第1章 ①
カーブをまわると、突然、森が切れた。
谷川と山腹とに、はさまれた山道である。流れの
向こうにも針葉樹が密生しているので、これまでは
トンネルをくぐっているようなものだったが、
そこまで来ると、ふいに、目の前が明るん
だのである。
剃刀でそいだように、山腹の樹木がなくなって
いた。道は緩やかに弧を描いて、運転席から
見ると、木のない山の斜面は、ちょうど正面に
見えた。さほど急な斜面ではない。上のほうは
かなり急だが、傾斜は、しだいに緩くなって
道路に落ち込んでいる。
そこに、●骨が散らばっていた。マッチの棒を
ばらまいたように、●骨が山の斜面に
散らばっていた...。
室井理々子は思わず息を呑んだ。彼女が●骨だと
思ったのは、ほんの一瞬のことで、こんな
ところに、しかもこんなにたくさん、●の骨が
残っているはずはないと、じき、思い直したものの、
理々子の眼には、はやり●の骨のように見えた。
でなければ、獣の骨だ。晩秋の午後の陽が落ちて、
山腹は、白々と光っていた...。
理々子は速度を落とし、注意深く、車を走らせて
行った。道幅が狭い上に、正面の山腹に眼を
奪われがちで、うっかりすると、谷川に落っこち
そうである。
近づくと、獣の骨ですらなかった。倒木が
山の斜面いっぱいに、散乱していたのである。
昭和29年、洞爺丸を沈めた台風は、
大雪の山塊にぶつかって、おびただしい風倒木を出した。
理々子にもその程度の知識はあったが、
何しろ10年以上も前の話である。また彼女は、
大雪の山中には、行ったことがないので、倒木が
多いことなど、考えてもみなかったのである。
ここも、嵐の通り道だったのであろうか?
流れの側の樹木が無事なところを見ると、風は山の
斜面にだけ、ぶつかったのであろうか?
大木がほとんどだが、
小枝も散乱しているように見える。
長いあいだ、風雨にさらされていたことを物語る
ように、倒木の色素は抜け落ち、白く枯れ
切っていた。
理々子は車を停めて、こわごわ山腹を見上げて
いたが、あわててギアをいれた。骨でなくとも
薄気味悪かった。理々子は逃げるようにスピードを
あげ、2kmも先に進んで、やっと車を停めた。
手袋の中の手が汗ばんでいた...。
理々子は手袋を脱ぎ捨てて、車の窓を少し
開けた。冷気が流れ込み、彼女はほっと息を
つくと、タバコを取り出そうとしてグローブボックスに
手を伸ばしかけた。が、その手はそのまま
途中でとまった...。
睡眠薬がそこに入っているのである。
包装が、それぞれ異なる睡眠薬の箱が6個だ。理々子は、
途々6軒の薬屋に寄って、睡眠薬を買い集めて
来たのである...。
グローブボックスを見ているうちに、理々子は
腹だたしくなってきた。自●を考えている人間が、
たかが倒木くらいで、あんなにも怯えるものだろうか?
彼女には、自分のあわてようが、
みっともなく、滑稽に思えた。
だいたい、札幌を出た時、理々子には、●ぬ気は
毛頭なかった。大雪まで足を伸ばすつもりも
なかった。好天に誘われて、理々子は、どこという
あてもなく車を出したのである。
土曜日の朝だったが、仕事はなかった。
明日の日曜も仕事がない。商業デザインの仕事をして
いる理々子は、週末に休めるとは限らない。
仕事の切れ目が、すなわち彼女の休日という
わけだった。
夫の留守も、彼女の気持ちを軽くしていた。
夫の克郎は、2日前から東京に出張していた。克郎は
女好きだから、旅に出ると危ないものだった。
克郎の浮気に、初めて気づいた当座、克郎が
旅に出ると、理々子も人並みにいらだったものだが、
しかし、それは何年も前の話だ。今では、克郎が
出張すると、理々子は、むしろせいせいし、
独身時代に返ったように、気持ちの若やぐのを
感じるのだった。
理々子は、石狩平野を、東に向かって車を走らせた。
それは、旭川へ通じる国道で、舗装された
気持ちのいい自動車道路である。
空が高かった。刈り入れの終わった野は、金茶色に
輝き、その果てに空知の山々が、くっきり姿を
あらわしていた。
「遠くに行きたい」と、理々子はつぶやいた。
あの向こうには、さらに美しい山がある。
大雪の山々が北海道の中央部を領して、重畳と
連なっている。久しぶりに山を見るのも
悪くなかった。
理々子は、なかばスピードに酔っていた。
とばすのが好きなのだ。彼女の運転は、女性には
珍しく大胆敏速で、国道を通るときは、
いつも制限速度ぎりぎりのスピードで
車を走らせた。
赤や青や金色の紙の星が、車の後方に
ひらひら流れてゆくようだった。それは、つい前日、
彼女が菓子屋に届けたクリスマス用の包装紙
から抜け出した星である。
5日前に届ける約束で
あったのが、どういうわけか、いいアイデアが
浮かばず、ようやく昨日になって届けることが
できたけれど、それも決していい出来とは言えず、
また、注文主の方も満足ではなかったようだった。
温厚な支配人は、別に文句は言わなかったが、
理々子には顔色でわかった。
「いいでしょう」と、支配人は短く言った。
そこは、札幌では名の通った老舗で、理々子は
その店のパッケージを、一手に引き受けてきた
のだが、この調子が続くと、やがてはその店の
仕事を失うことになるかもしれない。この前の仕事も
よくなかったのだ。
しかし、そんなことが、自●の原因になならない。
デザイナーとして理々子は、10年近くの経験を
積み、少々不調でも、パッケージを描かせては、
彼女にかなうデザイナーは、札幌にはいなかった。
夫の品行にしても同じである。克郎は、
水商売の女を相手に適当に遊んでいるようだが、
決まった女と続いている気配はなかった。
要するに浮気で、その分だけ克郎は、理々子の機嫌を
取るのに、骨を折っていた。こんなことで●なねば
ならないとすれば、世間の細君の大半は、●ななければ
ならないことになる...。
備考:この内容は、
昭和58-5-15
発行:新潮社
著者:原田康子
「北の林」
より紹介しました。