっていうのはどうだ?」
「それは、日本人でも。できないやつがいるぜ。
特に若いやつなんかは...」
オレがそう言った時、古賀の横で飲んでいた
初老の外国人が、ため息をついた。
「アマリ、カワイソウナコト、イワナイデ クダサイ」
見たことのある男だな。と思ってよく見ると、
ポンピドーだった。さすが、大統領だけあって頭が
よく、すでに日本語をマスターして
しまったらしい...。
「オイダサレテハ、イクトコ アリマセン」
「チベット高原、パニール高原、それに
キリマンジャロの山頂、アンデス山脈の、2、3箇所は
まだ、沈没していませんよ!」
古賀が、意地悪く言った。
「アンナトコロ、ユケナイヨ」
ポンピドーは、
悲鳴混じりに叫んだ。
「ヤバンジン、ウヨウヨ、
アツマッテ イル」
オレの右隣りで、さっきから飲んでいたインディラ・
ガンジーが、酒の肴に近所の店から取り寄せた
朝鮮焼き肉を食いながら言った。
「あそこじゃ、○しあいを、してるんですってね?」
オレはビックリして、彼女に注意した。
「あなた、それ、牛肉ですよ!」
「あら、人間の肉を食べるよりは ましよ!」
チークの厚いドアをあけ、毛沢東と、
周恩来が、店内をのぞきこんだ。
「よその店へ行きましょう」
周恩来が毛沢東の袖を引いた。
「蒋介石が、きています」
「くそ!」
2人は、さっさと店を出た。
「ねぇ、お願いしますよ」
すぐ、後ろのボックスにいる
ローマ法王は、一緒に飲みにきている
日本人官僚の1人に、しきりに頼みこんでいた。
「上野公園をくださるよう、官僚の誰かに
とりなしてください」
官僚は、苦笑いした。
「あそこを、バチカン市国に
するって言うんでしょ? 同じくらいの広さだからな。
だめだめ。それはあなた。あまりに
厚かましいですよ!
どんな小さな国に対しても国土は
分割できません。どうも小さな国ほど、領土への
執着が大きいようだ。昨夜も、グレース皇紀が、
昭和島をくれと言って...。私の寝室へ忍びこんできた」
「そうとも、やることはありません!
隣りのボックスで、盗聴していたニクソンが振り返り、
女声で言った。
「我が国の850万人が、今も、
相模湾の沖で、1200隻の船に乗って入国させて
もらえるのを、待っているんですぞ。領土をよこせ
などとは、あまりに、神をおそれぬ欲深さです」
その船の半数では、○し合いが始まっている!」
酔っ払ったキッシンジャーが、泣き声で
言った。
「それを思うと、とてもこんな所で、
飲んでいられる気分ではない。しかし、飲まずには
いられないのです。飲む以外に、することがない、
毎晩、ホテルと西銀座を、往復する以外、日課が
無いということは、なんと情けない、情けない」
わあわあ泣き始めた。
「無くな、無くな。その代わりいいことも
あった」と、ニクソンが、慰めた。
「黒人を
1人も船に、乗せなかったのは、お手柄だ」
「あちこちで海戦が始まっているそうだぜ!?」と、
古賀が、ささやいた。
「食料の奪い合いだ。
いちばんひどいのは、室戸岬南方の海上で、入国許可を
待っていたスエーデン、ノルウェー、
デンマークの船の連中で、ほとんど共倒れになったらしい」
「バイキングの子孫同士で争ったわけだな?」
オレはつぶやいた。
「北海道の方は、どうなんだ?
カラフトやカムチャッカの方から、スラヴや
ツングースが、なだれこんできたらしいが...?」
オレは、社会部の記者だが、彼は政治部なので、
そういった情報には詳しく、キャッチするのも
早い...。
「北海道方面隊と、第2航空団が、出動してやっつけてる。
皆○しだ」
古賀は、そう言った。
「○りくには、アイヌも手を貸している...」
備考:この内容は、
昭和56-2-10
発行:角川書店
著者:筒井康隆
「農協月へ行く」
より紹介しました。